2010 4/6

健康帝国ナチス

 と合わせて“いまここにいるナチス”三部作と私が勝手に命名しておすすめしている本の中の一冊。全体の趣旨がよくわかるように序文から抜粋。

 本書はファシズムについての本である。と同時に、科学についての本でもある。おそらく我々はどちらに関してもかなりの知識があり、また恐怖の写真の数々を見ている。

(中略)

 しかし、ダッハウ〔強制収容所のあった所〕の囚人が有機栽培で育てた花からハチミツを作っていたこと、ナチスの健康促進派が世界最大規模の反タバコ運動をおこなったこと、などはおそらくほとんど知られていないのではないか。世界の先端を行くナチスのガン撲滅運動により、アスベスト(石綿)、タバコ、発ガン性の農薬や食品着色料の禁止まで、広範な規制がおこなわれたことをどれだけの人が知っているか?

(中略)

 私はこの本で違った意味のショックと嫌悪感を感じていただきたいのである。(中略)ナチスの医学はことによると今日「先進的」ないし社会意識が高いと見なされうるものであり、しかもそれがナチスのイデオロギーの延長上にあるというのもまた不愉快なことなのである。ナチス・ドイツの栄養学者たちは防腐剤や石油を原料とした着色料を使わない食品の重要性を強調していた。ナチス・ドイツの保健活動家たちは、ビタミンと繊維が豊富な全粒食品を強力に推奨した。党員の中には環境保護活動家も、菜食主義者も多かった。絶滅危惧種を保護し、動物の福祉を守ろうという意識も高まっていた。ナチスの医師たちは医薬品やX線の使いすぎを懸念し、劣悪な職場環境に対する警告をおこない、医師は患者に対し正直に情報を与えるべきだと主張していた。もっとも、「人種的に不適な」あるいは無価値な相手に対してはこれは適用されないのだったが。

(中略)

 ナチスのタバコ撲滅キャンペーンを、あるいはガン征圧のための国民健康運動を、我々はどう考えるべきなのだろうか? アスベストの害やX線・ラジウム被曝への警告を、食品の安全性を確保し食品の虚偽広告を排する運動を、どう理解すればいいのか?

(中略)

 ナチス・ドイツの科学を歴史的に扱うということになると、まがりなりにも科学が滅びなかったのは不屈の知性の証しである、という話になりがちだ。しかし私はむしろ、次のように問いかけたいのである。ファシズムのもとでも元気に栄える科学とはいったい何なのか? 少なくともある種の科学を強力に支援したドイツ・ファシズムとはどういうものだったのか? 歴史のこうした一面がこれまでまったく顧みられることがなかったのはなぜか?

(中略)

 こうした視点から見ると第三帝国の「善い科学」がイデオロギーに染まらない英雄的行為ではなく、まさにヘルベルト・メルテンが「無責任な純粋さ」と言ってのけた、その精神状態をやすやすと受け入れた結果と見えてくるのである。

(中略)

 ナチスの指導者たちがタバコに反対していた、ナチスの公衆衛生担当者たちがアスベストの発ガン作用を警戒していた、ということを知るとき、歴史の見方は変わるのだろうか? 変わる、と私は思う。我々がふつう考えている以上にナチズムというのは込みいったもので、まことしやかな、そして妙に魅力的な側面すらもっているのである。「我々」と「奴ら」とを隔てる壁はそれほど高くないのである。

(中略)

 歴史家の仕事のひとつは、一見脈絡のないところから一定のパターンを見つけだすことである。雑多なものがより大きな真実を指し示していることがある。だから私がこの本でとくに扱いたいのはナチスの恐怖ではなく(中略)、むしろふつうはファシズムと関連づけて考えられることのない、たとえば飲食物、化学物質・放射性物質、工場の衛生管理、アルコール・薬物嗜好の排除といった面である。ファシズムの知られざる一面、現代の嫌煙運動、食品・飲料水の安全キャンペーン、運動および予防医学の振興へとつながる一面である。

 ナチズムそのものを私はある種の実験、排他的な健康ユートピアを実現するための壮大な実験として扱うことになる。このユートピア構想は、ファシズムのよく知られた集団殺戮の側面と無縁ではない。ドイツの工場の空気と水からアスベストと鉛を除去しようというのと、ドイツ国家からユダヤ人を一掃しようというのは同じ発想だ。ナチス・イデオロギーは国家の環境浄化と人種浄化を結びつけた。

(中略)

