「人の心を傷つけるような表現」をあえて護らなければならない理由

表現の自由を脅すもの

 サルマン・ラシュディの悪魔の詩事件と、この翻訳者殺害事件は、私がおよそこの手の問題に関係する本の中でもっとも強く薦める『表現の自由を脅すもの』にも特筆すべきものとして扱われていた。残念だ。

 2月のムハンマド風刺画事件の時も、私が知る限り日本のマスコミは皆「人の心を傷つけるのはよくない」的な触らぬ神に祟りなしの姿勢を貫いた。

 表現の自由が保証されることなしに存続できないマスコミからしてそんな体たらくでは、五十嵐一氏も報われまいと思ったのを憶えている。

 風刺画事件関して表現の自由とからんだまっとうな議論に行き当たったのもムハンマドの風刺画(1)フランスのメディアはなぜ火中の栗を拾うのかぐらいしかなかった。*1

 表現の自由の概念が持つ意味について理解している人は少なく、多くは「表現の自由」とは「政府が報道を規制すると大本営発表になっちゃうからだめだよ!」ぐらいのものだとしか思っていないのではないかと思われた。

 中国にも共産党が気を悪くしないような表現の自由はあるし、北朝鮮にだって金正日将軍の心を傷つけないような表現の自由はある。誰も傷つかないような表現は誰も弾圧しようとは思わないのだから、最初から自由を保障する意味などない。

 「表現の自由」とはまさに「(誰かが)許されるべきではないと思うような表現の自由」に他ならない。

 ではそもそも「許されるべきではないと思うような表現」を保障しなければならないのはなぜかという疑問を持てる人には『表現の自由を脅すもの』を読んでもらいたい。さすがに1エントリに書ききれるようなものではない。

 しかしあえてひとつだけ言うならば“人の心を傷つけてはいけない”という一見文句のつけようのない原則がうまくいかないのは、人の心が基本的に善良なるものであるという性善説に基づいているからだ。これは全然正しくない。

 むしろ人は間違ったことよりも真実の方に心が傷つけられる事が多い。たとえば魂の救済を説く宗教家と魂などないという大脳生理学者が対立したとする。どちらの意見が人の心を傷つけるものか、どちらが処罰されるべきか、誰がどうやって決めるというのか。

 それを自分(たち)以外の誰かに任せて安心して眠れる人間はいない。結局“人の心を傷つけてはいけない”と強調すると「みんな」*2に気持ちの良い嘘が力づくでまかり通る社会にならざるをえないのだ。

*1:もちろん探せばもっとあったのだろうが。
*2:という名の多数派あるいは権力者。

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