2011 6/18

宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰

 原題”THE FAITH INSTINCT”。スティーブン・ピンカーの”THE LANGUAGE INSTINCT”(『言語を生みだす本能』)を意識して、その向こうを張ったものだ。

 宗教を生み出し運用する能力は、言語を生み出し運用する能力と同じく、集団を内部で結束させ、他集団との戦闘などで有利にするために、進化によって積極的に選択された本能であり、何かの副作用でたまたま生じたわけではない。

 というのが主な主張になる。

 私は、この問題に限って言えば、ある程度グループ淘汰的な見方を受け入れるべきであろうと思っているので、全体としては同意できる部分が多い。

 ドーキンスやピンカーが宗教の適応的意義を軽視しすぎている、という意見には、ほぼ完全に同意する。

 厳しい戒律やタブーなど、宗教の持つ一見理不尽な要素も、それを行うコストによってフリーライダーの侵入を阻むためのものだ、という説明は、まあ常識的といってよいと思う。

 たとえば『神は妄想である』のドーキンスが伝統宗教の理不尽な点をあげつらうばかりで、分かっていないはずはないのにそのような基本的な説明をしないのは、確かにずるいと思う。

 最初の方はかなり期待していたのだが、後半に行くに従って、だんだん失速している。根拠に乏しいまま、ただ「〜だっただろう」とそれまでと同じようなことを繰り返す部分が多くなってくる。

 7章のイスラムの起源に関する仮説*1は、かなり極端で、まかり間違って結果的にそれが正しかったとしても、現時点でこの本に入れるのは適切ではないように思われる。

 全体的には、勇み足っぽく見えるところも多いが、悪くない本だったと思う。「勇み足」という単語にデジャビュを感じて検索したら、以前同じ著者の本に対して同じ単語を使っていたのに気がついた。著者がそういう気質なのだろうか。

*1:ムハンマドは実在の人物ではなくその歴史は後世の創作であり、初期の碑文などにある「ムハンマド」という言葉はイエス・キリストを指すものだったというもの。

関連書籍

おまけ

 マイクラ三大宗教のひとつイカ教。

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2011 4/2

宇宙をかき乱すべきか〈下〉 (ちくま学芸文庫)

 上巻に続いて下巻から、クリーンエネルギー関連の話題。

 短絡的な善悪二分法は害悪であり、短いスパンの現実と長いスパンの理想は両立しうるし、させねばならない。

 今日の状況の参考にすべき部分は多いと思われる。

21 銀河系の緑化

 なぜわれわれは、グレーは悪でグリーンは善だと単純に言うべきではないのか? グリーンな技術を奉じグレーなあらゆるものを禁ずることによって救済への近道をとろうとすべきではないのか? その答は、世界の物質的諸要求に応ずるためには技術は美しいだけではなく安価でもなければならないということにある。もしわれわれが、「グリーン・イズ・ビューティフル(緑は美にみちている)というイデオロギーがわれわれを将来困難な選択をせねばならない立場から救ってくれると思い、それは他のあれこれのイデオロギーが過去にわれわれを困難な選択から救ってくれたのより少しでもましだと思うなら、われわれはとんだ思い違いをしているのである。この地球の上では、太陽のエネルギーは人間にとって大変必要なものの一つである。あらゆる国が、富んでいる国も貧しい国もすべて、豊富な太陽のエネルギーを浴びているが、われわれはまだ、このエネルギーをわれわれの日常生活に必要な燃料や電力に変換するための安くて広く使える技術をもっていない。日光を燃料や電力に変換することは、科学的には平凡な問題である。原理的には、多くの異なる技術によってこの変換を行なうことができる。しかし、既存のどの技術でも安くはできない。われわれには、それらの技術を大規模に使って、われわれのエネルギー消費量の大きな部分を、急速に減少しつつある天然ガスと石油資源への依存から脱却することができるほどの資金の余裕はない。