 歴史や社会哲学の専門家はこれまで、ファシズムの悪の面を資本主義のせいだ、全体主義のせいだ、軍国主義、反ユダヤ主義、「権威的な人格」のせいだと言って片づけようとしてきた。そのすべては核心的なものであるけれど、それですべてが説明できるわけではない。(中略)この時代の残虐な犯罪と、公衆衛生の分野における(今は顧みられることもない)先駆的業績との、謎のギャップをつなぐ橋となるのがこの健康ユートピア願望なのではないかと思うのである。

(中略)

 こうした事実に驚くのはかまわない。が、だからといって今日自分か何を食べ、どう働くかを変えることはできないだろう。あるいは、それも変えるべきなのか? じつは、私がこの本を書いたひとつの理由は、その答えを得るためである。ことによると、必要なのは、かつて科学と道徳を結びつけていた、そして今ではもうすり切れそうになっている絆をあっさりと切断してしまうことなのかもしれないのだが、よくわからない。平生私は、科学に価値判断はないとか、あってはならないと主張するタイプの人間ではないのだが、それでもなお、ナチスがかつてガン研究のパイオニアであったのならば、それはなぜか、そのことがどういう意味をもっているのかを知るべきだと考えている。

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2009 12/6

『イングロリアス・バスターズ』映画大作戦! (洋泉社MOOK 別冊映画秘宝)

 正直クエンティン・タランティーノはそんなに好きではなかった。嫌いだったと言っても過言ではない。それでもこれはやられた。ハマりすぎ。

 ちょうど山口貴由の『シグルイ』を初めて読んだときとか、岩明均の『ヒストリエ』を初めて読んだときのような、後から考えると最初からこれしかなかったように思えてしまうハマりぐあい。

 タランティーノと言えば何だ? マンガチックな演出だ。そして、ナチというのは、そもそもとてもマンガチックな存在だ。*1

 タランティーノと言えば何だ? 暴力と残酷シーンだ。そして、そもそも戦争ほど暴力的で残酷なものがあるか。

 タランティーノと言えば何だ? 緊張感のあるセリフのやりとりだ。そして、そもそも人間狩りやスパイの尋問よりも緊張感のあるセリフのやりとりなんてありうるか。

 個人的にたった1つの問題はブラピ。ブラピの演技は悪くなく、むしろ最高だったので彼の責任とは言えないのだが、彼が画面に出るたびにどうしても「ああ、ブラピだなあ。これはハリウッド映画なんだ。」と一瞬現実に引き戻されてしまうのだ。

 ついでにもう一つ個人的な感想を言わせてもらえれば、悪役スキーとしてランダ大佐がたまらない。近年希に見るインパクトのある映画の悪役キャラではあるまいか。

 R15+指定で、それ総統相当のグロシーンは確かにあるが、そこがクリアできるすべての人に絶対おすすめ。

*1:もちろん、ナチズムや優生学というのは当時の科学水準からするとそれなりの論理的整合性があったのであり、見くびりすぎるのは危険だという話はできるのだが、それはそれで別の話として。

おまけ

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2009 3/21

ワルキューレ

 金返せというほどではないが、あまりオススメできるポイントもなかったような。トム・クルーズなら何でもいいという方にしか。そうでない人にはこれを見るより『ヒトラー 最期の12日間』の方を推薦する。

おまけ

 ワルキューレ→ワルキューレの伝説

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2008 11/7

ナチス・ドイツの有機農業―「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」 (KASHIWA学術ライブラリー)

 今もシュタイナー教育などに名を残し、真面目に受け取っている人もいるルドルフ・シュタイナーと有機農法の話から始まって、自然を愛し全ての生命と共生しようという思想がなぜ大量殺人のような結果を生んだのかを巡る話に繋がっていく。

 私はこれとかこれとかナチスネタには目がないのだが、この本と『ナチスと動物』『健康帝国ナチス』の2冊はどれも素晴らしく、“いまここにいるナチス”三部作とでも勝手に命名しておすすめしたい。

 現代のディープエコロジーのような考え方や、日本のフードファディズムめいたトンデモ食育にもしっかり残っているナチスの影響。ついでに戦前日本はオカルト的自然観と民族主義の点でナチスドイツに本当に瓜二つだったんだということもよくわかるぞ。

参考リンク

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 健康→禁煙→タバコ

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2007 11/18

わが闘争 上?完訳   角川文庫 白 224-1

 『我が闘争』を初めて読んだのは中学3年か高校生1年ぐらいの時だっただろうか。

 読む前は何となく期待していた。なんと言ってもヒトラーといえば公認世界一わるいひと*1じゃあないか。まっとうな中学生男子を慰めてくれるぐらいのとんでもないことが書かれているはずではないか?

