沖縄住民集団自決削除 文科相、書き換え容認へ

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 沖縄は高校の修学旅行で行った覚えがある。目良誠二郎っていうとてもいい先生がいたんだが、この人が東大でも学生運動を熱心にやってたらしい筋金入りの左翼だった。

 授業でそんな内容の番組をビデオで観ていて、なんか連署みたいなのに名前が書いてあるのが映って『これ先生じゃね!?』って生徒からツッコミ入りまくってニヤリって場面が今も思い出せる。

 おかげで修学旅行でも米軍基地見に行ったり(戦闘機の爆音って旅客機と違って防音考慮しないから本当にすげーんだわ)普通やらないようなこともいろいろさせてもらって面白かった。

 その影響か沖縄問題には今でもちょっとは興味があったりする。でも今回は原理原則の確認に留めておくことにしよう。例によってジョナサン・ローチ『表現の自由を脅かすもの』から。

 不正確に信じるということは、決して犯罪ではない。しかし、単に信じるというだけでは決して知識を持つということにはならない。

 別言すれば、自由科学は信じることを制限しないが、しかし知識については、これを制限する。それは、信仰と言論の自由を絶対に擁護するが、しかしそれは、知識の自由を絶対に否定する。つまり、自由科学においては、たとえどんなに誠実な意見であるからといって、それを知識として真っ向から認めさせるという権利は明らかにない。まさにその反対である。自由科学は一つの選択課程に他ならず、その使命は諸信念をテストし、それに失敗したものを排除することにある。知的自由体制は言う。もし君が月はグリーンチーズから出来上がっていると信じたいならば、それも結構。しかし、もし君がその信念を知識として認めさせたいならば、君にはしなければならないことがある。君はその信念を検証してもらうために、科学のゲームに参加させなければならない。それでもし君の信念が敗者となったら、それは科学の教科書には含められないであろう。それは多分、最も尊敬すべき知識人達によって、先ずまともには受け取られないであろう。自由社会においては、知識は――信念ではない――チェックする人達からなる分権化社会の、次々に生じる批判的コンセンサスであり、しかもそれ以外の何物でもない。そうであるのは、法律の力によるものではなく、共通の自由道徳のより深遠な力によるのである。

 勿論、君の信念がかの批判的コンセンサスによって斥けられたとしても、そのコンセンサスを拒否して信じ続けるのは、の自由である。それが信じる自由というものだ。けれども、君の信念が知識として学童達に教えられるとか、確立した知識体制によって受け入れられるということを期待する権利は君にはない。いかなる学校のカリキュラムも、制限的であらざるを得ない。制限的でない、つまり無制限ということはあり得ない。私が言いたいのは、カリキュラムの正しい作り方は、知識の教授を強調することにあり、しかもこの知識は、特定の個人(または集団)によるものではなく、徹底的にチェックし尽くされた主張からのみ成り立つものであるべきであるということである。誰かの政治的必要に役立つからといって、あることを知識として教えることは、絶対になされてはならない。我々は間違いないとされたことだけを教えるべきである。

 ルイジアナ州の立法者達は、スカリアの賛成を得、論争問題について双方の証拠が学生達に提示されるべきだとすることで学問の自由を保障しようとした。大変公正なように聞こえる。実際、既に述べたように、ロナルド・レーガン自身も創造論に同じだけの時間をという原則を支持し、ある調査によれば、アメリカ世論の四分の三がレーガンに同意した。しかし、学問の自由は、意のままに疑い、詮索し、検証し、信じるという自由をその特質とする。一方または他方が、詮索や検証のルールを勝手に設定し直すという自由にあるのではない。誰かが相対性理論は誤りで、ある他の理論が正しいと主張したいというのなら、勿論、そうして差し支えない。しかし、教師達(あるいは他の誰でも)に彼の言い分に耳を傾けろという法律を通したり、あるいは威嚇を用いたりすることは、調査研究の自由とは何の関係もない。関係があるのは、知識の中央集権的規制とである。批判的検証者達のコンセンサスが、進化論は検証に耐えられるが創造論はそうでないという考えであるならば、明らかにそう考えるに決まっているが、その場合にはそれこそこの問題に関する我々の知識なのである。

 では、誰が、批判的コンセンサスといわれるものの中身を決定するのか。批判的社会が決める。しかも批判的社会自身を議論の対象としながら、である。学者が「文献を入念に調べる」(つまり、これまでのコンセンサスを評価する)のに、時間とエネルギーを費やすのは、まさにこの理由からである。さらに彼らは、自分達の下した評価について議論する。こうしたプロセスは長くて骨の折れるものであるが、それはそれでいい。州で賄われている諸大学で、生物学部に創造論者達を入れろとか、大学の紀要の中でアフリカ中心主義者に反論のスペースを与えろと要求したりするとしたら、それによって学問の自由は向上するどころか、蹂躙されるであろう。州議会やカリキュラム委員会、あるいは他の政治団体が、何らかの特定の事柄を我々の知識にすべしとか、我々の知識として、同等の権利を持つようにせよと命じるならば、真理に対する支配を、検証する人々の自由社会から奪い取って、中央集権的政治権力の手中に置くことになってしまう。

