2010 12/23

(本文とは無関係)

 忙しくて長いの書く時間がないので没ネタ発掘計画その一。

 そんなふうに考えていた時期が私にもあった。つまり、

 「差別語」の言い換えなどというのは、事なかれ主義によって無駄なコストを増やしているだけであり、差別の解消には全く繋がらない。事なかれ主義からではなく真に差別に反対する心ある人ならば、できる限りそのような言い換えには反対すべきだ。

 と思っていた時期が確かにあった。

 だが、後になって私の中ではこの考え方はかなり修正され、事実上否定されている。

 確かに差別語問題は、無駄で無意味なイタチごっこのエピソードに充ち満ちているように見える。

 いや、見えるだけでなく、実際に無駄で無意味なイタチごっこ以外のなにものでもないとしか思えない。言い換え・書き換えには実際に大きなコストがかかっているように思われる。

 単に手間暇がかかるだけではなく、過去の情報を検索したり理解したりすることが難しくなるというコストもかかる。

 生物の学名に「死んだ」言語であるラテン語が使われ続け、一度ついた学名は、意味内容がどんなに間違っていても絶対に変えないのは、主にそのためだ。

 最近の話で言えば、従来「痴呆症」と呼ばれていた症状は「認知症」と呼ばれるようになった。なんとも意味不明極まるアホな命名に思える。

 このまま*1ほんの数十年もすれば、「認知」という言葉の価値が、認知症の実体に引き寄せられて下がっていき「認知症」なんて言葉はマイナスの印象が強すぎて我慢できなくなる時期が必ずやってくる。

「やーいニンチニンチー」
「これ! ニンチなんて言葉を使っちゃいけません!」
「えー? なんでー?」
「いけませんと言ったらいけません!」

 などという光景が現出するようになり、また別の言葉に言い換えがなされるだろう。そして再び、間違いなくコストがかさむだろう。

 こうなると、やっぱり言い換えなんて止めさせるべきなのでは、という感想が強くなるかもしれない。

 だが、確認しておきたいのは、こうした変遷はいわゆる差別語に限らず、言語の全領域で常に起きていることであって、それを止めることは、時間を止めることができないとの同じぐらい、まったく不可能な話だということだ。

 わかりやすさのために誰にでも関わりのある例を出そう。

 日本語におけるトイレの一番古い言い方は「厠(かわや)」だそうだ。語源が「川屋」なのか「側屋」なのかはともかく、どちらにしろ最古の時点ですでに婉曲表現であることに注意されたし。

 その後「厠」から「はばかり」「手水(ちょうず)」になり、もっと後になると「お手洗い」「化粧室」「ご不浄」になり、現代は英語などの外来語を使って「トイレ」「バスルーム」「WC」などと呼ばれている。

 当然ながら、う○こはもう何億年も前からウン○だ。基本的に全く変わっていない。なので、言葉の方が変わってこざるをえなかった。言葉というのはそういうものなのだ。

 さらに、トイレを「化粧室」と呼ぶことが定着してくると、今度は「化粧」という言葉の価値が○ンコに引きずられて下がってくる。

 その結果(だけではないが)、コマーシャルなどでは、最近は化粧のことをまず化粧とは言わず、メイクと言ったりコスメと言ったりするようになっている。*2

 一時が万事で、言葉は人間の意識(や広告費その他諸々)をめぐって激しく淘汰しあう関係にあり結果として進化していく。

  • 「いわゆる“差別語”の言い換えは差別の実態を何も変えない」

 と、かつての私を含む言い換えの批判者は言うだろう。そうかもしれない。私も、今でも多分そうだと思っている。*3

 しかし、仮に「痴呆症」を「認知症」と言い換えることを禁止するなら、「化粧」を「コスメ」と言い換えることも同様に禁止しなければ*4痴呆の話題は、現在すでにそうである以上に化粧(その他諸々)の話題に押しのけられてしまうことになるだろう。

 そして痴呆老人やその周辺の社会の実態は(少なくとも相対的な意味で)今まで以上に悪化していくことになるだろう。

 本当にただ何も変えないでいるためには「差別語」の批判や言い換えのような地味で無意味に思える活動も常に続けられなければならず、それをしなければ今以上に悪くなる。

 つまり、これはイタチごっこというよりは、赤の女王――同じ場所に留まり続けるには走り続けていなければならない――にたとえられるべき状況だということである。

*1:近年の科学の発展を考えると、アルツハイマー病や痴呆症一般に劇的な治療法が見つかって、問題の前提そのものが変わってしまう可能性もあるが、それはないものとしよう。
*2:コマーシャルというのは消費者に要るモノ要らないモノを問わず、少しでも高く買わせるために、もっとも厳しく言葉の新鮮さ・格好良さを競わなければならない舞台だから、そこでは最先端のミームが競っている傾向があるのだ。
*3:効果があるとしても、新しい物事は単に新しいというだけで注目され・注意を払われるから、その分うまくいく(ことがある)というだけだろう。これにはなんとか効果という名前がついていたと思うが思い出せない。
*4:もちろんそれは絶対に不可能だ、ビッグブラザーになってニュースピークを制定するぐらいの覚悟でなければ。

おまけ

 空耳の定着する過程って典型的なミーム淘汰だと思う。

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2009 9/5

アメリカのスポーツと人種

 に関連して、

 に追加しておいた方がよいと思う本を紹介しておく。

 白人と黒人両者が人種的運動能力に関する調査を恐れているのは、それが知力や情緒に関わるもっと内面的な人種的差異を示唆するからである。科学者と一般人のいずれも、人種的な身体構造や生理についての本音を隠し続けているので、両者の不安は解消することがない。こうした沈黙は、人種神話や似非科学をはびこらせ、黒人と白人両者の幻想願望を満たし続ける。ヒト生物学者が人種的差異に関する恐ろしい真実を隠しているという根強い暗黙の了解が存在し、それゆえ、近代科学が公式に反人種主義声明を発表しているにもかかわらず、人々は、科学が人類の多様性だけでなく同一性を証明するだろうとは信じようとしない。

 本文だけで400Pもある大著であり、そう気軽に読める本ではないが、順序としては『黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る』より先に読んでほしいかも。

おまけ

 それにしても単なる逆再生すら面白いと感じさせてしまうほどの驚異。

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2009 8/18

(本文とは無関係)

■自身の記録、0秒11も更新

 北京五輪の陸上男子短距離で3冠に輝いたウサイン・ボルト(22)=ジャマイカ=が16日、ベルリンで開催されている世界選手権の100メートル決勝を9秒58の驚異的な世界新記録で制した。ボルトはちょうど1年前、北京五輪でマークした従来の世界記録を0秒11も更新した。現行の電気計時で世界記録が9秒台に突入してからは最大の更新幅となる。

(「ボルトが異次元の世界新 100M9秒58で優勝」:イザ!)

 ごめんなさい! 今日日、男子100メートルの世界記録が一度に0.1秒以上更新されるなんて絶対ありえねーwww 科学的に考えて、とか思っていました。

 三十路も近くなると、こんな風に現実の良いニュースに吃驚仰天させられるなどということは滅多にないものだが、ああ幸せ。

 ただ、この幸せに水を差すものが目に留まってしまった。

 おそらく悪意はまったくないんでしょうけど、この場面で動物動物連呼すんのやめてもらえませんかね。

 ワトソン発言の時もそうだったが、日本では人種問題が――少なくともアメリカにおける文脈と同じ黒人差別問題としてのそれが――存在しない分、かえってカジュアルな差別意識に対する認識が甘くなっているように思う。

おすすめ参考図書

おまけ

 これ自体は一発ネタだけど、第3回MMD杯はどれもすごいぞ。

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2008 6/9

人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1)

 RUMさんのコメントで知りました。今までネット上ではほぼ入手不可で、図書館で借りるか古本屋で探すしか読む方法がなかったので、以前から復刊を願っていましたが、実現した形で非常に喜ばしいです。ぜひこの機会に読んで下さい。

おまけ

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2008 2/16

人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1)