 しかし、期待は裏切られた。あまりにも面白くないのである。*2面白くなかったのでほぼすべての内容を忘れてしまっているのだが、ただ一箇所だけ強烈に印象に残って一生忘れられない箇所がある。

エーテルの中を突き進む地球

 という表現だ。*3ここで言うエーテルは、もちろんファイナルファンタジーのMP回復薬のことではなく、光の媒質として仮定されていたエーテルのことである。

 私はこの部分を読んだとき本気で椅子から転げ落ちるかと思った。これは二重、いや三重の衝撃だった。最初の衝撃はもちろんヒトラーがエーテルに言及しているということだ。

 つまりマイケルソン・モーリーの実験は19世紀末、アインシュタインの特殊相対性理論は物理学の奇蹟の年1905年、ヒトラーが死んだのは1945年で、我が闘争が書かれたのはその2,30年前だろうから(今調べたら1923年頃)、ヒトラーはエーテルなど不要な仮説であることを知っていると思っていたわけである。

 これは冷静に考えるとかなりバカな話だ。現在当たり前の科学理論が、提唱されてすぐに受け入れられたわけではないことは、当然知っているつもりであった。

 さらに学説として正しいと認められたからといって、それがすぐに社会一般にまで行き渡るはずがないということも、もちろん承知していたつもりであった。

 従って、特殊相対論から20年後ぐらいに書かれた我が闘争にエーテルが普通に出てくるというのは、十分予想しえたはずであった。

 そうであるにも関わらずヒトラーがエーテルに言及していることに驚いてしまったということが第二の衝撃であった。要するに何も知っていなかったのだ。教科書に出てくる数字を覚えていることと本当に知っていることは全く違うのだ。

 そして第三の衝撃は、ヒトラーが特殊相対論を知らなかったことを私が知らなかったことをそれまで知らずにいたこと(ややこしい!)である。

 その日まで私がヒトラーについて何かを考え評価するとき、その判断の全ては彼が特殊相対論を知っていてエーテルなど不要な仮説となったことも知っているという前提の元で行われていたのである。

 それのどこが衝撃なんだって? もちろんヒトラーが相対性理論についてどう考えていたかはどうでもいい。だがちょっと考えればすぐわかるように、これは相対性理論だけでなく他のありとあらゆる物事に成り立つ話なのだ。

 たとえば今日、遺伝子の物理的実体はDNAであって、二重螺旋構造を取る巨大分子であることは常識であり、ほとんど誰でもが知っている。だがワトソンとクリックの仕事によってその二重螺旋構造が最終的に確定したのは1953年であり、1945年に死んだヒトラーは生涯それを知ることはなかった。

 知ってた?

 ほとんどの人は「そりゃもちろん知ってたよ」と言うだろう。実際に知っていた人が大勢いるであろうことも当然否定しない。だが前半の話をもう一度読み直して本当に、本当の意味で知っていたかどうか考えてほしい。

 今までヒトラーも当然DNAの構造ぐらい知っているものと考えてはいなかっただろうか? 「嘘だ! 俺はそんなトンデモなことを考えた事なんてない! あるもんか!」と思うかもしれない。確かにそうかもしれない。だが本当にそうならば、では一体どう考えていたというのか教えてほしい。

 人間がコンピュータと違っていちいち事細かに詳細なデータを与えられずとも思考できるのは、非常に多くの物事を常識として扱えるからである。「パンはパンでも食べられないパンは?」というなぞなぞがなぞなぞとして成立するのは、パンというものは特に留保条件をつけなければ食べられるのがデフォルトである、という常識が働いているからだ。

 現代では人はDNAに関する知識を持っていることが常識と思っており、しかもこれまでヒトラーの時代の生物学について特に考えたことがないのであれば、やはりヒトラーもDNAに関する知識を持っていると考えていたとする方が妥当だと思う。

 このことは相対性理論のことと違ってどうでもよいとは言えない。当時の遺伝学・生物学がどのようなものであったと考えているかは、ナチズムの評価そのものに直結するからである。

 私は、反ユダヤ主義の伝統と無関係のはずの日本でもホロコースト否定論が一定の割合で存在しうる理由が大きく分けて三つあり、そのうちひとつは“これ”だと思っている。

 ちなみに他のふたつのうちひとつは第二次大戦で同じ枢軸国側だった関係でナチスドイツの戦争責任を軽減することが日本のそれも軽減することになると考える傾向、もうひとつは欧米で新ナチ的、ホロコースト否定的言論が禁止されていることへの反発*4である。

