2008 12/6

(本文とは無関係)

1.専門家団および公共性の軽侮

 ある人が家に入ってくる。机の上の財布をポケットに入れ家を出て行く。この行為は正当か?

 この問いには、イエスと答えるのもノーと答えるのも馬鹿げている。その家がその人の家であるか、そうでないかによる。前者ならその人は財布を忘れた人であり、後者ならその人は空き巣だ。その前提を知らないままでは正当も不当もありえない。何の話かといえば、

 これの話。例によって出遅れているため、もはやあまり言うべきことは残ってない気がするが、残った部分にちょっと興味のある部分があるので、まずはそこ以外の部分の整理、地ならしに努めよう。

 医者団が執刀中の手術室に物理学者がいきなり入ってきて「人体なんて原子の塊に過ぎないのにわかってないお前ら馬鹿」と言ったら叩き出されても仕方がないと大抵の人は思うだろう。医学物理学歴史学とポストモダン的認識論に置き換えても同じことだ。

 東浩紀の言っていることは正しいと擁護する人は、このたとえ話において「物理学者の言ってることは間違ってないよ。人体は原子からできているよ。そんなこともわかんないで叩き出すとか、やっぱり馬鹿だろお前ら」と言っているに相当する。これは擁護になっていない。元の誤りをそのまま繰り返しただけだ。

 「究極の真理などというものはない」というようなことは、18世紀ぐらいに確立した話でポストモダニズムではない。今日人体が原子からできているのが常識であるのと同様、それは近代以降の哲学の基本である。医師団の中には人体が原子が集まってできていることを忘れている医師もいるのかもしれないが、そんなことは手術中はどうでもいいことだ。

 物理学者が叩き出されるのは「人体が原子の集まりである」という彼の命題が誤りだからではなく、それを執刀中の手術室にわざわざ入ってきて言うことが、医師団と医学を愚弄し患者を危険に晒す行為だからである。言っている内容は間違っていなくても、言う時と場所が間違っているのだ。

 空き巣は自分の家に入っても儲からないが他人の家に入れば儲かる。水からの伝言という詩集のコーナーにあるべきポエムが、理科の教科書のあるべき小学校に入り込めば、ただの水や何の役に立たない装置を高値で売って儲けられるようになる。

 哲学者がニセ科学批判や南京事件に口を出せば「俺は金銭や政治などという“俗事”を超越した高邁な哲学精神の持ち主なんだぜい」と取り巻きにアピールして虚栄心を満たすことができる。正当な場所にいては得られない不当な利益を得るために、いる場所を間違えようとする東発言は知的空き巣である。

2.個人的経験の偏重

 特定の歴史認識問題に不用意に極端な相対主義を持ち込む愚については、これ以上言うことはない。だが今回はそれに加えてさらに酷い一面がある。そうして散々愚弄し引っかき回しておいた上で彼が重視するのが、

 歴史的真実が云々というのならば、ぼくにとっては、まず20歳代のときの以上の体験が「真実」です。

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 というような自分の経験であり“実感”だということだ。またも『表現の自由を脅すもの』から引かせてもらうが、

 多くの人々は、科学のユニークさはその経験主義にあると考えている。現実についての命題を確認するか投げ捨てるかは経験に依拠して行われる。勿論科学はそうする。しかしこの意味での経験主義は、何も科学独自のものではない。全ての人間は、経験に訴えて決定を行う。パウロをキリスト教に改宗させたのは、天から一条の光が射したのを見、「サウロ、サウロ、何故私を迫害するのか」(「使徒行伝」9章4節)と尋ねる声を聞いたという経験であった。

 問題なのは、「客観的命題について決定をするのにあなたは経験に頼るか」という質問ではなくて、「誰の経験にあなたは頼るのか」という質問である。まさにこの点で経験法則は「特に誰のというのでなしに、ただ経験に」という独自の答を生み出すのである。

 経験法則は述べる。「ある命題が知識として確立したと言えるのは、それをチェックする方法が、チェックするのは誰かということやその命題がどこから来たかということとは無関係に、同じ結果を生み出す限りにおいてである。」

(中略)

 個々人(我々は全て同じルールで協議する)の互換性は、自由社会哲学の極印である。ある行為がいずれの人、従って全ての人にとって正しいならば、それは一人の人にとっても正しいものであり得るとカントは明言し、自由な正義の基準を定立した。

 科学的経験主義は、一つの社会哲学である。これは再三見落とされてきた点である。もし経験主義者達が「我々は経験に依拠して判断しなければならない。取り分け、法王の経験に」と言ったとすれば、彼らは何の独創的な貢献もしなかったであろう。(中略)公共の(あるいは公共のものになり得る)経験だけが物をいうのである。

(中略)

 偉大なるアメリカの哲学者チャールズ・ピアスは一世紀前に書いた。「一人の人の経験は孤立したままでは取るに足りない。もし彼が他の人達には見えないものを見るなら、それは幻覚と称えられる。考慮されなければならないのは〈私の〉経験ではなくて〈我々の〉経験である。そしてこの〈我々〉が無限の可能性を持っている。」