 テッド・テイラーは、核盗みに関する仕事を終えると、まだ仕事のできる余生を太陽エネルギーの問題に捧げようと決意した。彼は太陽池装置の設計を練り上げた。それは、もしすべてがうまくゆけば、既存のどんな太陽エネルギー技術よりも根本的に安くなるかもしれないものであった。彼のアイデアは、土手で固まれた巨大な池を掘り、透明なプラスチックのエア・マットレスでふたをすることであり、それにより、水は日光で温められ、風や蒸発によって冷えるのを防がれる。夏も冬も水は温かいままになっている。その熱エネルギーは家庭暖房にも使えるし、市販の簡単な熱機関によって電力や化学燃料に変換することもできる。

(中略)

 テッドの特殊なアイデアがうまくゆくかどうかはたいして問題ではない。テッドは太陽エネルギー装置の一つを設計したに過ぎない。世界中には、別のアイデアで別の設計を試みているグループが何百とある。世界を変換するのには、なんらかの安くてうまくゆく装置が得られればいい。テッドの装置でなくてもいい。われわれが配慮すべきことは、各自のアイデアを推し進めようとするあらゆるグループに対して、彼らがなしうることを示す機会を与えるべきだというだけである。どのグループをも、イデオロギー的な理由によって排除したり挫折させてはならない。

 テッドの技術はグリーンというよりはグレーであり、美よりも実益のために設計されたものである。

(中略)

 しかし、二五年とか五〇年とかでなく、もっと先の未来を見渡せば、グリーンな技術にはもっと大きな将来性がある。

(中略)

 グリーンな技術に基づく太陽エネルギーの未来を想像してみよう。それは、われわれがDNA言語の読み書きを習得して、樹木の成長と代謝の仕組みを再プログラムすることができるようになった後のことである。地上に見えるのは、アメリカ杉が生い繁った谷だけであり、そこはカリフォルニアのタマルペイス山の山麗にあるミュアの森のように静寂でうっそうとしている。それらの樹木は天然のアメリカ杉ほど早く成長はしない。それらの細胞は、天然の樹木のようにおもにセルロースを合成するのでなく、純粋なアルコールとかオクタンとか他のなんらかのわれわれにとって便利な化学物質をつくりだす。水分が一組の導管系を通じて上昇してゆき、樹木が合成した燃料は別の導管系を投下して根へと送られる。地下では、根は生きているパイプライン網を形成していて、燃料を谷に沿って流下させる。この生きているパイプラインは、あちこちで生きていないパイプラインに連絡されていて、燃料は必要なあらゆる場所へ運ばれる。樹木を再プログラムする技術が達成されれば、こんな人工森林を自然の森林が育つ土地ならどこでもつくることができるだろう。

(中略)

 しかし人類は緊急に太陽エネルギーを必要としている。われわれは一〇〇年も待っていられない。もしプラスチックの池のほうが早く間にあうなら、われわれはプラスチックの池をつくって、人工樹木のほうは孫たちに委ねねばならない。

おまけ

 あー感情をフリーエネルギーに変換するテクノロジーほしい。

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2011 4/1

宇宙をかき乱すべきか〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 星新一フリーマン・ダイソンは、いつ読み返しても何かしら新しい発見がある。

 停電ネタで星新一を続けてやったので、今度はダイソンの自伝『宇宙をかき乱すべきか』の上下巻からそれぞれ一箇所ずつ抜粋する。まず上巻から原発についての話題を。

 要約すると、巨大さそのものがひとつの失敗だという意見だ。『多様化世界』の中の「迅速を尊ぶ」の章にも近い意見がある。

 ちなみに、1979年の本なので、福島原発事故はもちろん、地球温暖化問題のクローズアップによる原発再評価よりも前で、チェルノブイリやスリーマイルよりも前であることに留意。

9 小さな赤い校舎

 原子力発電は、どこが間違ってしまったのか? 一九五六年にフレディが私を原子炉の研究に招いたとき、私は人類に安くて無限のエネルギーを提供するこの大事業に自分の才能を発揮する機会がきたと躍り上がった。エドワード・テラーその他あの校舎に集まった人たちはみな同じように思った。ついに私たちは、核エネルギーを爆弾の製造よりいい目的に使う方法を獲得しつつあるのだ。ついに私たちは、原子力で何か善をなしつつあるのだ。ついに私たちは、人類の労苦や貧困をなくすための大量のエネルギーを世界に供給しようとしているのだ。この私たちの夢はどこが間違ったのか?

