東浩紀発言とポストモダン・プレモダンあと還元主義の罠

(本文とは無関係)

1.専門家団および公共性の軽侮

 ある人が家に入ってくる。机の上の財布をポケットに入れ家を出て行く。この行為は正当か?

 この問いには、イエスと答えるのもノーと答えるのも馬鹿げている。その家がその人の家であるか、そうでないかによる。前者ならその人は財布を忘れた人であり、後者ならその人は空き巣だ。その前提を知らないままでは正当も不当もありえない。何の話かといえば、

 これの話。例によって出遅れているため、もはやあまり言うべきことは残ってない気がするが、残った部分にちょっと興味のある部分があるので、まずはそこ以外の部分の整理、地ならしに努めよう。

 医者団が執刀中の手術室に物理学者がいきなり入ってきて「人体なんて原子の塊に過ぎないのにわかってないお前ら馬鹿」と言ったら叩き出されても仕方がないと大抵の人は思うだろう。医学物理学歴史学とポストモダン的認識論に置き換えても同じことだ。

 東浩紀の言っていることは正しいと擁護する人は、このたとえ話において「物理学者の言ってることは間違ってないよ。人体は原子からできているよ。そんなこともわかんないで叩き出すとか、やっぱり馬鹿だろお前ら」と言っているに相当する。これは擁護になっていない。元の誤りをそのまま繰り返しただけだ。

 「究極の真理などというものはない」というようなことは、18世紀ぐらいに確立した話でポストモダニズムではない。今日人体が原子からできているのが常識であるのと同様、それは近代以降の哲学の基本である。医師団の中には人体が原子が集まってできていることを忘れている医師もいるのかもしれないが、そんなことは手術中はどうでもいいことだ。

 物理学者が叩き出されるのは「人体が原子の集まりである」という彼の命題が誤りだからではなく、それを執刀中の手術室にわざわざ入ってきて言うことが、医師団と医学を愚弄し患者を危険に晒す行為だからである。言っている内容は間違っていなくても、言う時と場所が間違っているのだ。

 空き巣は自分の家に入っても儲からないが他人の家に入れば儲かる。水からの伝言という詩集のコーナーにあるべきポエムが、理科の教科書のあるべき小学校に入り込めば、ただの水や何の役に立たない装置を高値で売って儲けられるようになる。

 哲学者がニセ科学批判や南京事件に口を出せば「俺は金銭や政治などという“俗事”を超越した高邁な哲学精神の持ち主なんだぜい」と取り巻きにアピールして虚栄心を満たすことができる。正当な場所にいては得られない不当な利益を得るために、いる場所を間違えようとする東発言は知的空き巣である。

2.個人的経験の偏重

 特定の歴史認識問題に不用意に極端な相対主義を持ち込む愚については、これ以上言うことはない。だが今回はそれに加えてさらに酷い一面がある。そうして散々愚弄し引っかき回しておいた上で彼が重視するのが、

 歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 というような自分の経験であり“実感”だということだ。またも『表現の自由を脅すもの』から引かせてもらうが、

 多くの人々は、科学のユニークさはその経験主義にあると考えている。現実についての命題を確認するか投げ捨てるかは経験に依拠して行われる。勿論科学はそうする。しかしこの意味での経験主義は、何も科学独自のものではない。全ての人間は、経験に訴えて決定を行う。パウロをキリスト教に改宗させたのは、天から一条の光が射したのを見、「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか」(「使徒行伝」9章4節)と尋ねる声を聞いたという経験であった。

 問題なのは、「客観的命題について決定をするのにあなたは経験に頼るか」という質問ではなくて、「誰の経験にあなたは頼るのか」という質問である。まさにこの点で経験法則は「特に誰のというのでなしに、ただ経験に」という独自の答を生み出すのである。

 経験法則は述べる。「ある命題が知識として確立したと言えるのは、それをチェックする方法が、チェックするのは誰かということやその命題がどこから来たかということとは無関係に、同じ結果を生み出す限りにおいてである。」

(中略)

 個々人(我々は全て同じルールで協議する)の互換性は、自由社会哲学の極印である。ある行為がいずれの人、従って全ての人にとって正しいならば、それは一人の人にとっても正しいものであり得るとカントは明言し、自由な正義の基準を定立した。

