いつかの生産性の議論ってそんな難しい話だったのだろうか

マンキュー経済学I ミクロ編(第3版)

 というエントリが好きで、今でも年に一度ぐらい読み返すんだが、そこから派生した生産性云々の議論ってそんなに難しい話だったのか? という疑問が毎回生じる。

 マンキュー経済学の最初の10大原理で、

第2原理:あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である。

 というのがある。

 オートメーション自動車工場や巨大発電所などの、単純な・絶対的な意味での「生産性」が凄まじく高い設備が、先進国にはあり途上国にはない。

 だから先進国で理髪師をすることは、多くの車や電力を放棄しているので、機会費用が高い。途上国では、相対的に放棄しているものが少ないので、安い。

 ……これで終わりじゃだめだったんだろうか? おそらく山形浩生(側の人々)は終わりでよいと答えると思っているが、なんでそうならなかったのだろう。私が何か見落としてるのか?

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