2008 12/4

(本文とは無関係)

科学を信仰してるだけじゃん

みたいな言い回しが後を絶たないな。
この言い回しそのものがおかしいという事を小学生にも分かるように書きたいのだが、
全然うまい事思いつかねー。
こういうのをうまく説明できる頭の良い人がうらやましいな。
でもあきらめずにもうちょっと考えてみよう。

(科学を信仰してるだけじゃん)

 思いつかなくても仕方ない、というか思いついたらすごいよ。それは近代以降の科学哲学の基本だから。ひさびさに『表現の自由を脅すもの』より。

 宗教活動家達はしばしば、自由科学体制(「世俗的ヒューマニズム」)はそれ自体信仰の一形態、一つの信念体系であり、だから特別の位置づけには値しないとこぼしている。彼らは半分正しい。自由科学を信じることも、一つの信仰であるが、しかしそれは特別の位置づけに値する。(中略)異端審問が無くなったのは、人々が信仰無しでやっていけるようになったからではなく、自由社会制度を信奉することを学んだからであった。何人もチェックを免れることはなく、また何人も自分一人が決めるとは言えないというルールに自らを委ねたのである。こうして人々は、意見の相違を解決する権力は特定個人の手には存しないという自由知識社会の傑出した政治的事実を確立したのであった。そうした大きな権力を委ねても絶対に安心だと言えるような特定個人は決していないのである。

 そうだとすれば、科学のルールは、その本性上、知的権威主義の政治的正統性を粉砕する。「真理は使徒達及びその後継者に特に委ねられた」と教皇ヨハネス・パウロ二世は1989年に宣言した。自由な文化の中では、そうした種類の主張、というより実は権力奪取は、不法であり忌むべきものである。(中略)自由社会では、誰が正しいかを決める唯一の方法は、批判と質問を通じて互いに公然とチェックし合うという、何の制約もつけないやり方である。それはちょうど、民主主義社会で、政治権力の唯一正当な判定者は、何の制約もつけない民衆の投票であるのと似ている。これ以外の主張は皆インチキである。たとえ教皇、宣伝家、反共主義者、反人種差別主義者であれ、何人であれ、誤った考えの人々を権力から遠ざけるために批判を封じてしまいたいとか、議論を統制したいと思う者は、道徳的権利を持たず、これを無視するより他に仕様がない。

 前に公理の話をしたが、科学を行うにも数学の公理のように根拠なしに信じなければならないことはある。

 まず、なんらかの実在論

 実在論というのは平たく言えば「すべては幻なんだよ!」の反対。「すべては幻なんだよ!」はどうやっても否定できない。それを誰に教えればよいのかという単純だが重大な問題があるので、まともに唱えられることがないだけで。

 思考節約の原理オッカムの剃刀)もそう。

 より複雑でややこしい説明が真であるとする原理は、すぐさま無限の「正しい」答えを生み出すから実際上はナンセンスにしかならないが、だからと言って、より複雑な説明のどれかが真ではないということにはならない。「そうであってもどうでもいい」ということは確実に言えるが。

 「過去の経験から未来が推論できる」という命題もそう。

 これが真であると証明するにはどうしたらいいだろう。証明したいと思っているからには、現在はまだ真とは限らないわけだ。そして未来のある時点で真となっていてほしいわけだ。だがその時点から見て過去である現在「過去から未来が推論できない」のなら何をしても無駄だ!

 そもそも推論できるような未来が存在するということだってそう。

 確か小松左京が2000年のカウントダウンの瞬間突然時空が終わりになるというショートショートを書いていたと思うが、これは実は単なる面白いSFというわけでもない。

 現代の宇宙論では真空相転移のような出来事が起こって、原理的に何の前触れもなくいきなり既知の物理法則が通用しない状態に放り出されるようなことは現実に(!)ありうると考えられている。確率が限りなく低いので完全に無視できるだけで。

 公理とはちょっとずれるけど、無謬性の否定というようなルールもそう。

 現代科学が無謬性を断固として拒否するのは、単に過去の経験に懲りたからであって、宇宙に無謬性が存在してはいけない理由を証明したからではない。

 来年の12月に月よりでかいUFOが飛来して、やってきた宇宙人が人間が思いつくようなあらゆる疑問に物理法則の許す限り完璧に答えてしまう、という事態がありえないことは今のところ誰にも保証できない。ない方に迷わず全財産賭けるけれども。

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おまけ

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2008 5/18

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

へのはてなブックマークに対して、

では、公理そのものの妥当性は何がどう担保しているわけですか? – BLOG15の日記

では聞きますが数学の演繹の出発点の公理系そのものの妥当性、正当性は何によってどう担保されているのでしょうか? 本質的に間主観性としての、つまり主観の寄せ集めの仮決めでしかないと思いますが。

 という質問が来たので、ちょうどいい機会だから公理について書いてみる。もともとの質問への回答でだいたい言い尽くされているような気もするが。

 数学の演繹の出発点の公理系そのものの妥当性、正当性は何によってどう担保されているのでしょうか?

 何によってもどうやっても担保されてなどいません。妥当性を担保されているものは公理ではありません。定理です。定理の妥当性を担保するのは公理です。で、じゃあ公理って何なんだということになるわけですが、

 本質的に間主観性としての、つまり主観の寄せ集めの仮決めでしかないと思いますが。

 その通りです。公理っていうのは主観であろうが何であろうが根拠のない仮決めなのです。もし根拠があったらそれは公理ではなく定理で、その根拠の方が公理です。

 なんでそうなのかというと、もし公理に根拠がなければいけないとすると、その根拠の根拠はなんだ? という疑問がただちに生じて、根拠の根拠の根拠の……(∞)……という無限退行に陥って、いつまで経っても何も言えなくなります。

 それでは何も面白くないので、根拠なしにある一連のことを勝手に正しいと決めて「公理」と呼ぶことに決めるのです。以降は仮想問答。

 勝手に正しいと決めるって……それでいいの?

 それでいいんです。

 だって勝手に決めたらそれが妥当かどうかわからないじゃん。

 と思うでしょうけど、公理には妥当も不当もありません(自己矛盾している場合以外)。たとえば「全ての数は0に等しい」というような公理を持つ公理系を作ることは可能です。その公理系が“普通の”数学の公理系に比べてどっちが妥当だとか妥当でないとかいうことはありません。

 んなアホな。どんな公理も等しく妥当だっていうならどれも無意味って事になるじゃん。

 そうじゃありません。公理系の価値は、そこから導きうる様々な定理や結論が豊かで興味深いかどうか、あるいは現実に応用可能か、平たく言えば面白いかどうかで決まります。「全ての数は0に等しい」というような公理系は何もかもが自明で面白くないから誰も研究しないし話題にしないだけのことです。

 要するに公理はゲームのルールみたいなものです。「オセロはどうして自分の色が多いと勝ちなの?」という問いは馬鹿げてます。「作者がルールをそう決めたから。」以上の答えはありません。

 「色の少ない方が勝ち。」とか「コマを指ではじいて回転させ、倒れたときに上になっている色を言い当てた方の勝ち。」とかいうルールを勝手に決めても別に悪いことはありません。

 そのルールが元のルールと比べて妥当であるとか妥当でないとか決める絶対の基準が宇宙のどこかにあるわけではありません。単にそれはオセロではなく、たぶんそんなに面白くないというだけのことです。

おまけ

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