 そして、それこそ非自由主義的である。政治団体が、我々にとって知識であるものとないもの、あるいはどの考えが採用されてしかるべきかであるかに関して発言権を持ち得るという原則が確立されるようなことになったら、それこそ警戒を厳にして油断してはならない。意見のある奴はどいつもこいつも忙しく立ち回るであろう。同一時間を与える法律を作れと議会に対してロビー活動をする者、生物学の本に祈祷を癌に対する代替療法として記述せよと要求する者、占星術の学部を作れと大学にピケを張る者、反駁のスペースを与えよと学術雑誌を告訴する者、脚注の引用に関しては比例代表制的考慮をしろとデモをする者等々。そうなると我々は、知識が投票や扇動で作られていくような世界に住むことになろう。その時我々は本当に、バートランド・ラッセルが描いたような悪夢の中に生きることになろう。そこでは、「自分が落とし卵だと信じる狂人は、彼が少数者であるというただそれだけの理由で有罪宣告を受けるであろう。」その点、科学を信じる者としての我々は、多数を説得して自分の側に人を集めることもできよう。ところが、占星術のような問題について、我々にそんなことができるかは全く分からない。

 どんなに強調してもし過ぎることはないが、知的自由主義は、知的多数者主義でもなければ、知的平等主義でもない。世論の51%が君に賛成するからといって、あるいはまた君の「グループ」が歴史的に見て取り残されてきたからといって、自分の言うことに知識としての権利を要求することはできない。知識としての権利を要求できるのは、君の意見が社会の厳しい検証に永いこと曝され、それに耐えてもなお維持し得るという、その限りにおいてである。さて知識を科学的合意として語る場合には、科学者の多数について語っているのである。けれども我々は単純多数について語っているのではない。ある理論が、知識として教科書に載るためには、チェックした人達全員の合意を必要とはしないまでも、辛うじての多数というくらいでは到底駄目である。厳しい批判者達の試みたほとんどのテストに対して、どの競争相手よりも見事に耐え抜いたことが一般に認められなければならない。今日、気候学者の多数が地球の温暖化は事実であると信じていると言えるだろう(確かにそうだと言えないのは、科学者はこのことで投票していないからである)。だが、地球の温暖化は、事実として教科書に載せるほどに、十分に確立しているとは到底言えない。この点は何も自然科学に限ったことではない。歴史家達の批判的合意によれば、沢山あった少数者集団は、アメリカ憲法の起草に関してはそんなに寄与しなかったというのである。ところがそれらにも役割はあったとして教科書に載せることで、ある人達を満足させることができるかもしれない。しかしそうすることで、批判的検証者達の社会を裏切ることになろう。さらにまた、他の政治集団がそれを聞きつけて、自分達にもそうして欲しいと要求したら、派閥抗争になってしまうだろう。平等という根拠に立ってもし過激なアフリカ中心主義者が、古代エジプト人はアフリカ黒人であったとか、ギリシャ人は学問をアフリカから盗んだなどという主張に、同一時間を勝ち取ったとすれば、創造論者、占星術者、クリスチャン・サイエンティスト、白人優越主義者、その他大勢が、ひしめき合いながら後に続くだろう。教科書も教室も教える時間・空間が限られているので、これらの集団が個々に要求を出し始めると、あちら立てればこちらが立たぬということになるだろう。それこそまさに信条を巡る戦争の始まりである。

 様々な少数者集団にとって、解決の道は、多くの黒人あるいはフェミニストの歴史家が現にやっていること、つまり、アメリカ史に置ける黒人や女性などの果たした役割について、新たな仮説を提案することである。だが、これらの仮説が広範な検証に耐え抜き、相互に納得した後で初めて、教科書の書き換えの時がやってくる。検証の過程には何年も掛かることがある。それでいいではないか。この過程の中で、同情できそうな主張をしている人がしばしば不利な裁定を被ってしまうこともある。それでいいではないか。それ以外の一切の知識への道は、信条戦争に行き着く。そして、真相を暴こうと名乗り出る人達を、「人種差別主義者」「性差別主義者」呼ばわりして脅かそうとすることは、科学を政治的圧力に置き換えようとすることに他ならない。

おまけ

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    今日この先生の最終講義があったので行ってきましたよ。
    冒頭でこのエントリとその中の連署の話題が出た(笑)。
    現状名前でググっただけで結構上の方に出てくるので
    見られてても不思議ではないが。
    私自身経済は微妙だけど政治的にははっきり左派だし、
    「筋金入りの左翼」ってのは別に否定的な意味で使ってる
    訳じゃないのだけど、皮肉っぽく取られてたらしくて
    ちょっと残念。その辺は話してわかってもらえたと思うけど。
    高校生当時はわからなかったような話をいろいろ聞けて
    面白かったです。

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