 科学的経験主義は、一つの社会哲学である。これは再三見落とされてきた点である。もし経験主義者達が「我々は経験に依拠して判断しなければならない。取り分け、法王の経験に」と言ったとすれば、彼らは何の独創的な貢献もしなかったであろう。(中略)公共の(あるいは公共のものになり得る)経験だけが物をいうのである。

(中略)

 偉大なるアメリカの哲学者チャールズ・ピアスは一世紀前に書いた。「一人の人の経験は孤立したままでは取るに足りない。もし彼が他の人達には見えないものを見るなら、それは幻覚と称えられる。考慮されなければならないのは〈私の〉経験ではなくて〈我々の〉経験である。そしてこの〈我々〉が無限の可能性を持っている。」

 鑑識眼のある小さなサークル外では、ピアスは悲劇的なまでに無視され、あまり世に知られることはなかった。しかし彼ほどに、客観性に関する科学的に柔軟な観念の社会的意義を解した者は他になかったであろう。

 真理が公のものとして、――つまり、自分で探求し、不動の信念の真面目な追及を十分に深く行えば、如何なる人でも確信に到達するであろうものとして――承認されるのでないならば、我々各人が他の全ての人が信じようとしない全く自分勝手な信念を抱懐したって良いことになってしまう。各人はそれぞれ自分を小さな予言者として押し立てるだろう。つまりちっぽけな、〈変わり者〉、自分自身の偏狭さの間抜けな犠牲者に成り下がる。

 最後の部分は今の東浩紀の置かれた現状を描写する文として適当と思われる。彼の発言内容はポストモダンではなく近代以降の常識であるとはすでに言ったが、さらにもう一歩後退して、前近代(プレモダン)にまで逆戻りしているとすら言えるだろう。

3.還元主義の罠

 ここまでは全て今回興味の中心ではない部分を整理するための地ならしである。今回の東浩紀発言は最大限の批判と軽蔑を受けて然るべきだが、それは他でも沢山されているしこれからもされるだろうから、ここではこれ以上やらない。私が今回興味があるのはこのような愚を犯させる独特の思い上がりについてだ。

 冒頭のたとえ話の逆パターンを考えてみよう。物理学者達が粒子加速器の調整をしている部屋に医者がいきなり入ってきて「人体は素粒子が作り上げた最高の精密機械なのに上腸間膜動脈がどこにあるかもわかってないお前ら馬鹿」と言う場面を想像できるだろうか。

 私にはできない。元々のたとえは、愚かしいなりにありそうな話だと思うが、この逆パターンは、愚かであるとかないとか以前に何かまったくありえない滑稽な話であるように感じられる。たとえでなく現実にも東発言の逆のケース、すなわち特定の時代や事件に精通した歴史学者が思い上がりを抱き、認識論専門の哲学者集団に「馬鹿」と言い放つも同然の口出しをするというようなことは、まったくありえないように思われる。

 どちらも理屈では「愚かなことだ」としか言えないのに大きな差異が生じる理由は何だろう? これは興味に値する疑問だ。

 私はたまたま科学史に興味があるので、物理学者が医師団に対して思い上がりを抱きうる理由はかなりの部分までわかる。物理学は、他の科学分野よりも「偉い」という感覚を常に持ち続けてきた。たとえば古生物学が化石を研究することを“切手収集”すなわち単なる事実の下らない寄せ集めであるとして馬鹿にするような態度が見られた。

 そして物理学の次には「偉い」順に化学・生物学・医学・経済学など社会科学・文学などと続く、つまりより還元主義的な学問が「偉い」というヒエラルキーの概念があった。これは化学と錬金術、科学と宗教がまだ未分化だった近代科学の黎明期、大雑把に言えばニュートンの時代、物理学が創造主の御心を探求する学問だったころの名残だ。

 物理学をいくら極めたところでを誰かの盲腸を手術できるわけでもなく、化学をいくら極めたところで金融政策に助言できるわけでもないのに、どちらが「偉い」などと言っても無意味ではないか、

 どんな科学も健全な成長のためには統一派と多様化派*1との間の創造的な釣合いが必要だ(フリーマン・ダイソン『多様化世界―生命と技術と政治』)

 というのが、現代的な考え方ではあるが、思うに今日の社会はまだ総体としてこの還元主義の罠から抜けきっていないのであろう。科学は還元主義と同一ではないし同一視してはいけないのであるが、ずっとそう見なされがちであったし、現在でもそう見なされがちである。