 鑑識眼のある小さなサークル外では、ピアスは悲劇的なまでに無視され、あまり世に知られることはなかった。しかし彼ほどに、客観性に関する科学的に柔軟な観念の社会的意義を解した者は他になかったであろう。

 真理が公のものとして、――つまり、自分で探求し、不動の信念の真面目な追及を十分に深く行えば、如何なる人でも確信に到達するであろうものとして――承認されるのでないならば、我々各人が他の全ての人が信じようとしない全く自分勝手な信念を抱懐したって良いことになってしまう。各人はそれぞれ自分を小さな予言者として押し立てるだろう。つまりちっぽけな、〈変わり者〉、自分自身の偏狭さの間抜けな犠牲者に成り下がる。

 最後の部分は今の東浩紀の置かれた現状を描写する文として適当と思われる。彼の発言内容はポストモダンではなく近代以降の常識であるとはすでに言ったが、さらにもう一歩後退して、前近代(プレモダン)にまで逆戻りしているとすら言えるだろう。

3.還元主義の罠

 ここまでは全て今回興味の中心ではない部分を整理するための地ならしである。今回の東浩紀発言は最大限の批判と軽蔑を受けて然るべきだが、それは他でも沢山されているしこれからもされるだろうから、ここではこれ以上やらない。私が今回興味があるのはこのような愚を犯させる独特の思い上がりについてだ。

 冒頭のたとえ話の逆パターンを考えてみよう。物理学者達が粒子加速器の調整をしている部屋に医者がいきなり入ってきて「人体は素粒子が作り上げた最高の精密機械なのに上腸間膜動脈がどこにあるかもわかってないお前ら馬鹿」と言う場面を想像できるだろうか。

 私にはできない。元々のたとえは、愚かしいなりにありそうな話だと思うが、この逆パターンは、愚かであるとかないとか以前に何かまったくありえない滑稽な話であるように感じられる。たとえでなく現実にも東発言の逆のケース、すなわち特定の時代や事件に精通した歴史学者が思い上がりを抱き、認識論専門の哲学者集団に「馬鹿」と言い放つも同然の口出しをするというようなことは、まったくありえないように思われる。

 どちらも理屈では「愚かなことだ」としか言えないのに大きな差異が生じる理由は何だろう? これは興味に値する疑問だ。

 私はたまたま科学史に興味があるので、物理学者が医師団に対して思い上がりを抱きうる理由はかなりの部分までわかる。物理学は、他の科学分野よりも「偉い」という感覚を常に持ち続けてきた。たとえば古生物学が化石を研究することを“切手収集”すなわち単なる事実の下らない寄せ集めであるとして馬鹿にするような態度が見られた。

 そして物理学の次には「偉い」順に化学・生物学・医学・経済学など社会科学・文学などと続く、つまりより還元主義的な学問が「偉い」というヒエラルキーの概念があった。これは化学と錬金術、科学と宗教がまだ未分化だった近代科学の黎明期、大雑把に言えばニュートンの時代、物理学が創造主の御心を探求する学問だったころの名残だ。

 物理学をいくら極めたところでを誰かの盲腸を手術できるわけでもなく、化学をいくら極めたところで金融政策に助言できるわけでもないのに、どちらが「偉い」などと言っても無意味ではないか、

 どんな科学も健全な成長のためには統一派と多様化派*1との間の創造的な釣合いが必要だ(フリーマン・ダイソン『多様化世界―生命と技術と政治』)

 というのが、現代的な考え方ではあるが、思うに今日の社会はまだ総体としてこの還元主義の罠から抜けきっていないのであろう。科学は還元主義と同一ではないし同一視してはいけないのであるが、ずっとそう見なされがちであったし、現在でもそう見なされがちである。

 自然科学が誤って人文学を軽侮しがちなのと同様、人文学の内部にも、たとえば歴史学のような学問を“切手収集”すなわち単なる事実の下らない寄せ集めであるとして馬鹿にし、より還元主義的な(?)たとえば認識論のような哲学の方が「偉い」とするような意識が存在するのではあるまいか。

 結局何が言いたかったかというと、上の地下に眠るM氏のエントリで「なんで哲学者気取りのポモ批評家のチョンボで自然科学がけなされるんじゃい!」みたいな反発があるようだが、私はこの件に関して“自然科学教”つまり科学の神秘化の臭いを嗅ぎ取った地下猫にゃんの嗅覚は異常!!*2と思うのである。

*1:今の文脈ではほぼ「還元主義」と「その反対」に相当する。「還元主義の反対」を表すいい言葉が見つからないのだが。
*2:に鋭い。流石は猫!