第22回】 【目次】 【第24回

 スティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』の読み合わせも今回で最後である。

女性の脳

 「劣等」グループは生物学的決定論という一般理論では相互に代替性がある。劣等グループは連続的に並置されており、一つのグループは他のすべての代表として利用される――このための一般的前提としては、社会は自然の摂理に従い、社会階級は生得的価値を反映しているという考えがあげられる。かくしてドイツの人類学者E・フーシュケは一八五四年につぎのように述べた。「黒人の脳は、子どもや女性に見られるタイプの脊髄を所有し、またそれ以上に、高等なサルに見られる脳に近い。」(モール、一九〇九年、一〜二ページ)有名なドイツの解剖学者であるカール・フォークトは一八六四年つぎのように記した。

「黒人の脳は、頭頂が丸いことと後頭葉が発達していない点で、我々の子どもに似ており、頭頂葉が隆起している点で我々の女性に似ている。成長した黒人の知的能力は白人の子どもや女性や老人の特質と共通点がある……。いくつかの種族は国をつくり、固有の組織を有する。しかし残りについては、過去においても現在においても、人間性の発達に役立ったり、保存するにふさわしいことは何一つしなかったとはっきりと主張できる。」(一八六四年、一八三〜一九二ページ)

 ブロカの同僚であるG・エルヴェは一八八一年に「黒人の男性が白人の女性より重い脳を持っていることはほとんどない」と記した。(一八八一年、六九二ページ)。私は、一つのグループの闘争は我々全体のためになるという主張を空しいレトリックだとは考えない。

 私も、一つのグループの闘争は我々全体のためになるという主張を空しいレトリックだとは考えない。あなたはどうかな。

 マリア・モンテッソリは、自分の活動を子どもたちの教育改革だけに限定しなかった。彼女はローマ大学で数年間人類学の講義をし、『教育学的人類学』(イギリス版、一九一三年)と題した影響力ある本を著わした。彼女はどんなに控え目に言っても平等主義者ではなかった。彼女はブロカの大部分の著作を支持し、彼女の同国人であるチェザーレ・ロンブローゾ(第四章)によって提出された生得的犯罪説を支持した。彼女は自分の学校の子どもの頭の外周囲を測定し、最も期待できる子どもは大きい脳の持主であると推論した。

 ところが彼女はブロカが出した女性に関する結論は利用しなかった。彼女はマヌーヴリエの研究を詳細に論じ、妥当な補正が行なわれるなら女性はわずかに大きい脳を持つ、という彼の不確かな仮説を重視した。女性は男性より知的に優れているが、今までは肉体的力によって男性の方が圧倒していた。技術が権力の道具としての体力を無効にしてしまったからには、女性の時代がまもなく到来するであろうと結論した。「そのような時代には本当に優れた人類が出現するであろうし、道徳的にも感情的にも強い男性が存在するようになるであろう。多分このようにして女性支配の日が近づきつつあり、その時には女性の人類学的優秀さという未知の事実も解読されるであろう。女性は常に人間の心情、道徳、名誉の管理者であったのだから。」(一九一三年、二五九ページ)

 モンテッソリの議論は、あるグループが体格的に劣っているという「科学的」主張に対する一つの可能な解毒剤である。生物学上の差異が妥当だと認めることもできるが、その結果に利害関係をもつ先入観で毒された男性によってそのデータが誤って解釈されてきたのであって、不利なグループが本当は優れているのだと主張することもできる。近年エレーヌ・モーガンは自著『女性の由来』の中でこの戦略をとった。すなわち、女性の観点から人類の有史以前を推測し再構成した。これは男性のための男性による例の誇張された話と同様に茶番めいている。

 エレーヌ・モーガンって名前にどこかで聞き憶えがないか? そう、第10回に出てきた、水生類人猿説を有名にしたエレイン・モーガンのことだよ。何というか類は友を呼ぶというか世間は狭いというか。

 この「世間は狭い感」はこれから先何度か繰り返し味わうことになるだろう。ちなみに、ここで『女性の由来』と書かれている本は『女の由来―もう1つの人類進化論』のこと。

 私は本書を別の立場から執筆した。モンテッソリとモーガンはブロカの方法を踏襲し同質の結論に達した。私はむしろどのような目的であろうと、さまざまなグループに生物学的価値を固定しようとするすべての企てに対して、それが見当ちがいであり、知的に論拠薄弱であり、全く有害であることを示したかったのである。

 私はこの意見に強く同意する。俺も俺もと同意する人が大勢いそうだが、ちょっと立ち止まって考えてからにした方がいいと思うぞ。「どのような目的であろうと」だぞ? たとえ人類の傲慢をたしなめ地球を破滅から救いたい一心であろうとだぞ?

第四章 身体を測る

我々はみんなサルの状態があった――反復現象

 反復説は人間のグループを高等とか下等とかランクづけようとした科学者に魅惑的な規準を提供した。劣ったグループの成人は優れたグループの子どもに似ているに違いない。子どもは原始時代の祖先の成人の状態を表わしているからである。もし、成人の黒人や女性が白人の男の子に似ているならば、彼らは白人男性の進化過程における祖先の段階を示す生きた見本である。頭のみでなく、身体全体をもとにした人種ランクづけのための解剖学上の理論が構築された。

 反復説は生物学的決定論の総括理論としての役割を果した。すべての「劣等」グループ――人種、性別、階級――は白人の男の子と比較された。E・D・コープは反復のしくみを明らかにしたアメリカの優れた古生物学者であるが、この規準によって、次の四つのグループを下等な人間の形態とした。すなわち、非白色人種、すべての女性、北欧の白人に対立する南欧の白人、および優れた人種の中の下層階級、である(一八八七年、二九一〜二九三ページ。コープは、とくに「アイルランド人の下層階級」を軽蔑した)。コープは北方民族の優越性を説き、ユダヤ人や南欧人のアメリカヘの移民を減らすよう勧告した。

 この流れは、このエントリ最後の部分に続く。

 反復説は人種のランクづけについての人体測定学的議論、とりわけ頭蓋計測学的議論に対して、根本的視点を与えることとなった。再び、脳が大きな役割を果すことになった。すでに創造論者の立場でルイ・アガシは、黒人の成人の脳と、七ヵ月の白人の赤ん坊の脳とを比較している。我々は前にフォークトのつぎのような驚くべき主張を引用した(一六一ページ)。黒人の成人および白人の女性のそれぞれの脳は、白人の男の子の脳と同じ程度であり、それから考えれば、黒人はどのような価値ある文明をも創りあげることはできないと。

(中略)

 ルッドヤード・キップリングは帝国主義的詩人であるが、反復説の考えを白人の優越性を主張した有名な詩の最初の節で示している。

白人の重荷を背負え――

君たちが育んだ最良のものたちを送れ
とらわれ人たちの窮乏を救うために
君たちの息子たちを故国から追いやろう
きびしい仕事に耐えて
あわてふためく未開の民に奉仕しよう
君たちが新たに捕えた無愛想な人々は
半ば野獣で、半ば幼な児

 第1回にもちょっと出てきた、大きな反発を呼んだマルコム・ターンブル環境相(当時)の発言を憶えているだろう。おそらくマルコム氏はこのような歴史を知らないのだと思う。

 こうした形で言わば「鎧を覗かせる」ことはガイア教徒として最も慎重に避けなければならないミスである。知っていれば避けられたであろう。知っていて言ったならもちろんもっとやばい。どちらにしろかなり情けない話ではある。

 もし、今世紀に興味ある新しい考えが付け加わらなかったとしたら、十九世紀の愚かさと偏見に対する一つの証明であるこの物語はそのまま続いたかも知れない。一九二〇年までに反復説は崩壊した(中略)。それから間もなく、オランダの解剖学者ルイス・ボルクがまさに正反対の理論を提出した。(中略)進化でしばしば見られる逆の過程が起こると考えてみよう。祖先の子どもの特徴は成長がひどくおくれて、成人の特徴になったと考えてみよう。この遅滞成長の現象は自然界には普通に見られるもので、ネオテニー(文字どおりに解釈すると若さを保つ)と呼ばれている。

 ボルクは、人間は本質的にはネオテニー的なものだと論じている。彼は人間の成人、サルの胎児や、若いサルには共通してみられるが、親のサルには欠けている一連の印象的な特徴をリスト・アップした。すなわち、頭蓋骨の丸いこと、体の大きさのわりに大きな脳をもつこと、顔の小さいこと、頭やわきの下、それに陰部にのみ体毛が限られていること、および回転しない大きな足指(中略)大後頭孔の位置が胎児の状態を保っている