 この間いに対しては簡単な答はない。多くの歴史的な力が合わさって、原子力の開発を私たちが期待したよりやっかいで金のかかるものにしてしまった。もし当時私たちがもっと賢明であったなら、三〇年間の満たされない夢の後に新しい世代の若者や政治家が出てきて、原子力をわなとみなし、そのわなから私たちを解放するのが自分たちの使命だと考えるに至ることを、私たちは予見しえていたかもしれない。三〇年昔の夢が今日の若者に共感を呼び起こさないのは、しごく当然である。若者を前進させ続けるには、新たな夢が必要である。原子力を取り巻く政治的雰囲気があの小さな赤い校舎の時代以後に明白に悪い方向へ変化した理由を、一般論で理解するのは容易である。しかし、私の信ずるところでは、今日の原子力産業を悩ましている困難の多くは、もっと特殊な理由のためである。それは、原子力産業そのものの内部に、あの校舎の精神がなくなってしまったことである。

 原子力産業が抱えている根本問題は、原子炉の安全性ではなく、廃棄物処理でもなく、核兵器拡散の危険でもない。これらのはどれも現実であるにせよである。原子力産業の根本的問題は、もはや誰も原子炉をつくるのになんら面白味を感じなくなったことである。今日の条件の下では、一群の熱狂家が一つの校舎に集まって一つの原子炉の設計・建設・試験・認可取得・販売を三年間で達成するなんてことは、とても考えられない。一九六〇年と一九七〇年との間のあるときから、この産業のなかから面白味が失われてしまったのである。冒険家や実験家や発明家は追い出され、経理士と経営家が支配するようになった。民間企業のなかばかりか、ロス・アラモスやリヴァモアやオークリッジやアルゴンヌの国立研究所でも、非常にさまざまな型の原子炉の建設や発明や実験に取り組んできた若い有能な人々のグループが解体された。経理士たちや経営家たちは、有能な人々を奇妙な原子炉で遊ばせておくのは能率的でないと断定した。そこで奇妙な原子炉は消えうせ、それに伴い既存の型の原子炉の枠を超えた根本的な改良の機会も消えうせた。今日残って運転されている原子炉はごく少数の型にかぎられており、そのどの型も巨大な官僚機構の中に凍結されて重要な改良がまったく不可能になっており、どの型も種々の点で技術的に不満足なものであり、どの型も以前に放棄された他の多くの可能な型より安全性が劣る。もはや誰も、原子炉をつくるのに面白味を感じない。あの小さな赤い校舎の精神は死んでしまった。私の考えでは、これが、原子力発電における誤りであった。

(中略)

 経済的な原子力発電所を開発しようとする世界的努力のなかで、今までに一〇〇種に満たない型の原子炉が運転されてきた。開発される原子炉の種類の数は、諸国の政府当局が経済的理由から冒険的な型を排除するにつれて、絶えず少なくなってきた。今日では、生き残れる望みのある型の原子力発電装置は約一〇種類しかない。しかも、現在の状況の下では、なんらかの根本的に新しい型が公平に試験されることは不可能である。これが、原子力発電装置がオートバイほど成功していない根本的な理由である。われわれは、一〇〇〇種もの違った型を試してみる忍耐力をもたなかった。その結果、本当に良い原子炉は発明されなかった。おそらく技術の世界でも、生物の進化と同様に、浪費が効率への鍵なのである。どちらの領域でも、小型のものは、大型のものより容易に進化する。鳥は進化したが、鳥の従兄弟の恐竜は絶滅した。

 原子力発電の未来に希望はあるだろうか。もちろん、それはある。未来は予測しがたい。政治的な雰囲気や流行は急速に変化する。変わらない一つの事実は、人類は石油を使い尽くした後も莫大な量のエネルギーを必要とするだろうことである。人類は、なんらかの仕方でエネルギーの生産をしようとするであろう。その日が来たとき、人々はわれわれが現在建設しているものより安価で安全な原子力発電炉を必要とするであろう。おそらくそのときになれば、われわれの経営者や経理士たちは、小さな赤い校舎に一団の熱狂家を集めて、彼らにいろいろやってみる自由を与えるだけの知恵をもつであろう。