おまけ

 俗事は任せる→シャルル皇帝→若本

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2008 1/26

針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス

第15回】 【目次】 【第17回

 今回からガイア教理解の最大のポイントの一つとなるキリスト教理解のため、『針の上で天使は何人踊れるか』を教科書にして話を進める。

監修者まえがき 奇態なるヨーロッパ 池上俊一

 歴史は私たちが生きていく上での教師である。私たちが遭遇するような出来事は、大抵、過去の人々がすでに体験済みで、苦労して解決法を見出してくれているか、そうでない場合でも、結果は顕然と現れている。分かっていてもおなじ過ちを繰り返すのが人の性であるとすれば、過去の事例を鑑にし踏みとどまって熟考してみる効用は、計り知れまい。未曾有の出来事に際会したときでさえ、今後の成り行きの予想を可能にしてくれるような事例が見つかることは、稀ではない。

 ガイア教はおそらくまだ多くの人――特に日本人のほとんど――がそう思っているような、ありきたりな動物愛護問題とか海洋資源争いとか環境保護問題じゃない。私の見る限り、間違いなく未曾有の事態だ。

 しかしまた、人の性によって何度でも繰り返される同じような事態に過ぎないとも言える。未来へのヒントは過去の歴史の中にちゃんと隠されている。

 本書『針の上で天使は何人踊れるか』には、ヨーロッパ中世末から近世にいたる奇々怪々な出来事が天こ盛りである。金色の巻き毛の十歳くらいの美少年姿の天使が、足が麻痺し長年歩けず苦しんでいた女を奇跡的に癒す。人間の子供を殺した豚の親子が裁判に掛けられ、母豚が絞首刑に処せられる。死者の霊魂が生きている人を訪ねに来て、頼み事をしたり来世からの伝言を伝えたりする。リンゴに悪霊が取り憑いて、奇妙な音を響かせる。魔女が空を飛んで、サバトで醜悪なる乱行を繰り広げる……いずれも、今では到底信じがたいことだ。

 ドルフィンセラピーとかイルカセラピーって聞いたことあるか? 私はいつも、文字列を見るだけでも自分の髪の毛掴んでまとめて引きちぎりたくなるぐらい腹が立つんだわ。だって自閉症の子供が治ると信じて大金払ってこういうのに通わせている親が世界にはきっと何千組・何万組といるんだぜ。*1

 テレビではオーラがどうとかスピリチュアルがどうとかいう番組が大人気で、学校では水は人のかける言葉に反応して結晶の形を変えると教える教師がいるのが21世紀だ。今からもう500年ぐらいたった未来世界に住む人間は、中世と現在のどちらをより信じがたい奇妙な時代と見なすと思う?

 あるいは学識あるエリートたちが甲論乙駁するその議論も変わっている。たとえば、天使には性欲はあるのか、また針の上には何人の天使がその足で立てるのか、地獄の炎は焚きつけたり燃料を補給する必要はあるのか、人間の狼への変身が悪魔による策略で外見のみが変わるのなら、どうして「狼男・狼女」は実際に俊足で凶暴になり、狼よろしく遠吠えしたがったのか……といった類のバカバカしい議論に、知識人が血道を上げたのはなぜだろうか?

 「現代では学識あるエリートたちはそんなバカバカしい議論に血道を上げてはいないから大丈夫! やっぱり昔と違うよ全然違うよ!」と思うだろう。今のうちにせいぜい幸せな幻想を楽しんでおくがいい。

 魔女信仰と妖術の諸慣習、神・悪魔・天使・悪霊。死後の世界についての悪魔学者や神学者たちの議論など、奇態なエピソードがオンパレードで、おどろおどろしさにやや辟易しながら読み進めていくと、(中略)プロテスタントとくにイギリス・アメリカで展開したピューリタンへと、話柄は急かされるようにして収斂していくのである。自由を求め人権思想をも抱懐した彼らが、なぜ災いのパンを食してことさら苦難をよしとしたのか。また相手が「同胞」のときにはたとえその男が泥棒に手を染めても寛容な処遇を求めるのに、なぜ「敵」となると常軌を逸した不寛容な態度を取るのか。ピューリタンをこの一見矛盾した態度へと駆り立てた精神のあり方の解明へと、著者は筆を進めていくのである。

 そして著者は、この精神が十六世紀イングランドの特異な状況で生まれたことを明らかにしていく。

 最近のニュースでオーストラリアがクローズアップされてはいるが、捕鯨反対で一番不寛容で強硬なのはイギリスとアメリカの、しかも政治的にはリベラルに属する人々だ。*2不思議に思っていた人も多いだろう。まだ不思議に思っているか? おそらくもうすぐ不思議とは思わなくなるだろう。

 神の掟に忠実な熱狂的信徒は、カトリックを復活させようともくろむ一党とはもちろん、あまり熱心でない信徒とも対立を繰り返した。彼ら熱烈な信徒らは国内外の敵から脅かされていると感じ、自分たちをこの世の戦場に生きる兵士だと自認していた。彼ら襲う苦難は神が彼らを試しているのであり、歴史を赤く染めている苦難を求めるキリスト教の実践を、今度は彼らが引き受ける番だとされたのである。

 「シーシェパードの船の船長が捕鯨船の場所を教えてくれないとグリーンピースの誰かを非難した。」というようなニュースを最近読んだのを思い出す記述。ちなみに太字による強調は私によるもの。以後も同様。

 きっと日本の陰謀論者たちは「あんなの偽装対立だよ! シーシェパードがグリーンピースから分離独立したのは自分の手を汚さずに実力行使できる別働隊が欲しかっただけだよ! 裏ではみんな結託して日本を陥れようとしてるんだよ!」みたいに考えているに違いない。

 私はもちろんそんな団体の裏側なんか全然知らないが、たぶんそれは全然違うよ。彼らが分裂したのには、もっと単純な解釈があるだろ?