 ネオテニーは反復説よりは真実に近いがそのまま信じない方がいい。今回の問題とは関係ないので深入りしないが、遺伝子と胚発生や進化の仕組みとの関係がかなり明らかになっている今では、もはや一般論に取り込まれており特別に有用な概念ではない、とだけ言っておく。*1

 七十年間、反復説の支配下で、科学者たちは、成人の黒人・女性・下層階級の白人が上流階級の白人の男の子に似ているという同じメッセージを声を大にして宣言しながら、多くの客観的データを集めてきた。さて、ネオテニーから見ると、これらハードなデータは、たった一つのことを意味しうることになる。他のグループでは子どもの優れた特徴が保たれているのに、上流階級の男性ではそれが失われている。したがって、彼らは劣っているということになる。これは逃れられない結論である。

 少なくとも一人の科学者ハーヴェロック・エリスはこの明白な含意にかぶとを脱ぎ、女性が優れていることを認めた。ただし、黒人については同じような告白はせずに、ごまかした。(中略)エリスはは因習を打破したり、論争的であり(彼は性に関する初めての体系的研究書を書いた)、性の違いにネオテニーの考えを応用したが、大きなインパクトを与えることはなかった。その間、ネオテニーの支持者たちは人種の差異に関連して、より一般的な、別の戦術を採用した。彼らは七十年にわたるハードなデータを放棄し、黒人の劣等性を確固とするために新しい、反対の情報を探し求めた。

 ネオテニーの擁護者のルイス・ボルクは、最もネオテニー化の大きい人種は優れていると断言した。(中略)ボルクは解剖学の宝探し袋に手をつっこんで、黒人の成人が少年時代の有利なプロポーションから大きくかけ離れていることを示す特徴をいくつか引っぱり出した。これらの新しい事実によって、古い心地よい結論へとたどりついた。ボルクは「白色人種は最も成熟が遅いので最も進歩しているように見える」(一九二九年、二五ページ)と言明した。ボルクは、「リベラル」な人間であると自認していて、黒人が永久に愚かであると貶めることは拒否した。彼は、将来において進化が彼らに慈みを与えるだろうことを希望した。

 いずれにせよネオテニーは今回の話題とはあまり関係がないが、科学者はその気になれば宇宙の真理からなんでも望み通りの結論を引き出せるという好例なのでここに紹介しておく。

我々のうちの誰かに存在するサル――犯罪人類学

 ロンブローゾの理論は、犯罪は遺伝的である――このような議論は当時一般的であった――という不確かな声明ではなく、人体測定学上のデータにもとづいた特殊な進化理論であった。犯罪者は我々の進化的な先祖返りである。(中略)これらの人々は正常なサルや未開人がするのと同じような行動を生得的に行う。しかし、その行動は、我々文明社会では犯罪として映る。

(中略)

 たとえ、ある人がサルに似ていたとしても、サルがおとなしい動物ならば、この議論は失敗に終わる。そこでロンブローゾは自分の大作(『犯罪者』一八七六年初版)の初めの部分を、もっぱら動物の犯罪行為の分析にあてている。これは、これまで出版された擬人主義の中で最もこっけいな脱線話であるに違いない。たとえば、激怒にかられてアリマキを殺し、その体をバラバラにするアリ、愛人と一緒になって夫を殺した不倫のコウノトリ、孤立した仲間を殺すために集団をなすビーバーの犯罪者仲間、メスの許しも得ずに、生殖器官の萎縮した働きアリを犯し、それに大きな苦痛と死を与えるオスアリなどを引用している。また、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている(ロンブローゾ、一八八七年、一〜一八ページ)。

 これは『人間の測りまちがい』から取っている話題の中で一番現代でもそのまま生き残っている部分かも知れない。さすがにアガシやブロカのようなことをそのまま言っている人を現代で見つけることはできないが、このようなあからさまな動物の擬人化の過ちは現代にもそのまま存在する。

 ロンブローゾは、犯罪性が劣等な人々の中では普通の行為であることを確認するために、民俗学にまで踏みこんでいった。彼はナイル川上流のディンカ族について小論文を書いている(ロンブローゾ、一八九六年)。彼らは派手ないれずみをし、痛みをあまり感じない。思春期にはハンマーで自分の門歯をたたきこわす。彼らには解剖学上、正常な部分としてサルに似た烙印がある。「彼らの鼻は……ぺちゃんこなだけでなく、三つに裂けていて、サルの鼻に似ている。」ロンブローゾはそう語っている。

(中略)

 もし、ほめることと同時にけなす特徴がなければ、彼は「原始人」たちの中に見られる明らかに価値ある行動を無視しただけだった。拷問の下に勇敢にも死んでいく白人の聖者は英雄中の英雄として扱われる。しかし同じような尊厳さで息を引きとる「未開人」については、それはたんに痛みを感じないだけであるという。

「彼ら〔犯罪者たち〕が肉体的に苦痛を感じないことは、白人だったら耐えられないあの未開人の思春期の儀式の拷問に耐える姿を思い起こさせる。旅行者はみんな、黒人とアメリカの未開人が苦痛にたいしては違いがないことを知っている。後者は、拷問のため柱にしばりつけられ、ゆっくりと火あぶりにされても、その間自分たち種族をたたえる歌を陽気にうたい続ける。」(一八八七年、三一七ページ)。

 またまたインディアン。これが裏返ったらどうなるかは……そろそろ予想がついてきたのではないだろうか?

 最後に知能テスト関連のことも一つだけ取り上げよう。陸軍テストというのは第20回の最初の引用にあるような学者たちが作った生まれつきの知能を測るとされたかなりバカバカしいテストのこと。

第五章 IQの遺伝決定論

 陸軍テストはさまざまな社会的需要を生み出した。そのうちで、最も持続的な効果があったのは知能テストの分野であった。それは初めての筆記式IQテストであり、注目を集めた。ビネーの願いとは逆に、全ての子どもをテストし、ランクづけすることを主張した遺伝決定論者のイデオロギーを満足させるために、必要不可欠な技法を提供したのである。

 別の宣伝家たちは、人種差別を擁護し、黒人が高等教育を受けるのを制限するために、陸軍テストの結果を利用した。

(中略)

 一九二四年の移民制限法を通過させることになったアメリカ議会の審議では、絶えず陸軍テストのデータが引き合いに出された。優生主義者は移民を制限するためだけでなく、劣った民族の国家に厳しい移民の割り当てを課することによって、移民者の質をも変えるために圧力をかけた。――一九二四年の制限法は、陸軍テストのデータと優生主義者のプロパガンダがなかったならば決して実施されなかったし、考えられもしなかったであろう。結局、南ヨーロッパ人や東ヨーロッパ人、すなわち陸軍テストで最低点だったアルプス系の国々や地中海系の国々は当然締め出されることになる。優生学者はアメリカ史において科学的人種差別主義という最大の勝利の一つを得た。

 もしかして「ふ〜ん、俺には関係ねえや」とか思ってないだろうね。ここで言う「一九二四年の移民制限法」は日本では排日移民法として知られているものだぞ。

 南ヨーロッパや東ヨーロッパからの移民は減速することになった。一九三〇年代を通じてユダヤ難民はホロコーストを予測し、アメリカに移住しようとしたが認められなかった。法にもとづく割当人数や、優生学にもとづくプロパガンダによって、北部、西部ヨーロッパ諸国に対して拡大された割当人数が満たない年ですら、ユダヤ人は締め出された。チェイス(一九七七年)は、一九二四年から第二次世界大戦勃発までの間、六〇〇万人の南部、中部および東部ヨーロッパ人が割当人数によって締め出されたと計算している(移民が一九二四年以前の比率で続いたと仮定して)。我々は外国へ移りたいと望みながら行き場のなかった多くの人々に何が起こったかを知っている。破壊への道はしばしば間接的であるが、思想は銃や爆弾と同じように確実な手段となり得るのだ。

 第二次世界大戦とナチズムおよびホロコーストに関しては比較的よく知られていると思うので詳しくは扱わない。まだまだ紹介したい話は沢山あるが、さすがに『人間の測りまちがい』だけで4回に及んでいるので残念だがここで終わりにする。

 さて、ものすごい駆け足で約500年前から約50年前までを一気に通り過ぎてきたわけだが、どうだっただろうか。実は5万年前や500万年前にさかのぼっても面白い話はあるのだが、今後の話の流れ次第でちょっとだけ触れるに留める。

