2016 3/7

だれもが偽善者になる本当の理由

 最近の話ではないが、『だれもが偽善者になる本当の理由』を読んだ時に思いついたこと。まだかなり曖昧というか本当に思いつきレベルの乱暴な話だが一旦まとめる。

 この本で提唱されている「意識の報道官モデル」というのは、意識の役割は大統領報道官のようなもので、大統領にとって不利な事実は知らない方がいいし、実際に知らされていない、というもの。

 基本的にいいところをついているように見えるのだが、これが本当に正しいとすると、同時に、かなり興味深いことを示唆すると思われる。

 意識とかアイデンティティとか日常的な概念で言われるもの、少なくとも言葉で自分のことを語れるような、なんとなく我々が人間性の本質だと見なしているようなそれは、従来思われていたよりも、ものすごく進化的に新しい可能性が出てくるのではないか?

 「自己」が一貫しているかどうかを気にする他人が誰もいなかったとしたら、「自分」の一貫性について誰かに弁明する必要が、生涯にただの一度もないとしたら、そもそも一貫した(と主観的に感じるだけかもしれないにせよ)何かを(実際に)持っている必要などあるだろうか?

 ないように思われる。

 「自己」とか「アイデンティティ」は、たとえその本質がなんにせよ魔法ではないはずだ。進化によってデザインされ、コストがかかる具体的な何かのはずだ。コストを正当化する理由が何かなければ作られず、維持されない。

 そして、一次元的に定義できるかは別の話として、アメーバは持ってなくて、人間は持っている。では、それはいつからだったのか。なんとなく連続的なもののような気がしてきたが、それが政治的にも正しいような気もしていたが、実はそうではないのでは?

 言語(噂)による他人の評価が行われたり、そこまでいかなくても、ある程度高度な心の理論を持ち、それによって他人を評価するようになるまでは、少なくとも現生人類と同じような意味の、「意識」は持ってなかった可能性の方が高いのでは?

 「自分は他人以上に他人である」というのは、単なるモラトリアムの文学的表現ではなく、まったく言葉通りの事実である可能性が出てくるのでは? つまり自分(自己・自我・自意識となんとなく呼ばれるところのもの)は他人(の心の理論)より進化的に新しい可能性が高いのでは?

 一年前の自分と今日の自分が同じ自分であるというような意味での「自分」という意識は、かなり最近――とは言っても数十万年から数百万年レベルの話だが――まで存在しなかったのではないか?

 まるで『神々の沈黙』の緩やかな、その代わりトンデモではない(かもしれない)バージョンと言おうか、そんな可能性が出てくるのではないか?

by 木戸孝紀 tags:


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