  • 「クジラは捕鯨船を爆沈してもよいぐらい神聖なのか? それとも捕鯨船を爆沈してはいけないぐらいの神聖さなのか?」*3

 という重大な問題に関して、どうしても意見が合わなかったんだよ。神学論争ってのはそういうもんだ。

 またキリスト教会が破壊の憂き目に会っているのは、「最後の審判」が近づくにつれて悪魔とその協力者が暴戻のかぎりをつくすからであり、神との平和は、この世と戦争してのみ手に入れられるのだなどとも信じられた。

 いくらお前ら陰謀論者でも――というか、だからこそ――シーシェパードにとっての「暴戻の限りを尽くしている悪魔とその協力者」って誰のことか、もうわかってるよな? わからなかったら鏡を見ろ。

 で、お前らは何か陰謀に関わってるか? ないよな? どう考えても誤解だろ? ある意味では彼らも立派な陰謀論者なんだ。*4陰謀論者同士ちょっとぐらい相互理解に努めてみる気はないか? 私ができる限りお膳立てするから。

 こうした切迫した信仰世界に生きるピューリタンたちにおいては、悪魔のごとき「敵」に対してはいかなる残忍な仕打ちも許されるどころか、残忍な仕打ちこそ唯一の正しい信仰を守るための義務なのである。宗教改革・宗教戦争に際しては、敵陣を「異端」と呪い、その指導者を悪魔の申し子とし、裁き迫害するのが、真摯な信仰の表現であり、一五二〇年代以降、権力者によって、何千もの信徒が、カトリック・プロテスタント双方で死刑にされることになった。この時代「敵」への寛容とは、真実の信仰に無関心な、それこそ罪深い態度だった。平然と、いや清明の気をもって蛮行におよぶのが、信仰者としてのあるべき姿だったのである。

 著者は、こうした敵=他者を悪魔化しその殲滅を願う敬虔なる精神が、近世よりさかのぼることはるか以前、十一世紀前半における群小異端の火刑から連綿とつづいて、宗教改革・宗教戦争へといたったこと、いやそればかりではなく、こうした精神は現在只今の世界にもどっこい腰を据えていることを指摘するのである。その結果、たとえばアルカイダらイスラーム原理主義とアメリカのキリスト教原理主義の隠然たる力、そして「文明の衝突」と言われる事態は、はるかな始祖を近世に、いや盛期中世にもっていることが明かされるのである。

 それでだ、シーシェパードのことを「イルカイダ」とか言って笑いものにしてるお前らに聞きたいことがある。今回ばかりはお前らがいつもやってるのと違ってただの下品なレッテル貼りに留まらず、一抹の真実*5を含んでしまっているということを、わかって言ってるんだろうな?

 私はシーシェパードは全然怖くない。彼らの考えるようなことは手に取るように分かっているし……なんたって日新丸に乗ってないからな。

 だが、お前らの脳天気さはちょっと怖い。まるで本物の手榴弾をおもちゃと思って投げ合って遊んでる幼稚園児を目撃するような怖さだ。何度も言っているように必要以上に怖がる理由もまったくないが、必要な分だけは怖がってくれ。

 いいか? たとえ今や、自らのパロディ化されたミニチュアのおもちゃみたいに成り果てているとはいっても、彼らは間違いなく「本物」なんだ。ほんの二、三十世代前には聖戦の戦士だった者たちの直系の精神的子孫なんだ。今南氷洋で起きてるのは、どんなに規模が小さくたって「本物」の宗教戦争なんだ。

 歴史を(私の考える)正しい尺度で見るなら

  • 「なんで彼らは臭い液体入りのビンを投げつけてくるんだろう?」

 と不思議がるのはまったくバカげている。私たちは、どちらかといえば

  • 「なんで捕鯨船の乗組員がとっくに火焙りにされてないんだろう?」

 と不思議がるべきなんだ。*6

 お前らがまだ「圧力に屈したら食文化が死んじゃうよ!」ぐらいの気持ちでいるのなら、脳まで胃袋になっていないか疑うべきだ。比喩でもなんでもなく人が死んじゃうような話なんだよ。

 明日そうなっても、お前らは驚くかもしれないが、私は驚かないぞ。どんな意見を持つのも勝手だが、おもちゃにするのだけはやめてくれ。*7

 過去や外国の風俗慣習について、私たちは、「なにこれ」「どうしてこんなことになるの」という奇異の念を抱くことがしばしばあろう。それを迷妄だとか異常だとか言って済ませてはならず、それなりの「合理性」があったことを文化的・社会的な状況を考慮しながら理解する努力は、現在の自分たちの社会で当たり前に通用している考え方や習慣も、未来の人々や外国の人々にはおなじように突飛で奇異だと思われうるのだと、たえず心に留めておく態度にもつうじよう。