 そんな時代よりもっとすごい、もっと魅力的な、もっとびっくりするような驚異の時代がもう目の前に迫っている。現代という時代が。覚悟はよろしいか。

第22回】 【目次】 【第24回

おまけ

 男女つながり……つながりというかそのまんまだな。

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2008 2/11

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (3) (河出文庫 ク 8-2)

第21回】 【目次】 【第23回

 スティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』を先に進める。

ルイ・アガシ――アメリカの多起源論の理論家

 私は二人の著名な多起源論者にしぼって話を進めようと思う。一人理論家のアガシであり、もう一人はデータ分析家のモートンである。まず手始めに、私は、かくされた動機および、その支えとなった中心的データのごまかしの双方を掘り起こしてみたい。いぜんとして奴隷を使い、原住民を故郷の土地から追い出している国が、黒人とインディアンは白人とは別の種であり、劣等だという理論の基礎づくりをしたのは決して偶然ではない。

(中略)

 アガシは一八五〇年の『クリスチャン・エグザミナー』で人種に関する大論文を公にしている。彼はこの論文を始めるにあたって、多数のアダムという説を唱えることで不信心者だと彼を非難するであろう神学者、また、奴隷制の擁護者というレッテルを彼に貼るかも知れない奴隷制廃止論者、このいずれをも煽動家であるとしてしりぞけている。

 ここに提唱した見解に対して、それは奴隷制を支持することになるとして非難されるが……それは哲学的研究に対する公正な反論であろうか。ここでは人間の起源の問題についてのみ論じられるべきである。その結果に対して、政治家や、社会の管理を求められていると自認している人々に自分達が何をなしうるかを見せてやろう。……とはいえ我々は政治的内容を含むいかなる問題ともかかわりあうことは拒否する。(中略)」(一八五〇年、一一三ページ)

(中略)

 アガシは自分の研究が自然誌の客観的探究であり、正当なものであるとはっきり述べていたにもかかわらず、この論文の終わりに近づくと、突然立場を変え、道徳的要請を持ち出す。

「地球上では、いろいろな場所に、さまざまな人種が生活している。彼らは肉体的にも特徴が違っている。この事実は……科学的観点から、これらの人種を相対的にランクづけ、それぞれ固有の特徴を相対的に評価する義務を我々に課する。……哲学者としてまともにそれをさぐるのが我々の義務である。」(一四二ページ)

 人種の価値に差があり、それが生得的なものだという直接的証拠としてアガシが試みに持ち出したのは、コーカサス人種の文化のステレオタイプ以上のものではなかった。

支配されうることのない、勇気ある、自尊心の高いインディアン――服従的で、こびへつらい、ものまね好きな黒人、あるいは油断のならない、ずるく、ひきょうなモンゴル人種、それらに比べてインディアンはいかに違った光の下に立っていることか。この事実は自然では異なった人種を同一のレベルにランクづけられないことを示していないのだろうか。」(一四四ページ)

 以前誰かが、捕鯨反対派の鯨の見方を「海の白人」と言っているのを見たことがあるが、これは私にはかなり違和感がある表現だ。鯨を擬人化したがるのがガイア教の性質であることは確かだが、それは一般的な傾向であって鯨に限った話ではない。なんと言っても地球を擬人化しているのだし。

 何よりガイア教徒は一般に自分たち自身が嫌いである。ラッセンの絵画に人間が決して登場しないのは、醜い人間の姿などわざわざ金を払ってまで見たくないからだ。自分たちのイメージを鯨に近づけることは好き*1でも、鯨のイメージを自分たちに近づけたがることはあまりありそうにない。

 あえてガイア教における鯨を天使でなく人間で表すならば、「白人」よりも「インディアン」の方がはるかに妥当に思える。

 本筋を外れるのであまり追及しないが、ニューエイジ系*2のトンデモさんが好意を寄せる時のネイティブアメリカンの記述は、ガイア教において描かれる鯨の姿と瓜二つであることが、ままある。*3

 もちろんネイティブアメリカンの人々に、特別*4動物に似ているところなど何もない。同じ人たちが自分の勝手な理想像を投影しているからそうなるのである。

 その流れで南半球に目を向けるなら、オーストラリアやニュージーランドのガイア教徒がアルビノのザトウクジラにアボリジニの言葉で名前を付けるのは、私にとっては極めて自然な現象である。多くの反反捕鯨派が言うような倒錯には見えない。*5

 どのように客観的にランクづけされようが、黒人はその梯子の一番低いところを占めるに違いないとアガシは断言する。

「すべての人種が同じ能力をもち、同じ権力を享受し、同じ自然の配置を示すと仮定し、また、このように平等であることから、すべての人種が社会において同じ立場で権利を与えられると仮定するのは、偽りの博愛主義であり、偽りの思想であると思われる。そのことは歴史が物語っている。……このアフリカというコンパクトな大陸には、白色人種と絶えず交流し、エジプト文明、フェニキア文明、ローマ文明、アラブ文明の恩恵を享受してきた集団がみられる。……それにもかかわらず、この大陸には、黒人によって統制された社会は育たなかった。このことは文明社会がもたらす利点に対して、この人種はもともと無関心で、無頓着であることを示しているのではないだろうか。」(一四三〜一四四ページ)

 アガシは自分の政治的態度を明確にしなかったが、特別な社会政策を提唱してこの論文をしめくくっている。彼によれば、教育は生得的能力にあうようになされるべきだという。黒人には手作業、白人には知的作業というように。

 根本的に差異のあるさまざまな人種に対して与えられるべき最良の教育とはどのようなものだろうか。……平等という名目の下で有色人種を扱うよりも、むしろ我々と彼らの間に存在する真の差異を十分に認識し、彼らの中に顕著に印された気質を育てたいと願いながら彼らと交流するならば、彼らに関する人間味ある行動を思慮深く行うことができるであろうということに我々は少しも疑問をもっていない。」(一四五ページ)

「顕著に印された」気質とは、柔順に人に従い、すぐまねをするというものであるが、この表現からアガシが心に抱いたことがどのようなものか、容易に想像することができる。私がこの論文をくわしく取りあげたのは、これが、社会政策の提唱が科学的事実の冷静な探究として述べられている典型的例であると考えたからである。この戦略は今日でも決して死んではいない。

 南北戦争のただ中で書き続けたその後の手紙で、アガシはもっと強烈に、もっと長々と自分の政治的見解を示している(中略)。アガシは自分の立場を長い熱烈な四通の手紙で論じた。アメリカで黒人の人口が増加し、永久にそれが続くことをきびしい現実として認めなければならない。立派な誇りに支えられたインディアンは戦いで死ぬであろうが、「黒人は生まれつき、言いなりになる性格ですし、環境に同化しやすく、一緒に生活する人のまねをします。」(一八六三年八月九日)

 ほらまたインディアン。今後見てもらう機会があるかわからないが、捕鯨によって「誇り高く死ぬ」鯨はガイア教の大のお気に入りのモチーフだ。

 そもそもインディアンのイメージが黒人のイメージとかなり違っていた、ということを知っている人は日本じゃあまりいないのではないだろうか。どちらも差別されていた*6としか思っていないのではないかと思う。私も初めて読んだときはかなり意外だった。

 法律上の平等はすべての人に許されるべきだが、社会上の平等を黒人に与えるべきではない。でないと、白色人種は黒人と混りあい薄められてしまう。「社会上の平等などいつの時代にも実行不可能だと思います。それは黒色人種の性格からみて当然のことです。」(一八六三年八月一〇日)というのは、「他の人種と違って黒人は怠けもので、遊びずきで、感覚的で、すぐ人のまねをし、卑屈で、お人好しで、きまぐれ、目的が変わりやすく、何にでも夢中になり、ほれこみます。彼らは子どもの心のまま大人の背丈になった子どもと比べうるでしょう。……ですから、社会的混乱をまねくことなしに同じ一つの社会で白人と平等に生活するのはむずかしいと思います。」(一八六三年八月一〇日)黒人は統制を受け、制限されるべきである。社会的特権が無分別に与えられると、あとで不和の種をまくことにならないように。

