野口悠紀雄『「超」整理法―情報検索と発想の新システム』

「超」整理法―情報検索と発想の新システム (中公新書)

 あまりにも有名なので、読んでいないにも関わらず超整理法そのものは知っており、すでに実践もしているのだが、やはり一度は原典に当たってみようと読んでみた。

 当時(93年初版)のパソコン事情などがかいま見えて思った以上に面白かった。

 超整理法の要点は簡単で“分類などせずに最近使ったものから順に時間軸で一直線に並べればなくすこともなく合理的な時間で検索できる”というものだ。

 今では多くのソフトで「最近使ったファイル」という機能があるので、物心ついた頃からそれに慣れ親しんでいる人は、それを「整理法」だと意識することすらないのではないだろうか? 大げさかもしれないが一種のパラダイムシフトを見る思いがする。

 他にも情報を捨てずにパソコンで情報を全検索できることの利点について考察していたりして、物心ついた頃からgmailを当たり前に使うようなもっと先の世代が読むとどう感じるのか興味がある。本筋とは関係ないが、最後の章のこの部分、

 漢字は、東洋文化圏に課された大きな桎梏と考えられてきた。漢字の学習のために貴重な勉学時間を裂かねばならぬだけでなく、(中略)また漢字ではタイプライターの利用が困難だから、日本語の表記をかな文字化しようという論者さえいた。
 しかし、漢字かな混じりの文章は、キーワードが漢字になっているためすぐ分かるという点で、きわめて優れた側面を持っている。(中略)ワードプロセッサの普及によって、後者のメリットが前者のデメリットを凌駕するようになった。二十一世紀においては、日本語や韓国語こそ、もっとも効率的な表記体系と見なされるだろう。
 (中略)だれもがワードプロセッサを使うことを前提とすれば、漢字を読むことと書くことを同等に教えるのではなく、前者に比重を移すべきだろう。

 私も全く同じ事を考えたことがある。日本語や韓国語の表記体系が優れているかはまあいい。個人的には予見しうる未来においてIMEはより進歩し、速読の必要性は減らないであろうから、たぶんそう言えそうだと思うが、だからといってどうなるものでもない。

 ただ漢字教育の比重を書きより読みに移すべきというのはほとんど自明だと思うが、そんな話は聞いたことがない。実際どうなっているのか気になる。

おまけ

 せいり違い、というかZUN素の人は病気すぐる。(セクハラ注意!)

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