 たとえば「戦争中だというのに莫大な費用と手間を費やして人間を殺すためだけの施設を建設するなんて理屈に合わない。だから絶滅収容所などというのは捏造に違いない」というような意見が生まれるのは、明らかに当時の思想状況の無理解によるものだろう。

 メンデルの遺伝法則は知られていて分子遺伝学は知られていなかった時代、「劣等者」の排除によって人類全体が向上できるということがどれほど自明に思えたかが、わからなくなってしまっているのだ。たった今こんな命題を思いついた。

  • 人種や遺伝について利用できる真実の知識の格差は、アリストテレスとヒトラーの間よりも、ヒトラーと私達の間の方が大きい。

 どう? 何か文句ある?*5 単なる適当な思いつきなので、正しいかどうかわからないし、第一知識の差をどう定義すればいいのかわからないから正解などあるはずもないが、私には一概に間違いとも言い切れないと感じる。

 要はヒトラーの時代以降、人種や民族や遺伝について私達が得た知識はそれほどまでに圧倒的だと言っているのだ。そしてその多くが分子遺伝学の発展に寄っている。たとえばWikipediaの人種の項を見てみよ。『銃・病原菌・鉄』を読んでみよ。

 どちらも分子遺伝学なしにはあり得なかった知識である。今ワトソンが人種差別発言で非難されているのはまさしく歴史の皮肉としか言いようがない。

 以前にもコンラート・ローレンツに絡んで過去の常識を認識することの重要さを強調したことがあるが、現代の常識を当てはめたままナチズムを評価すると、当然それはあまりにも荒唐無稽に見える。

 そして、先のようなホロコースト否定まで行かないまでも「ああ、ヒトラーは頭がおかしかったんだろう」といった風に矮小化してしまうことになりがちであり、これは危険である。

 現代では当たり前だと思われていることの中にも、未来の価値観から見ればナチズムに匹敵するほど荒唐無稽で野蛮の極みと思われることがいくつか、そんなには多くないとしても、確実にあるはずなのである。私には言語多様性に対する無理解などがその有力候補であると思われる。

 多くの言語が最低限の記録すら残さずに消滅していく一方で、より多くの人が世界公用語として英語を使うようになることが当然で、良いことでさえあるかのように思われている*6現代の状況は、ある程度以上未来の我々の子孫にとって恐怖と侮蔑の対象であろう。

 そして「当時はそれが当たり前だったんだ!」 と私が墓の中からどんなに抗議しても、彼らは絶対に許してくれないだろう。私達が魔女狩りに参加していた農民達にもそれぞれ言い分があったであろうことなど一顧だにしないのと同じように。

*1:オサマ・ビンラディンはまだ世に知られていなかった。
*2:「ナチスの高官も『我が闘争』は面白くないのであまり読んでいなかった」という話は、ただ強い印象を与えるというだけの理由で生き残っている根拠不明の逸話ではなく、何らかの真実を含んでいるものと私は思う。
*3:資料が手元にないが間違ってはいないと思う。いずれにせよ本全体の主題とはあまり関係ない。?地球の上で我がドイツ民族は云々とかいう単なる「地球」の飾り言葉だったような気がする。
*4:単純に禁止されているものは魅力的に映りがちである傾向+そんなに必死で否定するのは本当だからに違いないという陰謀論的思考
*5:「アリストテレスをヒトラーなんかと並べんなよ」以外で。
*6:私もある程度まで思っている。

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 ドイツ(……なのか?)繋がり。全てが狂気。

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2007 8/11

ナチスと動物―ペット・スケープゴート・ホロコースト

 このエントリでローレンツの生きていた時代を適当に「この時代」と書いたが、「この時代」とは思いっきり大雑把に言えばナチスの時代でもある。

 我々が今日持っている人類文化、芸術、科学および技術の成果はほとんど専らアーリア人種が創造したものである。アーリア人種は人類のプロメテウスであって、その輝く額からいかなる時代にも常に天才の精神的な火花が飛び出し、神秘の夜を明るくし、人類をこの地上の生物の支配者とする道を上らせた。アーリア人種に最も激しい対照をなすものがユダヤ人である。この世界にユダヤ人しかいなければ、彼らは泥や汚物に息がつまるか、憎しみに満ち満ちた争いの中で互いに騙しあおうと務めるだろう。我々民族主義国家は人種を一般生活の中心に据え、人種の純粋維持のために配慮しなければならない。

