フリーマン・ダイソン『宇宙をかき乱すべきか〈上〉』

宇宙をかき乱すべきか〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 星新一フリーマン・ダイソンは、いつ読み返しても何かしら新しい発見がある。

 停電ネタで星新一を続けてやったので、今度はダイソンの自伝『宇宙をかき乱すべきか』の上下巻からそれぞれ一箇所ずつ抜粋する。まず上巻から原発についての話題を。

 要約すると、巨大さそのものがひとつの失敗だという意見だ。『多様化世界』の中の「迅速を尊ぶ」の章にも近い意見がある。

 ちなみに、1979年の本なので、福島原発事故はもちろん、地球温暖化問題のクローズアップによる原発再評価よりも前で、チェルノブイリやスリーマイルよりも前であることに留意。

9 小さな赤い校舎

 原子力発電は、どこが間違ってしまったのか? 一九五六年にフレディが私を原子炉の研究に招いたとき、私は人類に安くて無限のエネルギーを提供するこの大事業に自分の才能を発揮する機会がきたと躍り上がった。エドワード・テラーその他あの校舎に集まった人たちはみな同じように思った。ついに私たちは、核エネルギーを爆弾の製造よりいい目的に使う方法を獲得しつつあるのだ。ついに私たちは、原子力で何か善をなしつつあるのだ。ついに私たちは、人類の労苦や貧困をなくすための大量のエネルギーを世界に供給しようとしているのだ。この私たちの夢はどこが間違ったのか?

 この間いに対しては簡単な答はない。多くの歴史的な力が合わさって、原子力の開発を私たちが期待したよりやっかいで金のかかるものにしてしまった。もし当時私たちがもっと賢明であったなら、三〇年間の満たされない夢の後に新しい世代の若者や政治家が出てきて、原子力をわなとみなし、そのわなから私たちを解放するのが自分たちの使命だと考えるに至ることを、私たちは予見しえていたかもしれない。三〇年昔の夢が今日の若者に共感を呼び起こさないのは、しごく当然である。若者を前進させ続けるには、新たな夢が必要である。原子力を取り巻く政治的雰囲気があの小さな赤い校舎の時代以後に明白に悪い方向へ変化した理由を、一般論で理解するのは容易である。しかし、私の信ずるところでは、今日の原子力産業を悩ましている困難の多くは、もっと特殊な理由のためである。それは、原子力産業そのものの内部に、あの校舎の精神がなくなってしまったことである。

 原子力産業が抱えている根本問題は、原子炉の安全性ではなく、廃棄物処理でもなく、核兵器拡散の危険でもない。これらのはどれも現実であるにせよである。原子力産業の根本的問題は、もはや誰も原子炉をつくるのになんら面白味を感じなくなったことである。今日の条件の下では、一群の熱狂家が一つの校舎に集まって一つの原子炉の設計・建設・試験・認可取得・販売を三年間で達成するなんてことは、とても考えられない。一九六〇年と一九七〇年との間のあるときから、この産業のなかから面白味が失われてしまったのである。冒険家や実験家や発明家は追い出され、経理士と経営家が支配するようになった。民間企業のなかばかりか、ロス・アラモスやリヴァモアやオークリッジやアルゴンヌの国立研究所でも、非常にさまざまな型の原子炉の建設や発明や実験に取り組んできた若い有能な人々のグループが解体された。経理士たちや経営家たちは、有能な人々を奇妙な原子炉で遊ばせておくのは能率的でないと断定した。そこで奇妙な原子炉は消えうせ、それに伴い既存の型の原子炉の枠を超えた根本的な改良の機会も消えうせた。今日残って運転されている原子炉はごく少数の型にかぎられており、そのどの型も巨大な官僚機構の中に凍結されて重要な改良がまったく不可能になっており、どの型も種々の点で技術的に不満足なものであり、どの型も以前に放棄された他の多くの可能な型より安全性が劣る。もはや誰も、原子炉をつくるのに面白味を感じない。あの小さな赤い校舎の精神は死んでしまった。私の考えでは、これが、原子力発電における誤りであった。

(中略)

 経済的な原子力発電所を開発しようとする世界的努力のなかで、今までに一〇〇種に満たない型の原子炉が運転されてきた。開発される原子炉の種類の数は、諸国の政府当局が経済的理由から冒険的な型を排除するにつれて、絶えず少なくなってきた。今日では、生き残れる望みのある型の原子力発電装置は約一〇種類しかない。しかも、現在の状況の下では、なんらかの根本的に新しい型が公平に試験されることは不可能である。これが、原子力発電装置がオートバイほど成功していない根本的な理由である。われわれは、一〇〇〇種もの違った型を試してみる忍耐力をもたなかった。その結果、本当に良い原子炉は発明されなかった。おそらく技術の世界でも、生物の進化と同様に、浪費が効率への鍵なのである。どちらの領域でも、小型のものは、大型のものより容易に進化する。鳥は進化したが、鳥の従兄弟の恐竜は絶滅した。

 原子力発電の未来に希望はあるだろうか。もちろん、それはある。未来は予測しがたい。政治的な雰囲気や流行は急速に変化する。変わらない一つの事実は、人類は石油を使い尽くした後も莫大な量のエネルギーを必要とするだろうことである。人類は、なんらかの仕方でエネルギーの生産をしようとするであろう。その日が来たとき、人々はわれわれが現在建設しているものより安価で安全な原子力発電炉を必要とするであろう。おそらくそのときになれば、われわれの経営者や経理士たちは、小さな赤い校舎に一団の熱狂家を集めて、彼らにいろいろやってみる自由を与えるだけの知恵をもつであろう。

おまけ

 かき乱す→ミキサー。

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    そういやラジヲマンの単行本が事故直後ぐらいに出る
    予定だったんだよな。さすがに延期されたようだが。
    これも芸術的な間の悪さ。

    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022508183/

  2. haostin より:

    原子力と軍需関係の技術に関しては・・・
    あさりとよしお「ラジオマン」じゃないけど、熱意があればいいってもんじゃないところが難しいですけどね。
    もしかしたら、原発事故でスタッフがみんな逃げたようなモラルの低い事は、もっと最悪なことに比べたらたいしたことないのかもしれないですし。
    原子力発電が単に、オイルショックのせいで「オイル使わなければいいんじゃね?」という勢いでつくっちゃったモノであるならそろそろ見直した方がいいですし。

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