「資格がないのにそれを使う権利をもつものなどいません。……黒色人種に対して、はじめに余りにも多くのものを与えすぎないよう気をつけるべきでしょう。そうでないと、我々の不利にもなり、彼ら自身の損害にもなるような使われ方をする特権のいくつかをきびしく撤回することが必要となります。」(一八六三年八月一〇日)

 アガシにとって、混血によって人種が混りあってしまうことほど恐ろしいことは考えられなかった。白人は黒人と別々になっているから強いのである。「混血は、文明社会での近親相姦が人格の純潔さに対する罪であるのと同じように、自然に対する罪です。……人種混交の考えは、私たちがかかえる困難の自然な解決になるどころか、私にとってはただただ、おぞましく感じられることですし、あらゆる自然な感情の悪用です。……いずれが私たちのよりよい本性、また、より高い文明やより純粋な道徳の進歩と相容れないかを調べる努力を惜しむべきでぱないと思います。」(一八六三年八月九日)

(中略)

 最後にアガシは、混血し、弱められた人々の究極の危機を警告するために、強烈なイメージとメタファーを結びつけている。

「もし、この合衆国に、祖先を同じくする国々から渡ってきた雄々しい人々に代わって、白人の血が混った混血人種、ハーフのインディアン、ハーフの黒人など女々しい子孫が住むようになったら、共和国の制度や、ひろく私たちの文明の将来がどうなるか、その重大な変化を少し考えてみまししょう。……私はその結果に身震いを感じます。すでに私たちは、進歩の過程で個人的名声、上流社会で育てられてきた上品さや文化という宝を保持することがむずかしくなるとして、普遍的平等の影響に反対して戦いをいどんできました。もし、これらの困難に、よりはるかに頑固な肉体的無能力の影響がつけ加わったら、私たちの状況はどうなるでしょうか。……いったん、下等な人種の血が、私たちの子どもたちの血の中を自由に流れるようになったら、どのようにして、その下等な人種の汚れを根絶したらよいのでしょうか。」(一八六三年八月一〇日)

 アガシは解放された奴隷に法律上の自由が与えられると、人種間にきびしい社会的分離を早急に実施しなければならなくなると結論する。幸い、自然は倫理的美徳をたずさえている。選択の自由を持つ人々は自分たちの生まれ故郷に似た風土の方へと自然に引きつけられる。(中略)純粋な黒人は衰え絶えるような住みにくい北部を離れ、南部へ移住するであろう。「不自然な足がかりしかない北部では、彼らがだんだんと死に絶えることを願います。」(一八六三年八月一一日)

 うーむ、150年前だから当たり前とはいえ、ひどいですな。でもただ単にひどいひどいと言ってるだけじゃだめだ。

 この部分はむしろ、自分がアメリカに住む白人になったつもりで、たとえばルイ・アガシが自分の曾々爺さんででもあるつもりで読んでほしいのだ。

 このひどさに責任を感じ、居心地の悪さを解消するために、どうにかして汚名返上したいと思った時、一体どうなると思う? 今から頭の体操をしておこう。きっと後で役に立つ。

第三章 頭の測定

ポール・ブロカと頭蓋学の全盛時代

 事実を認識している理性的な人は、普通の黒人が普通の白人と同等であるとか、いわんや優れているとは信じていない。そして、もしこれが真実であるとしても、黒人のさまざまな制約が取り除かれ、保護者も制圧者もいないフェアな戦いが行なわれた場合、顎の突き出たこの我々の近縁者が、大きな脳と小さな顎をもったライバルに対して勝利をおさめるとは信じがたい。この戦いは思考が武器であって噛みつき合いではないのだ。――T・H・ハクスリー

(中略)

 進化理論は人種単起源論と多起源論の熾烈な論争を支えていた創造論の足場をとっぱらったが、両派の共有した人種差別主義により有効な理論的根拠を提供することになり、両派を満足させた。(中略)人類学史家としてジョージ・ストッキングはつぎのように述べている(一九七三年、lxxページ)。「一八五九年以後この知的緊張関係は、単起源論かつ人種差別主義である包括的進化主義によって解消された。この進化主義は黒い皮膚の未開人をサルの近くに位置づけることによって、人類の単一性を主張した」と。

(中略)

図3・3

 解説用として各グループを代表する個体を選別するとき、全くひどい実例が沢山ある。三十年前、私が子供だった頃、アメリカの自然史博物館の人間展示ホールには、サルから白人へと一直線に並んださまざまな人種の特徴が展示されていた。この時代までは、標準的な解剖学的例示として、チンパンジー、黒人、白人の順にそれらが描かれていた。たとえ、別の個体をもってきて比較すると、違う順序――チンパンジー、白人、黒人――になるくらい白人や黒人の個体変異は大きくてもである。例えば一九〇三年にアメリカの解剖学者E・A・スピッツカは、「著名人」の脳の大きさと形に関する長い論文を発表した。彼は一四二ページにかかげた図(図3・3)を示し、「キュヴィエやサッカレーからズールー族やブッシュマン族への飛躍は、後者からゴリラやオランウータンへの飛躍ほど大きくない」と評した。(一九〇三年、六〇四ページ)。

 わかりますよね? 第一の存在の大いなる連鎖が崩れ去ると同時に第二の存在の連鎖にバトンタッチがなされた瞬間です。

 今回は数字の詳細に分け入っても仕方がないので大幅に省略しますが、要するに一生懸命脳の大きさを測定しては、いろんな偏見に基づく操作を加えて、やっぱり白人の脳は大きかった! 白人は進化した人類だったのです! だから(以下略)! めでたしめでたし、とかいうことをやっていたわけです。

図3・5

 あと、別に言わなくても忘れないだろうけど、この脳の図を上の引用部のものと合わせて憶えておくと、後でいいことがあるでしょう。もうちょっとだけ続きます。

*1:アオソラ・ルカさんと愉快な仲間たちを思い出せ。
*2:ガイア教もその一派に属する。
*3:参考:一万年の旅路―ネイティヴ・アメリカンの口承史:10万年前から語り継がれてきた物語:小鳥ピヨピヨ
*4:単に、人類全体として、数千万年前の同じ哺乳類を共通祖先に持つから似ているという以上に。
*5:参考:痛いニュース(ノ∀`) : 【クジラ】「日本は世界で1頭の白クジラも殺しかねない」 恐れるオーストラリア人たち…豪・英メディア報じる – ライブドアブログ
*6:それはそれで、もちろんその通りなのだが。

第21回】 【目次】 【第23回

おまけ

 ちなみに私は当時の分類では「油断のならない、ずるく、ひきょうなモンゴル人種」でございます。

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2008 2/11

人間の測りまちがい 上―差別の科学史 (1) (河出文庫 ク 8-1)

第20回】 【目次】 【第22回

第二章 ダーウィン以前のアメリカにおける人種多起源論と頭蓋計測学

白人より劣等で別種の黒人とインディアン

秩序は神の第一法則だ、それを明らかに語るならば、
人間に大小・貧富・賢愚のあるのは当然である

アレキサンダー・ポープ『人間論』(一七三三年)(岩波文庫版より)

 現存する社会の階層は正当なものであり、必然的なものであるとするために、理性に、あるいは宇宙の本質に訴えることが歴史上しばしばなされてきた。そうした階層が数世代以上も続くことは稀であるが、その議論は社会制度が改められると、磨きなおされて再登場し、こうして、果てもなく繰り返される。

 まったくですな師匠。ガイア教の後には一体どんな議論が現れるのだろうか? 私は生きているうちにそれを見たい。きっともっと面白いに違いない。

 自然に基づいて階層を正当化しようとした動きのカタログは幅広い。支配者と被支配者階級の階層性を、中心に地球が位置し、その周りを階層秩序づけられた諸天体が廻るというプトレマイオスの宇宙論に類比させたり、アメーバから神まで一つの系列に位置づけられている「存在の大いなる連鎖」――この連鎖の頂点近くには階層づけられた人種および階級が含まれている――という普遍的秩序に訴えるなど。ここで再びアレキサンダー・ポープの詩を引用しよう。

もし、この正しい段階がなければ
これをあれに、すべてを汝に
従わせることができるだろうか
  …………
自然の鎖のどの環を破壊しても
――十番目でも、一万番目でも――
鎖は同じように壊れるのだ

(岩波文庫版「人間論」より)