 これは、言ってみれば、歴史を「文化人類学」的に捉える効用でもあろう。つまり、未開人はもっぱら呪術の世界に浸っていたのではなく、自然の力と超自然の力をともども認識し、普段は確実な知識に基づく合理的な手段で自然に対処していたが、あらゆる努力も知識も凌駕する不可知の影響力を統御するときに、呪術に頼った。

 文明社会も実は同様なのであり、理性と神秘の境界線の位置や知識の体系のあり方、それらと社会の仕組との関係が異なっているだけなのである。こう考えることによって、私たちは、ある社会の人間たちが周囲の物事を理解する「過程」を意識するようになれる。

 ここめちゃくちゃ重要。しかと頭に刻みこんでおけよ。できれば太字部分を印刷してモニタの前にでも貼っておけ。もうすぐ嫌というほど実例を見ることになる。

 本書が鳴らす警鐘は、欧米人のみならず現代日本人にも向けられている。自明の理に見えて当然と思われることがかならずしも正しいわけではない。現代の生き方に含まれる価値について理解を深めるためには、異なる時代・社会で選択された価値を振り返って見る必要がある。(中略)たとえば将来の社会のあり方を決めるために意志を表明する機会を与えられたときに、「日本人なんだから当然だ」という政治家の口にする無意味な惹句に足を掬われないためにも、こうした考えを身に着けたいものである。

 そうだぞお前ら。イルカが人間より頭悪いなんてありえんだろ。何考えてんだ? クジラを食べるとかジョークにしても限度があるだろ。頭おかしいんじゃねえのか?

 そうじゃないと思うなら「日本人なんだから当然だ」以外の根拠が何かあるんだろうな? 何もないならただの国粋主義者とバカにされても文句は言えないぞ。

*1:もっともトンデモ医学が星の数ほどある中で、これだけが特にむかつくのには明らかに私の偏見が含まれるので、同意を求めようとは思わんが。
*2:勘違いしている人がいそうだが、シーシェパードはオーストラリアではなくアメリカの団体である。
*3:シーシェパードはすでにアイスランドの捕鯨船を爆破沈没させている。日本しか攻撃していないと言いふらす人がいるがそれは嘘だ。
*4:参考:陰謀論は現代の宗教 神は細部に宿り給う
*5:あくまで一抹程度である。ガイア教とイスラームにはユダヤ・キリストと続くアブラハム宗教の同じ系譜に連なる、ということ以外の関係はない。イスラームがガイア教に直接関係している形跡は、予想に難くないことだが、まったくない。シーシェパードをアルカイダと一緒くたにするのは、少なくとも現時点では不当だと思うし、アルカイダはアルカイダで、獣を拝んで大地母神の霊を信じる異端の極みみたいなのと一緒くたにされたら怒り狂うだろう。
*6:なんでだと思います? まったく冗談抜きで、試しに答えてみて下さい。
*7:「お前が一番おもちゃにしてるだろ!」って言われそうだが、私はいたって真剣に楽しんでいる。この世にこんなに面白いものはそうはない。おもちゃだなんてとんでもない。次の次あたりで詳しく述べる。

第15回】 【目次】 【第17回

おまけ

 極みという単語からこれしか連想できない体になってしまった。どうしてくれる。

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2008 1/20

針の上で天使は何人踊れるか―幻想と理性の中世・ルネサンス

第14回】 【目次】 【第16回

 脳内時間旅行に出る前にオープニングクイズだ。

 いわゆる反捕鯨国の中でも強硬とされる国々、たとえば環境保護団体が過激なパフォーマンスをしたり*1、メディアまでその尻馬に乗ってたり、どう見ても関係ないような地位の政治家が口を出したりする*2国を並べてみる。

 ぐらいかな? 並べてみてどう思う? 一見関係ないと思えるところに共通点があるのわかるかな? 続きを読む前に自分で考えてみてね。

 前回までで答えは半分まで言ったも同然だから簡単だったでしょ? 実は一番過激な反捕鯨感情の分布はプロテスタントの分布とかなりよく一致するんだ。偶然だと思う? 私がそうなるように並べただけだと思う?*3

 では、シーシェパードのような最も過激な反捕鯨の精神を理解するために歴史をさかのぼろう。

 最近、この目的のために書かれたとしか思えないような素晴らしい本が出た。私が最初に使おうと考えていた本とも違う*4が、こちらの方がぴったりであるので入れ替えた。

 まず前書きの部分が、そもそも歴史や文化を相対的に見る意味の説明としても、全体の要約としても素晴らしいのでよく読んでくれ。今までも何度か強調してきたような、このシリーズを通して最後までずっと重要な視点がうまくまとまっているから。

*1:つまりそれで寄付金を出す気になってくれるような熱心な市民がある程度いるってことだ。
*2:つまりそれで投票してくれるような選挙民がある程度の人数いるってことだ。
*3:当たり前だがこういう場合は最初にそれを疑ってくださいよ?
*4:第1刷は2007年7月20日でこのシリーズの開始よりも後だ。