おまけ

 かき乱す→ミキサー。

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2011 2/25

捕食者なき世界

 内容についてはshorebird先生にお任せ。生態学の基本としてはまともだし、面白くもあるけど、全体として作者の意見には乗れないな。最後の一文を引用。

 わたしには、今も獰猛な肉食獣にかみ殺される不安を抱えながら暮らしている数少ない人々の気持ちを代弁することはできないし、そうするつもりもない。ライオンがうろつく畑で眠らざるをえないタンザニアの農夫を代弁する資格はないし、信仰と仮面だけを頼りに、トラがいる森に入っていくスンダルバンの男たちのような自信もない。しかしわたしは、科学が発見したことと、愚かな人間の実験によって明らかになったこと、そして、大型捕食者が消え、生物世界が不毛になる未来が迫っていることをどうしても伝えなければならない。わたしは、大きな肉食獣が歩きまわる土地とそうでない土地との本質的な違いを、彼らのなわばりをひとりで歩いてみればはっきりとわかるその違いを、個人的な感覚としてではあるが、ありのままに証言できる。そしてわたしは、論理的思考よりもっと深いところでこう信じている――野生動物が姿を消し、もはや戻ってくることのない世界には、果てしない孤独が待ち受けている、と。

 そりゃあ私だって著者と同じように感じる。ただでさえ狭い地球に溢れかえっているアフリカやアジアの貧乏人なんかもっとライオンやトラの餌になって、私が温かい部屋で鑑賞するBBCの番組に出演する動植物たちが、代わりに増えれば幸せだと思う。

 私が彼と意見を異にするのは、論理を超えた何かはそのような感情を助長するためにではなく、抑制するために使われなければならないと思っているところだ。

関連書籍

おまけ

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2011 2/22

「原発」革命 (文春新書)

 のニュースから知った。面白い。

 核融合炉の実現も太陽エネルギーだけで済むようになるのもまだまだ先だし、原子力発電の重要性は今後当分高まっていく一方だろうから、頑張って欲しいな。

参考リンク

おまけ

 こういうことも起きないようだし。

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2011 2/19

(本文とは無関係)

 将来書こうと思っているテーマだったのだが、何年後になるかわからないので、概略だけでも先に書いておこうと思う。

 ほぼ以前Twitterでつぶやいたものを清書したのみである。

 過去の漢字廃止論の経緯などには全く関心がないため、ここで言う「ひらがなすいしょう論」は「漢字廃止論」と必ずしも同一ではなく、

  • 現在ネット上で広まっている漢字を廃止ないしは減少させてひらがなで日本語を表記すべきという主張

 ぐらいの意味と考えてもらいたい。たとえば今すぐ思い当たる範囲では、あべ・やすしさん等の。

 結論から先に言うと、私はこの主張をしている人達の善意を疑うことはないが、絶対うまくいかないだろうから止めてほしいと思っている。

 それは、仮に共産主義者が真剣に経済の平等と人々の幸福を願っていたとしても、現代において共産主義を支持するわけにはいかないのと同じことだ。

 共産主義との類似性を言うのは単なるネガティブキャンペーンではない。この概略では大幅に省略せざるを得ないが、本当のテーマは、

 という20世紀を代表する誤りの共通性の話だ。

 この三つに共通する誤りとは何かというと、あらかじめ決まっている正しい状態、別の言い方をすれば「答え」がどこかに存在し、正しいステップを踏むことによってそこにたどり着けるのだという発想だ。

 たとえば、共産主義では「正しいパンの価格」というものが存在する。それが実際に100円であるかそれとも200円であるかとか、現実的にそれがそうと確かめらるかどうか、といったこととは関係なく、それは確かに実在するのだ。

 これと同様に、ひらか゛なすいしょう論の考え方では、「正しい言葉」というものが存在する。その正しさの根拠がたとえ何であれ、たとえば「社会的弱者にも使いやすいようにするため」だとか、どんな素晴らしいあるいは素晴らしくない理由を考えていたとしてもとりあえず関係ない。