 最高の身分のものも、最低の身分のものも、宇宙の秩序の連続性を保つために、それぞれ自分たちの持ち場を保って、定められた任務を果している。

 第17回ですでにある程度詳しく言ったが、「捕鯨」「地球の破滅」に直結しちゃうような思考パターンは、必ずしも突飛なものとは言えない。こういうしっかりした歴史があるわけ。

 多くの読者は驚かれるだろうが、本書では、新参者であると思われる一つの議論――生物学的決定論をとりあげる。この生物学的決定論によれば、社会の底辺にいる人々は本質的に劣った素材(貧弱な脳、悪質な遺伝子、その他もろもろ)で作られているという。

(中略)

 人種に対する偏見は有史以来、古くから見られるものであるが、この生物学的正当づけによって、蔑視されたグループの上に、本質的な劣等性という余分の重荷が付け加えられ、改宗や同化による救済が妨げられた。この「科学的」議論が、一世紀以上もの間、攻撃の第一線を形成してきた。

(中略)

図2・1

 十八世紀および一九世紀の人種観に対して科学がどのような影響を与えたかを評価する場合、当時の社会的指導者や知識人たちが人種のランクづけの妥当性を疑わなかった、という文化的状況があったことをまず認識する必要がある。彼らは、インディアンが白人より、黒人は他のすべての人種より低いランクにあると考えていた(図2・1)。こうした状況の下では、平等と不平等を対比するような議論は見られなかった。あるグループ――それを強硬派と呼ぼう――は、黒人は劣等であり、その生物学的地位は、奴隷化や植民地化を正当化するものであると考えた。他のグループ――もし、認めてもらえるのなら、柔軟派と呼ぶ――は、黒人は劣等だが、人々の自由に対する権利はその人の知能レペルに依拠するものではないと考えた。「人々の才能がどの程度であろうが、それは人々の権利の物指しではない」と、トーマス・ジェファソンは書いている。

 柔軟派のグループの間には、黒人の不利な立場の本質についてはさまざまな受け止め方があった。ある人は適切な教育を授け、標準的生活をさせれば白人のレベルにまで「高める」ことができると論じているし、他の人々は、黒人は永遠に愚かであると主張した。彼らは、黒人の劣等性の生物学的、文化的根源についても意見を異にしていた。とはいえ、ヨーロッパの啓蒙主義やアメリカ独立戦争における平等主義の伝統を通じては、(少なくともリップ・サービスで)今日のリベラルなサークルで流行している「文化の相対主義」にかすかでも似かよった俗受けする立場は見出されない。それに一番近いものとしては、黒人の劣等性は純粋に文化的なものであり、教育によって完全になくすことができるし、コーカサス人種の標準にまでなりうるという論があげられる。

 アメリカのすべての文化的英雄たちは、公立学校についての通念を作った人々を当惑させる人種差別的態度を受け入れている。ペンジャミン・フランクリンは、黒人の劣等性は純粋に文化的なものであり、完全に回復できると考えていたが、いっぽうで、アメリカは白人の領土であり、好ましくない有色人で薄められないよう願っていた。

「彼ら〔白人〕の人口がもっと増えるのを望みたいぐらいだ。我々はアメリカの森を切り開き、自分たちの惑星を磨き、火星や金星の住人たちが地球のアメリカ側をまぶしく感じるほどにしているのに、どうして、この国民を黒くしなければならないのだろうか。すべての黒人や黄色人種を排除することによって、愛すべき白人や北米インディアンを増やすチャンスを順調に得ているアメリカに、なに故にアフリカの息子どもを移民させ、増やすのか。」(『人類の増加に関する考察』一七五一年)

図2・2

 他の英雄たちも生物学的劣等性を支持する意見を述べている。トーマス・ジェファソンはためらいがちにではあるが、つぎのように記している。「黒人は初めから異なった人種であるにせよ、時間や環境によって異なったものになったにせよ。ひょっとしたら肉体的にも精神的にも白人よりその資質が劣っているのではないか、と私は提言したい。」(ゴセット、一九六五年、四四ページ)北軍での黒人兵士の功績に喜んだリンカーンは、解放奴隷や奴隷出身者を大いに尊敬した。しかし、自由は生物学上の平等を意味するものではない。ダグラス論争(一八五八年)で強硬に表明したつぎのような基本的態度は決して棄てなかった。

「白人と黒人の間には肉体的相違があり、そのため、社会的、政治的平等の名の下に一緒に生活することは永久にできないであろう。彼らはそのようには暮らせないのだから、一緒に留まっている間には、優劣の立場が生じるに違いない。他の人々と同様、私も白人に優位な立場が与えられることを支持する。」

 これが単にキャンペーン用のレトリックであると受けとられないために、一八五九年の紙きれに書き留められた個人的メモを引用しておこう。

「黒人の平等性だって! ごまかしだ! 宇宙を作り、それを支配する偉大な神の統治下で、いつまで、こんな低級なデマゴギズムを、ならず者どもはわめき続け、馬鹿者どもはほざき続けるのか。」(シンクラー、一九七二年、四七ページ)

図2・3

 昔の恥をさらけだすためにこうした発言を引用するのではない。西欧諸国の白人指導者たちが十八〜十九世紀における人種のランクづけを当然のこととして少しも疑問を抱かなかったことを示すために、我々から最高の尊敬を受けている人々をとりあげているのである。科学者たちが慣習的なランクづけに賛成したのは、このような状況のもとで社会的通念を共有したからであり、未解決の問題を明らかにするために集められた客観的データによったのではない。しかも、逆の因果関係という好奇心をそそる事例においては、これらの発言は政治的脈絡とは独立した裏付けとして読まれたのである。

 すべての指導的科学者は社会的慣習に従った(図2・2および図2・3)。

 どうだろう。フィクションでそれなりに慣れ親しんでいる中世よりもずっと「異世界に迷い込んだ」って感じがするんじゃないだろうか?

進化論登場以前の科学的人種差別論の二つのスタイル――人種単起源論と多起源論

 進化論が登場する以前、人種のランクづけを正当化する流儀には二通りのものがあった。今日の展望からすれば不適当な定義であるが、それを再び用いるとすれば、一つは「よりソフトな」論であり、すべての人々は聖書に示されたアダムとイヴの一つの創造に結びつけられているとする。これは人種単起源論と呼ばれ、人類は一つの源から生じたという。人間はエデンの完璧さから退化した産物であり、退化の度合は人種によって異なる。白人では小さく、黒人では大きい、というわけである。

 人種の違いの主な原因として、最もポピュラーだったのが気候である。退化論者たちは、退化によって生じた人種の現在の欠陥を改善しうるかどうかに関しては意見を異にした。ある人はその差異は気候の影響によって、じょじょに発達したのだが、今では固定されており、元に戻すことはできないと主張する。また他の人々は、じょじょにその差異が発達したのであれば、適当な環境下におけば元に戻りうると論じる。

(中略)

 「より強硬な」論では、聖書を寓話として捨て去り、それぞれの人種は生物学的に別個に創造された種であり、別々のアダムの子孫であるという主張がなされた。黒人は人間とは違う別の生物なのだから、「人間の平等性」にかかわる必要などないとも言う。こう主張する人々を「人種多起源論者」と呼ぶ。

 聖書を軽率に見捨てるべきでないというだけの理由だったのであろうが退化論のほうが人気があった。

 意外かもしれないが、最悪の後退への防波堤となったのはむしろ宗教の方だったというわけだ。

 似たようなことは他の時代でも起きている。グールドは『神と科学は共存できるか?』で、アメリカの反進化論教育を主導したウィリアム・ジェニングズ・ブライアンが、ナチスやアメリカ自身の優生思想の正当化に進化論が利用されていることに対する危惧という、それなりにもっともな動機を持っていたことを指摘している。

 イギリスの外科医、チャールズ・ホワイトは、一七九九年に『人間における規則的な階級についての説明』を著わし、多起源論を強力に擁護した。彼は、キツネ、オオカミ、ジャッカルのような慣習的な区分によるグループ間で交雑が成功する事実を指摘し、ビュフォンのたてた種の定義の基準――交雑可能を放棄した。彼は気候が人種の差異を生み出すという考えには反対し、そのような考えは拡張されると種間の進化という「下劣な概念」に行きつくかもしれないと論じた。彼はいかなる政治的動機をも放棄し、「自然誌の命題を研究する」という汚れのない目的を発表した。また「人類を奴隷化するような有害なことを認める」のに多起源論が使われることにぱっきりと反対した。ホワイトはランクづけの規準に審美的なものを用いるようになった。彼の議論には、しばしば引用されるつぎのような言葉が含まれている。彼は、コーカサス人種以外のどこで、つぎのようなことが見られるかと論じる。