第14回】 【目次】 【第16回

おまけ

 キリスト教繋がり。

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2008 1/20

クジラ・イルカ大図鑑

第13回】 【目次】 【第15回

 いきなり太古のミームとか言われてもわけわかんねーよ! って? そりゃそうだわな。宇宙はいつだって自分で思っているより複雑なものなんだ。慌てなくても勉強することはまだいくらでもある。ゆっくり理解していけばいい。

 しかし、主にビクター・ケラハーさんのおかげで、そろそろこの問題と、根本的な精神生活のあり方・具体的には宗教・名指しすればキリスト教との間に、何らかの関係があるってことは、たとえ疑いながらでも実感がわいてきたのではないかと思う。

 そもそもシーシェパードと聞いて「海なのになんで犬?」とか思ってる人が、ここを読んでいるような人の中ですら絶対にいるだろう。確かにシェパードという犬はいる。牧羊犬だ。辞書を引いてみよう。持ってなくても今ならネットにあるはずだ。

shepherd
1 羊飼い,牧羊者.
2a (教会員を羊に見立てて)牧師.
b (精神的)指導者.
c [the (Good) S〜] よき羊飼い,イエスキリスト.
3 →shepherd dog.

1 <羊を>飼う,見張る,世話する.
2 +目+副(句)<人の集団を>(…に)導く,案内する
古期英語から

 いくらなんでも迷える子羊って言い回しぐらい聞いたことがあるだろう? 羊飼いというのはキリストの古い暗喩なんだ。

 当然キリスト教国なら一般常識だが、日本人には知らない人がいたっておかしくない。新聞やニュースでこの程度のことを教えてくれないのは何故だろうね?*1 日本の権力を牛耳る闇の勢力は実は勇魚取りの組合から発展した秘密組織で、報道を操って国民の眼から都合の悪い真実を隠蔽しているのかな? それとも単に知らないのかな? どっちかな?

 シーシェパードになったつもりで想像してごらん。長いひれを左右に拡げて泳ぐクジラは海に浮かぶ巨大な生きた十字架であって、銛に刺し貫かれて血を流すクジラは、今まさに人間の環境破壊その他諸々の罪の全てを引き受けて天に召されようとしている顕現したキリストなの。

 クジラは生態上の理由によって痛みによる悲鳴はあげないけど、*2代わりに彼らの耳には「ガイアよ彼らを許したまえ。彼ら日本人たちは何も分かっていないのです。」というクジラの気高い祈りの声が届いているよ。

 ホントだよ。どうしたらそうじゃないなんて思えるの? 私にはわからないね。(わかるけど。)

 天ぷらご馳走してシャワーも貸してあげたのに虐待されたと嘘をつくなんてひどいだって? ふざけんな! 俺はお前らの魂を永遠の苦しみから救ってやりたい一心で、つきたくもない嘘をつくという罪まで背負ってやってるのに、天ぷらで恩を返した気になるとはどういう了見だ。お前らの魂はそんなに安いのか!? さもありなんだがな。自分で自分をそんな風に扱うなら次に俺たちがお前らをどんな風に扱ったって文句は言えないよな!? その時になってから懺悔しても遅いぞ!

 ……と、いつものように「地獄への道は善意で敷き詰められている」というわけなんだよ。いろんな意味で大変そうでしょ? どうやったらこんな精神を理解できる?

 まだ信じてくれなくてもいいが私はできる。その方法については、心の師匠の1人、古生物学者、進化生物学者、科学史家、エッセイストでもあった故スティーヴン・ジェイ・グールドからほとんどを学んだ。(後で『人間の測りまちがい』に言及するときにもっと詳しく触れるであろう。)しかし、学んだと言っても普通に中学・高校・大学・市立図書館に置いてあった本を読む以上のことは何もしていない。私にできるならあなたにもできるはずである。

 第1回で少しだけほのめかしたが、捕鯨・反捕鯨問題の本質を正しい時間感覚で捉えられていないことが、相手を、時に異常に強大に見せたり、時に異常に弱小に見せたりして判断を狂わせている。

 この場合、正しい理解を得るためには、歴史的・文化人類学的思考――わかりやすく言えば脳内時間旅行――が一番よい方法だ。

 私は第5回で「反捕鯨運動の始まりについては扱わない」と言った。誤解を招きそうな言い方だったかもしれないが、それは本当である。時間旅行とは言っても「19XX年IWC総会で云々」などということを指しているのではない。

 いま日本人に足りていないのはそんな時期の知識ではない。最初の行き先は、500年前だ。

*1:実は最近ニュースだけでなくテレビをまったく観ていないのでテレビ報道がどうなっているかは知らないのだが。
*2:その理由を調べるのと、もしそうじゃなかったら歴史はどう変わっていたかだろうかと考えるのは読者への宿題としよう。

第13回】 【目次】 【第15回

おまけ

 これについては言いたいことがあるがオチを割っちゃうので言わない。いつか取り上げるのでそれまでにいろいろ考えておいてね。

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2008 1/19

恐怖―心の闇に棲む幽霊

第12回】 【目次】 【第14回

 私がこのように3名(+私)の文章を並べたのは、もちろんガイア教に慣れ親しんで理解を深めてもらいたかったからだ。これは一番重要なことなのでもっと続ける予定だった。(そう、実はまだあるんだ。)