 自然科学が誤って人文学を軽侮しがちなのと同様、人文学の内部にも、たとえば歴史学のような学問を“切手収集”すなわち単なる事実の下らない寄せ集めであるとして馬鹿にし、より還元主義的な(?)たとえば認識論のような哲学の方が「偉い」とするような意識が存在するのではあるまいか。

 結局何が言いたかったかというと、上の地下に眠るM氏のエントリで「なんで哲学者気取りのポモ批評家のチョンボで自然科学がけなされるんじゃい!」みたいな反発があるようだが、私はこの件に関して“自然科学教”つまり科学の神秘化の臭いを嗅ぎ取った地下猫にゃんの嗅覚は異常!!*2と思うのである。

*1:今の文脈ではほぼ「還元主義」と「その反対」に相当する。「還元主義の反対」を表すいい言葉が見つからないのだが。
*2:に鋭い。流石は猫!

おまけ

 俗事は任せる→シャルル皇帝→若本

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    >ケツの穴が痒い。
    それは虫がいるんですよ。
    構造主義ですか。
    “関係”を重視するというあたりはかけ離れてもないような。
    でも確かに還元主義の「反対」と言えるかというと微妙ですね。
    どうも一般に受け入れられた用語はないような気がします。

  2. 地下に眠るM より:

    おお、誉められてケツの穴が痒い。
    「反対」かどうかはわかんにゃーけど、ストロースは、
    「科学の方法的は還元主義と構造主義の2つだよ」とかいっているにゃ。

  3. 木戸孝紀 より:

    >その拒絶おかしいさん
    リンク先が面白かったので一回だけ返答します。
    というかそのリンク先は初めて見ました。
    私はたとえ話地獄というのはたとえ話がおかしいとして
    別のたとえ話が出てきて、またそのたとえ話はおかしいと
    反論したりして本題と全然関係ないような話が続いてしまう現象、
    ぐらいの意味合いで使ってましたね。
    たとえ話地獄という単語の定義をめぐってすでに
    たとえ話地獄への一歩を踏み出していたという罠!
    たとえ話ってのは元々物事の一面を極端にしたり、
    単純化したりすることによって判りやすくしようとするものであって、
    たとえ話が元の話と比べて不適切なのは当然と思うんですよね。
    完全に適切だったらそもそもたとえ話にならない。
    それは「1/1の地図」みたいなもの。(で、この地図の
    たとえにつっこみが入ると完全にたとえ話地獄突入。)
    家のたとえでなく所有権でたとえた方が判りやすいと思ったら
    そう置き換えて読んでいいですよ。このエントリのたとえ話が
    全部ノイズだとして、あなたは元々の東氏発言とそれへの意見に
    ついてどう思ってるの? ということの方が重要じゃない?
    すでにたとえ話地獄の定義で2コメント消費しちゃってますし。

  4. その拒絶おかしい より:

    空き巣の意味が「留守の家をねらって忍び込み、盗みをすること。また、その人」である限り、「知らないままでは正当も不当もありえない前提」に、「それが盗みか否か」があるのは当たり前。「忘れた人」に力点を置いても「財布の所有者」は前提に入ってくる。これはたとえ話がたとえとして適切であるか?では全くなく、話単体ですでにおかしい(非論理をもって論理を語っている)という問題なのに、たとえ話地獄になんか陥るわけがない。たとえ話地獄というのは「そのたとえ話は適切ではない、そもそもたとえ案で説得力の強化を図る行為自体どうなのか、という形でカウンターを食ら」うような話(http://d.hatena.ne.jp/shibata616/20080414/1208144806)ではないの?
    神は細部に宿るんじゃないんですか?

  5. 木戸孝紀 より:

    >大丈夫?さん
    いわゆるたとえ話地獄に陥るのでたとえ話のための
    たとえ話には返答いたしませぬ。あなたにとって
    ノイズならお手数ですが除去して読んでください。

  6. 大丈夫? より:

    財布をポケットに入れる話なんだから、家より財布(と中身)の主を気にすればよいのに。友人の家に置き忘れた財布を回収するのが、「その人は空き巣だ」となるのか? なるわけがない。馬鹿げた話だ。
    粗雑でデタラメな例え話は理解の助けではなく、ノイズにすぎない。

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