 とにかく「正しい言葉」――あるいは少なくとも今より正しい言葉――というものが存在すると思っている。そして現在の言葉が「正しくない」理由は、何か(自分たち以外の)人間が馬鹿だったり、邪悪だったりするからだと思っている。

 だがこうした前提は間違っている。最も重大な間違いは、言葉を意味を正確に伝達するための道具だと思っていることだ。「えっ違うの!?」と思うだろうが、全然違うのだ。

 一見ちょっと関係ない話をしよう。私が子供の頃に読んだSF小説*1 で、スパイだか超能力者だかが、すごい訓練をして、ちょっとの言葉でものすごく沢山の意味を正確に伝達できる「超高速言語」とやらを身につける、というくだりがあった。

 これ、どうしてSFなんだろうね?

 むしろ、それが当然になっていないとおかしいのではないのか? どうして人間の言語は、ひらがなすいしょうの人たちが主張するみたいに、それどころかもっと極端にこのSFみたいに、単純明快で効率よくなっていないのだろう?

 言語が意味内容を正確に伝えてマンモス猟を成功させるためのものだったら、厳しい自然選択の力によって、とっくにそうなっていないといけないはずではないか? 現実の言語の方がよっぽどSF的な存在ではないのか?

 現実に存在する偉大な詩や小説、それらを創ることができるような人間の能力は、いったいどうやって進化できた? これは怪現象としか言いようがないことだ。

 進化論の共同発見者として有名なアルフレッド・ラッセル・ウォレスのような人さえもこの問題には降参して、ついに人間の精神だけは進化によっては説明できず、神によって導かれたものだと考えるようになった。

 彼がそうしたのも無理もないことだ。実は、言語の進化については、今に至るまで中学高校の教科書に載せられるような定説は存在しないのだ。どうにかこうにか説明がつくと思われるようになってきたのさえ本当に最近のことなのだ。

 だから、残念ながらこれから何を言うにしても教科書嫁終了というわけにはいかないのだが、少なくとも、たとえば仮に未来から振り返った時、最終的に正しい説明の一部分として生き残っているであろう重要な指摘は、

  • 言語能力は人間の性淘汰上の適応指標形質として働いている

 ということだ。

 これは、言われてみれば全く当たり前のことだ。あなたはお見合いに臨んでいるとしよう。その人と一生添い遂げねばならないとする。子供が欲しかったら子作りもその人としなければならないとする。以下のうち誰を選ぶ?

  1. 美形で言葉が巧みだけど一文無しの人
  2. 金持ちで言葉が巧みだけど二目と見れぬ不細工
  3. 金持ちで美形だけど言葉が話せない*2

 これだけの想像でも、ほとんどの人が重要だということに同意するであろう経済力や外見に比べても、勝るとも劣らないぐらいに言語が重要だということは明らかだ。

 世界一モテる人間は世界一の金持ちビル・ゲイツでも世界一の権力を持つアメリカ大統領でもなく、一流のスポーツ選手や歌手だ。スポーツ選手がモテるのは当然として、言語や音楽を操るのがうまい人がなぜモテるのか?

 当然のことの確認から始めよう。スポーツが得意な人がモテるのは、言い換えれば、スポーツができる人を好ましいと思う性質が人間に進化してきたのは、それがダーウィン的な意味で優れていることを示す正確な信号だからだ。

 より早く走ったり、より正確に動いたり、より重い物を持ち上げたりといったことは、肉体的に本当に優れていないとできないことだからだ。そのような日常的な観点からは不当に大きなコストを負担できるということが、嘘やハッタリではなく実際に優れているということを証明することになる。

 そろそろ勘がいい人は、次にどういう話になるかわかるだろう。この観点では、言語を操ることはいわば精神のスポーツであり、現実に存在するすばらしい小説や詩や歌などは、いわば脳のオリンピック競技なのだ。

 これ以上詳しい説明は省略するが、この性淘汰の再評価によって、従来説明がつかなかった人間の能力、特に言語は、孔雀の羽が実在することが不思議でもなんでもないぐらいには、不思議でないものになってきた。