 が、シー・シェパードという団体の活動家が捕鯨船に乗り込んで拘束されるという事件が起きていて、少しでも早く彼らの過激さの源についての話にたどり着く必要を感じたので、ちょっと順番を前後させることにした。

 それでも一応、前回の続きから始めよう。

 私の意地悪かつ執拗なひねくれたツッコミがなくとも、更に捕鯨船やグリーンピース関連の記述を意識的に頭から追い出して脇に置いたとしても、

 「ある程度の年齢まで平均的な日本文化を前提として育っている多くの人間にとって、この『クジラの歌がきこえる』を魅力的な物語と感じることは難しいだろう」

 というあたりまでは、捕鯨・反捕鯨問題での立場に関係なく幅広い同意が得られると考える。

 たとえイルカ・クジラの大ファンで水族館のイルカショーに通いつめ、もちろん捕鯨には大反対の若い日本人夫婦であっても、

  • なぜかわかりあっているクジラ
  • ただ食べられるのをまっていたアザラシ
  • ざんこくな遊びが大すきなサメ

 の間に存在する厳然たる断絶に首をかしげざるをえないだろうし、ラストシーンで両親との和解を早々に諦めて自分とクジラだけの世界に行ってしまうクレアさんを見て、

 「まあステキ! うちの娘にもこうなってもらいたいわ」

 と思うことはまずありえないだろうと断言しても、必ずしも私の偏見とばかりは言えないはずである。

 私の意図通りなら、かなり多くの人が驚いたのではないだろうか、考えうる限り最高にぶっ飛んだ電波よりもただの童話の方が怖いということに。

 どう考えてもかなりアブないトンデモ本が「微笑ましすぎて腹筋痛い」ぐらいで済むのに、普通の童話に「血も凍る」*1というのは、よく考えてみれば――よく考えなくてもだが――不思議な話である。

 一体何が起きているのだろう?

 たぶん「それは文化の違いだ」とあなたは言うだろう。もちろんそれで正しい。まったくもってその通りである。

 しかし、その場合私は「それは何という文化のどんな違いか?」と続けて問う。

 人間の思考と行動にとって「遺伝と文化のどちらが重要か?」ということは長く真剣な議論の対象だったが、今では「どちらも重要である」という、振り返って見れば当たり前の結論に落ち着いている。

 すでに知られているように、人類は遺伝的には極めて均一である。*2だが、人間の思考・行動は後天的に身につけた常識・文化・教育によっても極めて大きく左右されるので、まったく違った文化に育った人間は、時に別の生物よりも理解しがたい存在にもなりうる。

 現在まさしくそういうことが起きていると思う。

 そろそろはっきり言っても大丈夫だと思うが、私の見る限り、現在反捕鯨運動に激しく反発しているほとんどの人の議論は、控えめに言っても無茶苦茶であり、理解できない存在に対して恐怖を憶える原初の本能に突き動かされてパニックに陥っている*3としか思えない。

 答えてもらおう。同じ人間であり、同じようにイルカを愛しているにも関わらず、ユリカさんとビクター・ケラハーさんを分けているのは何という文化のどんな違いか?

 答えられないのならあなたの“文化”という言葉は思考停止の免罪符に使われているだけであり、「あいつらはエイリアンだ」と言っているのと実質的に何も変わらない。ちょっと上品に聞こえるだけだ。

 私の答えはもう言ってあるも同然だが改めて言おう。捕鯨・反捕鯨問題を他の環境問題・他の動物愛護問題・他の海洋資源問題とまったく異なる何かにしている核心にあるものは、何千年も昔から脈々と受け継がれてきた一神教の暗黒の側面、先進諸国ではすでに絶滅したと多くの人が錯覚している*4太古のミームだ。

 最近ではリチャード・ドーキンスが『神は妄想である』一冊丸々使って批判したのがそれだ。それは人間の寿命よりもかなり長いスパンで存在し、独自の法則に従って受け継がれ、「生きる」。

 人間の脳はそんなものを直感的に理解できるようにはできていない。人間の脳は、人間の寿命の間なんとか生き延びて子孫を残すことに最適化されてきたのであって、そのようなものを理解することには何の価値もなかったからだ。

 人間がそのようなものを理解したければ、いくらひとりで頭をひねっても無駄である。やはり人間の寿命以上のスパンで存在し受け継がれる知識の力を借りなければならない。『歴史学』や『文化人類学』と呼ばれるものがそれだ。

*1第12回のコメント欄の表現を借りれば。
*2:これは数十万年前という比較的最近に、人類全ての祖先が小さめの体育館に全員集合できるぐらいの人数にまで減少したことがあるという事実の反映である。
*3:参考:陰謀論は現代の宗教
*4:もちろん事実としても絶滅寸前であり、だからこそ多くの人にとって理解不能になっているのだが。

第12回】 【目次】 【第14回

おまけ

 アクセス解析によると「ガイヤ教」で検索してこのブログにたどり着いた人がいらっしゃるようですが、お探しのものはこれでしょうか?