我が闘争より

というのは映像の世紀で引用されたので比較的よく知られた部分だと思うが、ローレンツが使っている「額」は、ここでヒトラーが使っている「額」と100% 正確に同じ意味合いを担っている。

 実際ローレンツは親ナチス的だったとされてノーベル賞受賞の際に問題になったりもしたそうだ。私はその顛末についてほとんど何も知らないが、全く根拠のないことでもなかっただろうと判断できる。

 随所で示される肉食動物の強さと狩猟本能に対する好意的な見方、人間の精神を特別視して称揚すること、パターナリズム的な動物愛護への強い傾向、いずれもナチスの精神と著しい類似を成すものだ。この類似は偶然ではない。

 ただし、当然ながらローレンツはあらゆる現代の基準をもってしても依然として尊敬しかしようがない人物であり、私はこのことをローレンツが批判されるべきだと思って言っているわけではない。

 私にとってこのことは単にローレンツとヒトラーは同じ時代に生きていた(私やあなたと同じ21世紀にではなく)という以上のことを意味するものではない。

 人間はとかく目立つもの、とりわけ否定的な方向に目立つものに注目しがちである。魔女狩りをしていないときの中世ヨーロッパ人の精神生活について何か考えたことがあるだろうか?

 この傾向はかつて生存に有利だった――もちろん今も有利な――本能であり、それ自体は何も悪いことではないだろう。ただし、一個人の感覚の範囲外(空間的・時間的・その他様々な意味で)の物事を捉えようとする時には、正確な判断の妨げになっているように思われる。

 私達は20世紀の異常な道徳(今回で言えばナチズム)については非常によく知っていると言っていいだろう(少なくとも相対的な意味では)。しかし、同じ時代の賞賛されるべき人間がどんな道徳を持っていたかについてどのくらい知っているだろうか。

 まさに私がローレンツの本に見出している、普通に面白くてためになるという以上の価値は、20世紀前半のまともな道徳というものがどんなものだったかを退屈することなく知ることのできる極めて貴重な手段であるということである。

おまけ

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2006 8/27

ナチスと動物―ペット・スケープゴート・ホロコースト

 ある女性作家の子猫殺しエッセイ*1が論議を呼んでいるという件。

 普通ならスルー確定の話題だったのだが、たまに読んでいたココヴォコ図書館がそのあおりをくって消えてしまったっぽいので何か書き残しておきたくなった。

 当のエントリはあまりこなれていなかったように見えた*2が、動物愛護とナチス思想の関連性に独自にたどり着いていたのだとしたらかなりの慧眼といえる。閉鎖してしまったのはもったいない限りだ。

 しかし、この話題についてまともに述べようと思ったら膨大な分量を費やさなきゃらないので少なくとも今はやらない。おすすめの参考書を下で何冊かあげておくに留める。

 本題。今回の件で作家を非難している人が、日常的に野良犬や野良猫を始末している保健所に日常的に怒りを感じたり抗議を入れているとは考えがたい。

 彼らの本当の抗議の対象は、子猫を殺したことではなくそれを公言したことの方にあるのは明らかだ。彼らの感じている激しい怒りは言葉に直すとこうなる。

 増えすぎた動物を殺すなんてことは専門の“卑しい”身分の人間が世間様に見えないようにこっそりやるものであって、善良な一般市民がするものじゃない。

 ましてや新聞に書いて他の善良な一般市民(すなわち我々)にまでそんな“穢らわしい”ことを想起させようとするとはまったくもって言語道断。そんな奴は我々善良な一般市民の一員とは認めない!

 極めて簡単である。ところが話をややこしくしている別のファクターがある。ひとつには歴史的経緯から、こうした伝統的・東洋的“穢れ”概念が「悪い」ものであるという認識がすでに行き渡っているということ。*3

 同時に、だからといってそれに代わる何か別の体系が定着しているわけでもないということだ。

 そこに齟齬が生じている。怒りや非難の感情を表現したい人々は、非難の根拠を、怒りを生んだものとは別の慣れ親しんでもいない体系*4からわざわざ探してこなければならなくなっている。

 それが奥歯に物が挟まったようなすっきりしない議論がいつまでも続いているように見える理由だろう。

*1:単なる売名だと思っているので名前もリンクも書かない。
*2:ちゃんと読む前に消えてしまった。
*3:それ自体は結構なことだ
*4:その多くは西洋・キリスト教系、稀に科学系。

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