 重要な概念は【コスト】だ。日常生活より楽なことをやっていては、それはスポーツにならず意味がないように、負担がかかることこそが重要なのだ。

 言語が意味内容を伝えるためのものだと考えている時には、当然コストは少ない方がよいということになる。言語はできるだけ簡単でわかりやすいほうがよい。そう、ちょうど狩りや共同作業に必要十分なくらいに。

 しかし、コスト自体が重要だという観点からは、全く違う結論が出てくる。つまり、言語をもっと簡単でわかりやすく、誰でも使えるものにしようということは、言語がそもそも生まれ今のようなものになった原因でもある最も重要な機能を台無しにしてしまえという主張になるのだ。

 これもまた、言われてみれば当たり前のところがある。

 超有名な不朽の名作、ジョージ・オーウェル1984年』で、ニュースピークというものが出てくる。説明は省くが要するに、極端に簡略化された英語だ。エスペラント語を参考にしたのではないかとされている。

 ニュースピークがなぜこれ程までに人間性に対する冒涜と感じられるのか? 素晴らしい効率性と単純性に美しさを感じてウットリとなってもいいはずではないか? なぜそうではないのか?

 なぜ、この感覚が英語を母語としない人にまで広く共有されうるのか? 英語話者のみがそう感じるのであれば、たとえば「自分たちと違う言葉を話す人に対する警戒感」など従来から認識されている理由だけで説明がつけられるかもしれないが、明らかにそうではない。

 私が初めて『1984年』を読んだ時、それが不思議で不思議で仕方なかったが、今はもう不思議とは思わない。そもそも、それが当たり前だったのだ。おそらく何十万年も前からずっと。

 たとえネアンデルタール人であれ、クロマニヨン人であれ、北京原人であれ、人類が簡単すぎる言語にアンチヒューマニズムを感じなかったことなど、おそらく一度もないのだ。

 コスト。途方もなく複雑で絶えず変化する言語を流暢に操るという活動にかかる途轍もなく無駄なコストが、優れた者あるいは自分たちの仲間を見分け、劣った者あるいはよそ者を排除する、という機能を実現可能にしている。

 つまり、意外と思う人もいるかも知れないが「言語の難しさが、差別や排除に繋がっている」という一部のひらか゛なすいしょう論者の発想は、実は的外れではない。めちゃくちゃ正しい。

 むしろ、問題はそれが正しすぎるということだと言ってもよい。そう正しすぎる。言語は元々そのためのものなのだ。*3

 つまり、ひらか゛なすいしょう論の主張は、肉体的なことに置き換えれば、

  • みんな! スポーツなんて無駄なことは廃止して代わりに鍬を振るうようにすれば、腹も減らず怪我もしないし、余分の食料も増えてみんなハッピーだよ!

 と言っているようなものだということだ。

 当たり前だが、その主張がいかにもっともらしくとも、一夜にして人々がスポーツに魅力を感じなくなったりしない。突然スポーツ選手がモテなくなったりしないし、イチローがバットを鍬に持ち替えたりもしない。

 仮にみんながみんな本当にそうすればハッピーかもしれないが、無論その仮定が成り立つことはない。仮にみんながみんな私利私欲を持たず公平に働けば共産主義だってうまくいくかもしれないが、現実には成り立たないのと同じことだ。

 ファミコン直撃世代の私は、ひらがなが読みにくいというひらか゛なすいしょう論に対してよくなされている反論には全く同意しない。当然のことながら、慣れたらむしろ読みやすいだろう。

 現在ネットでひらか゛なすいしょう論が多少なりとも追随者を産む程人気がある(≒格好いい)のは、まさにそれが、ほとんど誰もやってない珍しい(≒書くにも読むにもコストのかかる)ことだからだ。多くの人がするようになり、慣れてしまったら、それは誰でもより簡単にできることに過ぎなくなってしまう。

 おそらく現在ひらか゛なすいしょう論者は「ひらがなが読みにくい」と言ってくる人々を憎んでいるだろうが、そう言ってくれる人がいなくなったらおしまいなのだと思えば、もう少し仲良くできるのではないだろうか。