「そのような大きな脳をもった立派なアーチ型の頭。……さまざまな容貌、豊かな表情、その長くたれさがった優美な巻毛、堂々たるあごひげ、そのバラのようなほお、紅色の唇を、どこで見出せるか。崇高な歩きぶりは……どこで。ヨーロッパの美しい女性たちの柔かな容貌にまき散らされる恥らい、つつしみ深さと、繊細な感情の象徴でもあるその恥らいが、地球上の他のどこかで見られるであろうか。ヨーロッパの女性の胸以外、どこで、そのような豊満な、雪のように白い、そして先端が朱色に染められた二つのふくらみが見られるであろうか。」(スタントン、一九六〇年、一七ページ)

 「エロスwww」とかいって笑いたい人は笑ってればいいさ。でもね、もし……もしだよ? 仮に同じ美意識を今日にも持ち合わせている人がいたとすれば、このフラストレーションをどこへ持って行きゃいいんだろう?

 上のようなセリフはもう童話の中のシャチですら口に出しては言ってくれないんだ、こんな世の中じゃ。

第20回】 【目次】 【第22回

おまけ

 ポイズン。

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2008 2/11

人間の測りまちがい―差別の科学史

第19回】 【目次】 【第21回

 キリスト教を中核とする中世の安定した世界観は、科学の勃興によって大きく揺さぶられることになった。

 とりわけ、人間が神によって特別に創造されたものではなく、猿から*1進化したことを意味する進化論は、倫理と社会を決定的に破壊するものとして激しい反発を受けた。

 ローマ法王ですら進化論をただの仮説を超えていると認めざるをえない現代でも、まだアメリカのプロテスタントの一部に無視できない程度の進化論否定が存在し、進化論を公教育から追い出そうとしていたり、聖書の記述を「科学的」に裏付けようとしたりしていることはすでによく知られている通りである。

 このことももちろん重要なことであるが、他でも情報が得られると考えられるため、今回は特に取り上げない。

 何より、このアメリカの宗教右派によるキリスト教原理主義運動は、基本的にダーウィンの時代にもすでにあった反発がそっくりそのまま残っているだけであって、この流れはもっと後に生まれたガイア教には繋がっておらず、両者にはまったく何の関係もない。

 これは、意外と思う人もいるかも知れないが、すでに第2回からずっと言っていることである。もちろんガイア教の多くの部分が、キリスト教とそれに付随する文化に由来している関係上それなりの類似点はあるが、捕鯨・反捕鯨問題の理解に当たっては、そこに着目しても誤解しか生まない。

 ガイア教につながった流れは、進化論に対する反応のうち、聖書直解のような宗教原理主義のそれとは、まったく違う方向を向いたものである。それを明らかにするために、いよいよスティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』を読んでいくことにしよう。

改訂増補版の序

 十九世紀は、頭蓋骨の内側や外側の物理的測定に焦点を当てた。頭部の外側は定規やコンパスをもちいて、また頭の形や大きさから導き出したさまざまな指数や比率によって、あるいは内側の大きさはカラシの種子や鉛玉を頭蓋の内側に満たしてその容量を測定したのである。次いで二十世紀になると、知能テストにより推測し、脳の中身をより直接的に測定する方法へと移っていった。つまり、頭蓋骨という物理的な特質から脳内の素材を測ることへと変化していったのである。

(中略)

 IQの遺伝決定論による解釈は、主として三人の心理学者の転向によってアメリカで始まった。H・H・ゴダード、L・M・ターマン、R・M・ヤーキーズの三人であり、彼らはこのテストを翻訳し、アメリカに広めた。万人にとって自由と公正のあるこの地でこのような悪用がなぜ起こったのかを問うならば、第一次世界大戦に続く数年間こそが、これら三人の科学者の活動がピークに達した時期であったことを忘れてはならない。この時代は、偏狭で好戦的愛国主義や孤立主義、「移民排斥主義」(中略)、国旗のもとに馳せ参じる精神、安っぽい愛国心が今世紀のどの時期にも匹敵できないほど強烈であった。一九五〇年代初めのマッカーシズムの吹き荒れた頃ですらこれほどではなかった。それは移民制限、ユダヤ人割り当て移民の広まり、サッコとヴァンゼティの処刑、南部の州の暴力的制裁の高まりなどに特徴づけられた時代である。

 そう、今回から数回に渡ってずっとこんな話ばっかりである。前回ちゃんと断ったにもかかわらず、「一体捕鯨問題となんの関係があるんだよ?」と思うだろう。

 「てめー、なんだかんだ言って結局無意味に反欧米感情を煽りたいだけなんじゃねーのか?」と疑わざるをえないだろう。そんな風に私を非難してやりたい一心でもいいから我慢して読み進めてくれ。予想は裏切り期待は裏切らないつもりである。

 ちなみに、次の講師として登場するガイア教史上最重要人物が生まれた時代が、まさに「この時代」であることを念頭に置いておくといいだろう。びっくりしすぎて心臓止めたり、笑いすぎて腹筋壊したりする危険を最小限に抑えられる。

第一章 序文

 生まれによってグループをランクづけるための論拠は西洋の歴史の流れに従って変化してきた。プラトンは弁証のたくみさに、教会はドグマに頼った。最近の二世紀においては、プラトンの説話を立証するために科学上の主張が主要な役割を果たしてきた。

 いきなりプラトンきました。このプラトンの説話は省略するが、『国家』に載っている。この問題に関係なく西洋哲学最重要の古典だから読んでおくこと。

 その主張一般を生物学的決定論と呼んでよいだろう。主として人種、階級、性別など人間のグループ間に見られるそれぞれの行動規範や社会的、経済的差異などは遺伝的、生得的な区別から生じるのであり、その意味で社会は生物学を正確に反映しているものだと考える。本書は生物学的決定論の主要なテーマ、すなわち知能を一つの量として測ることによって個人やグループの価値を表すことができるという主張を、歴史的展望の下に論じるものである。このテーマを支えたデータは頭蓋計測およびある種の心理学的テストの二つからもたらされた。

 今回はこの本の主要なテーマの部分まで踏み込めないため、必ずしもこの本の素晴らしさを十分に紹介できないのは残念だ。できれば本を読んでもらうに越したことはないのだが、残念ながら入手困難である。(※後に復刊された。)

 科学は社会や政治の悪影響を受けない客観的知識であるという伝統的威信が、決定論者によってしばしば使われた。決定論者は自分たちを、きびしい真実の徴発官であり、自分たちに反対するものは感傷主義者、空想家、物欲しげな思想家であると非難した。ルイ・アガシは自分が黒人を別の種に仕分けしたことを弁護しながら、こう書いている「ナチュラリストたちは人間の肉体についての問題を純粋に科学の問題として考え、それらを政治、宗教いずれとも関連づけずに研究する権利を有している」と。

 早くも重要な部分にきた。このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。

 科学は人開が行なわなければならない営みであり、それ故、深く社会に根ざした活動である。科学は予感や直観、洞察力によって進歩する。科学が時代とともに変化するのは大部分が絶対的真理へ近づくからではなく、科学に大きな影響を及ぼす文化的脈絡が変化するからである。事実とは純粋で無垢な情報の部分ではない。文化もまた、我々が何を見るか、どのように見るかに影響を与える。さらに、理論というのは事実からの冷厳な帰納ではない。最も創造的な理論は、しばしば事実の上に想像的直観が付け加わったものであり、その想像力の源もまた強く文化的なものである。

 特にそれと意識することもなく無邪気に科学を信奉する平均的な現代日本人は「えー、そうなの?」みたいな反応を示すかもしれない。しかし、すでに『針の上で天使は何人踊れるか』で勉強してきた我々の反応はちょっと違うはずだ。

 ちなみに今回は省略しているが、グールドは極端な相対主義はきっぱり否定している。

 ガリレオは月の運動に関する理論上の争いで拷間台を見せられたわけではない。彼は社会的、教義的安定のため教会が伝統的に持っていた論拠を脅かした。地球は宇宙の中心に位置し、その周りを惑星たちが廻っている。司教はローマ法王に従属し、農奴は主人につかえる。こういう静的世界の秩序という見方。それをガリレオは脅かしたのである。しかし、間もなく教会はガリレオの宇宙論と和解した。彼らはそうせざるをえなかった。地球は現実に太陽の周りを廻っているのである。

 日本の捕鯨推進派はよく

  • 「科学的事実に基づいて資源管理をしようというだけのことが何で反発されなきゃならないんだ!?」

 みたいなことを言って不思議がる。

 しかし、それは私の考えでは、17世紀に

  • 「科学的事実に基づいて天体の動きを説明しようというだけのことが何で反発されなきゃならないんだ!?」

 といって不思議がったり、19世紀に

  • 「科学的事実に基づいて人類の進化を理解しようというだけのことが何で反発されなきゃならないんだ!?」

 といって不思議がったりするのと、少なくとも同じぐらい間抜けな話である。

 科学はいつの時代も人の心を傷つけ社会の安定を脅かしてきたのである。現代とてもちろん例外ではない。科学は地動説や進化論が当時のキリスト教を脅かしたのと同等以上に、ガイア教の教義と信者の社会を脅かすのである。

 ガリレオやダーウィンは、もちろんそんな間抜けではなかった。この問題に対して最終的にどんな結論を出すにせよ、少なくとも今ほど間抜けなままでは話にならない。

 しかし、多くの科学上の主題についての歴史は、つぎの二つの主な理由から、実際には、事実のこのような制約を受けない。一つは、いくつかの話題は多大の社会的重要性を付与されてはいるが、信頼しうる情報はほとんど与えられていないということ。事実が社会に与える影響の割合が非常に小さいときには、科学がとる態度は歴史的に見るならば社会的変化の単なる間接的な記録にすぎないだろう。

 ふむ、21世紀初頭現在のそんな話題と言えば何だろう?

  • ある意味我々そのものでありながら基本的な仕組みもまだまだ明らかでない脳。
  • 地球の面積の過半を占め多くの(とりわけ未来の)資源を依存しながら、地上より遥かに未知の部分が多い海。
  • 生活と食糧生産に死活的な関係がありながら、まだまだ理解仕切れていない気候や生態系の複雑なシステムの性質。

 といったところかな。脳・海・生態系。このあたりが現代の「理性と神秘の境界線の位置」というわけだ。予想に難くないことだが、ちょうどそのようなところで何かが起きているようだな?

 例えば人種についての科学観の歴史は社会的動向の鏡として役立つ(中略)アメリカでかつての優生学が弔鐘を響かせたのは、遺伝学についての知識が進歩したからではなく、断種や民族純化のためにヒットラーが好都合な理論としてそれを利用したからである。

 その通り。前にこんなエントリを書いたが、今の私たちが、人種差別を明らかにバカバカしいとして退けるために意識的・無意識的に利用している知識は、ヒトラーの時代には存在しなかった。

 第二の理由として、多くの問題は、いかなる論理的な答えもまさに社会の好みを確認できる限定的やり方で、科学者によって定式化されることがあげられる。例えば、知的価値の人種的差異をめぐっての多くの論争は、知能が頭部に存在する一つの実体だという前提で展開された。この考えが一掃されるまで、どんなに事実を集積しても、前進的な存在の連鎖の中に関連項目を秩序づけようとする、西洋の強い伝統を追い出すことはできなかったのである。

 ここだけ読むとすでに現代社会からは完全に「一掃され」「追い出された」ようにも見えるが、必ずしもそうではないということはすでになんとなく勘づいているだろう。

 生物学的決定論は一人の人間や一冊の書物にとっては大きすぎる課題である。近代科学の夜明け以来、生物学と社会とのかかわりのすべての面に実質的に関係するからである。そこで私は生物学的決定論という構築物に中心的で、しかも扱いうる一つの議論に絞ることにした。この議論はまったくの謬論に基づく二つの歴史的できごととして行なわれ、一つの共通したスタイルが展開された。

 この議論はまず、一つの謬論、すなわち具象化(reification)から始まる。これはラテン語のres(「もの」という意味)から作られた言葉で、抽象的概念を具象物に変えようとすることである。我々の生活では知力の大切さが認識され、それを特徴づけることが望まれている。これは一つには文化的、政治的制度が必要とする国民の分類と区別を可能にするためでもある。それ故、我々はこの驚くほど複雑で多くの側面をもつ人間の能力に対して“知能”という言葉を与える。そして、この簡略的記号は具象化され、知能は単一の実体として、いかがわしい地位を得ることになる。

 ひとたび知能が実体となると、科学のおきまりの手順として、知能の存在する場所や、その物理的基質が探し求められる。脳は知力の存在する座であるので、知能もそこに存在するに違いない。

 第9回第10回を思い出さなくても、ガイア教徒の「脳」と「知能」への強い執着はよく知られていることだろう。あれは当然、中世には影も形もなかったものだ。

 人間が偉いのは神に似せて創造されたからであって類人猿に比べて容積の大きい脳を持っているからではなかったし、ある種の悪魔・悪霊は明らかに人間より(悪)賢いと思われていたが、そのことが思想体系上の人間の地位を脅かしたりはしなかった。(当たり前だと思う?)*2

 では、いつに由来するものなのかというと、この時代に起因するものなのだ。

 さて、もう一つの謬論に話を進めよう。それはランクづけの話である。我々には複雑な変異を漸進的に上昇する段階として秩序づける性癖がある。進歩と漸進主義のメタファーは西洋思想に最も浸透したものである。ラブジョイの存在の大いなる連鎖についての古典的評論(一九三六年)や、進歩の観念についてのビュアリの有名な論文(一九二〇年)を参照してほしい。

(中略)

 本書は一つの実体としての知能の抽象化、脳の中のその位置づけ、個人に対する一つの数値としてのその定量化を行い、さらに抑圧され、不利な立場にいるグループ――人種、階級、性別における――は生得的に劣っていて、彼らの社会的地位は当然なのだということを見出すべく、人人を一つの価値体系の下にランクづけるのにこの数値が利用された問題を扱う。いわば、「人間の測りまちがい」について論じるのである。

 憶えてますか? 『存在の大いなる連鎖』。(参考:松岡正剛の千夜千冊『存在の大いなる連鎖』アーサー・ラヴジョイ

 過去二世紀はランクづけのための論拠が異っている点でそれぞれ特徴がある。頭蓋計測学は十九世紀における生物学的決定論の指導的な数量科学であった。第二章では、ダーウィン以前、脳の大きさによって人種をランクづけるために収集された大規模なデータ、すなわち、フィラデルフィアの医者サミュエル・ジョージ・モートンの頭蓋骨のコレクションについて論じる。第三章では、ヨーロッパで開花したポール・ブロカ学派の厳格な、尊敬に値する科学としての頭蓋計測学を扱う。そして第四章では、十九世紀の生物学的決定論における人体解剖学に対する定量的方法の影響を強調する。その場合、二つの事例研究を紹介する。一つは人間の諸グループを一直線にランクづけるため進化の主な規準として反復発生説を採用した事例。もう一つは殺人者やその他の極悪人の形態がサルに似ているとして、生物学的先祖返りで犯罪行為を説明しようとした企て。

 頭蓋計測学が十九世紀を代表したものとすれば、知能の少なくともその重要な部分が、生得的で、遺伝しうる測定可能な実体であると仮定される場合、知能テストは二十世紀を代表するものとなる。第五章と第六章では知能テストヘの論拠薄弱な二つのやり方にかかわる問題、すなわち、アメリカの産物であるIQ遺伝論、および因子分析という数学的手法によって知能を一つの実体として具象化する論をとりあげる。

 ああ、本当にこれらどれ一つ取っても最高に面白いのに。ほとんど無視せざるを得ないのは残念すぎる。まだまだ続きます。

*1:正確には猿との共通祖先から。
*2:私にはまったく思えない。ほとんど恐怖の悲鳴を上げたくなるほどに信じがたい世界だ。仮に明日、明らかに人類より高度な知能を持つ邪悪な異星人が実在するという動かぬ証拠が発見されたら、どんなセンセーションが巻き起こるか考えてみるがいい。

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おまけ

 ウッーウッーウマウマ(゜∀゜)

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する