 大勢がやるようになっても人気を保とうとするならば、もちろん漢字も見事に使い最高に複雑で優雅で難しい表現で主張するしかないだろう。しかし、それはもちろん、もはやひらか゛なすいしょう論ではない。

 結局自己否定的なのだ。

 エドワード・オズボーン・ウィルソンは何かの本で「マルクスは理論を適用する種を間違えたのだ」*4というようなことを言っていた。

 人間性がおそらく数十万年・数百万年かけて形成されたもので一夜どころか一世代でも到底変化させられないものである以上、このジレンマを逃れて自発的に受け入れさせる方法は私には思いつかない。人類を滅亡させるほうがまだ簡単だろう。

 無理にでも受け入れさせたかったら強権をもってするしかない。それこそ本当に『1984年』のように。それを真剣に望む人はいないと思いたい。

 差別や排除に対する問題意識から主張している、私の考えるレベルの高いひらか゛なすいしょう論者の方々に言いたいのは「あなたを尊敬するが、だからこそその望みのない道にリソースを割くのはやめて、他を当たってほしい」というものだ。

 逆にレベルの低いひらか゛なすいしょう論者には、「自分が魅力を感じないもの・自分が理解できないものは、この世からなくしてしまった方が世のため人のためだ」という最も危険なタイプの正当化の誘惑に弱い人が混じっているように見える。

 最低なのは単に「合法的」に表現できる唯一の対中エスノセントリズム(自文化中心主義)として漢字廃止を主張し、「やまとことばはうつくしいでしょう?」とかなんとか言ってる奴。

 こうしたレベルの低い人々に対する反論は、ここでわざわざするまでもないと思う。

 本来この数十倍・数百倍の字数が必要な話なので、納得いかないことも多いと思うが、そもそも今この問題に割くリソースがないということがこの概略を書いた動機なので、質問にもよほど面白いor有益と思うものでなければ答えられない。

 代わりと言っては何だが、重要な参考文献をいくつかあげておくので、興味がある人はまずそれらに当たってもらいたい。この問題とは関係なくおすすめできるものばかりである。

*1:後で調べたらロバート・A・ハインライン『超能力部隊』だった。
*2:たかだかここ数千年・数百年の発明に過ぎない手話や筆談は存在しないものとする。
*3:もちろんそのためだけのものではないが。
*4:アリなら共産主義がうまくいっただろうという意味。

参考文献

おまけ

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2011 2/6

生命の跳躍――進化の10大発明

 ニック・レーン三冊目。これまでの本と重複する部分も多かったが、今回もとても面白い。

  • はじめに 進化の10大発明
  • 1 生命の誕生――変転する地球から生まれた
  • 2 DNA――生命の暗号(コード)
  • 3 光合成――太陽に呼び起こされて
  • 4 複雑な細胞――運命の出会い
  • 5 有性生殖――地上最大の賭け
  • 6 運動――力と栄光
  • 7 視覚――盲目の国から
  • 8 温血性――エネルギーの壁を打ち破る
  • 9 意識――人間の心のルーツ
  • 10 死――不死には代償がある
  • エピローグ

 特に最初の章「生命の誕生」の部分が面白い。最初の生命は熱水噴出孔近くの岩の中で生まれたのではないかというアイデアは、もはやかなり正解に近いところまで来ているようだ。

参考リンク

関連書籍

おまけ

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2010 12/3

生命と非生命のあいだ―NASAの地球外生命研究

 分子生物学やってた者としては、このニュースだけは一言だけでも反応しておかないと。

 Appleのビートルズコーの直後だったからか、これもズコーとか言ってる人がいるけど、これは全然ズコーじゃないよ。これはすごいニュースですよ。

 どのくらいすごいかというと「SFの中だけの存在だった珪素生物が実際に発見された!」の、まあ1/16ぐらいの感覚かな。フェルミのパラドックスとか、生命全般に対する認識にもモロに関わってくる非常に面白い話ですよ。

 あと、ネタバレになるからどれかまでは言わないけど、グレッグ・イーガン『TAP』の中に異質生物ネタの結構面白い短編があった。確か元素じゃなくて異質な塩基だったけど。

おまけ

 モノ子で異質生物というと。

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