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2007 6/4

http://www.artvivant.net/artists/lassen/より

目次】 【第2回

 最近IWCの総会があった関係でいくつか反捕鯨問題のニュースを見かける。

 他にも探せばいくらでも出てくると思うが、議論はたぶん私が初めてこの問題に興味を持ちだした十年以上前からまったく変わっていないだろう。

 賛成派は「欧米白人キリスト教圏の文化帝国主義反対!」と叫び反対派は「水産庁の役人利権に利用される民族主義者キモい! グローバルスタンダードに逆らって国益を損ねるな!」と叫ぶ。

 そんな中で、上のページの人の「訳が判らない。」という素直な感想は貴重に見える。確かにこれはわからなくて当然と思う。私はおよそ主要な社会問題の中でこれほど理解の難しいものを他に知らない。

 私が初めて反捕鯨問題に興味を持ち始めた頃に一番驚いたのは、過激な捕鯨反対派の著作の中に、単に「鯨は知能が高い」というだけでなく「鯨は人間“よりも”知能が高い」という意見がしばしば登場することだった。

 それはもちろん反捕鯨派の主張としても主流というわけではなかったが、かといって少数の異常な例外として無視できるほどマイナーでもなかった。

 しかも、彼らにとってそれはただの運動の口実などではなく、心の奥底からそれが真実であると――あるいはあってほしいと――思っていることは確実だった。

 私にとってこれは直感にも理屈にも真っ向から反する不思議なことだった。

 確かに、他の条件が同じならば、知能が高い動物の方が可愛いと感じることは、人類にある程度普遍的な傾向と思われるので、捕鯨反対派が鯨の知能を高く見積もりたがるのは何も不思議ではない。

 しかし、人間“よりも”となるとまったく話は別だ。

 人種差別の思想にとって「人間が最も頭の良い生物であること、そして白人がその他の人種より頭がよいということ、そしてそれが偶然ではなく必然であること」はまさに中心教義であり、そのことを真理として“証明”するために途方もない努力が傾けられてきた。

 捕鯨反対運動と人種差別感情に強い結びつきが、少なくとも相関性があるのは明白に思えた。だが、そうするといくら反捕鯨運動の主張としては都合がいいからといって、もう一方の中心教義を全否定してしまうような信念が、過激派にとりわけ好まれるなどということが本当にあり得るだろうか?

 明らかに何かが間違っていた。例外は法則を試すというが、このことが納得できるようになった時には、私はこの世の何事かについて、何か重要なことを理解できるはずだと直感的に思った。

 しかし、その時はいくら頑張ってもそれ以上理解は進まなかった。私がこのことをやっと納得できるようになったのはずっと後になってからである。それは反捕鯨問題とはまったく関係なしに、宗教や哲学の歴史を勉強している時に予想外の方向からやってきた。

 結論から言うと捕鯨反対運動は人種差別と結びついているわけではないし、宗教じみているのでもない。現在の反捕鯨運動の精神はかつて人種差別に科学的根拠を与えてきた自然神学の残党であり、宗教じみているのではなく最初から宗教そのものなのである。

 もちろんいきなり言われてもなんのことかわからないだろうから、これから何度かに分けて説明していくけれども、冒頭の痛いニュースや、おそらく2ちゃんねる等で捕鯨反対派に対し強烈な反発を表明している人たちに、私から是非とも伝えたいメッセージが1つだけある。それは何も怖がる必要はないんだよってことだ。

 反捕鯨運動は君らが恐れているようなここ二、三十年で急速に台頭し瞬く間に日本の伝統文化のひとつを壊滅に追い込んだ恐るべき勢力……なんかじゃあない。逆だ。

 かつて社会の指導原理として人類総てに神の恩寵を与えていたもの、かつて地球を股に掛けて先住民をスポーツハンティングし、奴隷船を駆り、断種手術を指揮し、絶滅収容所を経営していたものの、もう見る影もない哀れな成れの果ての姿なのであって、恐怖に怯え「弱い者いじめはもうやめてくれ!」と叫んでいるのは実は君ら以上に彼らの方なんだってことだ。

目次】 【第2回

おまけ

 くじらっつったらこれだよな。

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2006 11/8

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 前回の記事の時に発見したエントリ

結論から言えば、やはりそこには「絶対的」なものがあって、そこから外れるものは認めない(というか見えない)のだろうと思う。

彼らの言う「話し合い」とは、彼らの許容範囲内での「話し合い」であって、それ以外のものは「意見」ではないのであろう。「意見ではない」とは、自分と異なる意見を認めないということではなくて、「意見ですらない」という意味。じゃあ何かといえば、具体的に言えば「別の意図を隠すまやかし」、「権力者に騙されている可哀想な人」あるいは「狂人」のたわごとということ。

かつての共産圏の国、又は今でも一部の国で、体制に都合の悪い人間を「裏切り者」とか「資本主義国のスパイ」とみなしたり、「再教育」したり「精神病院」に収容したりしたのは、実質的に逮捕監禁しているのをごまかすための名目というだけではなかろうと思う。絶対的に正しいイデオロギーに従わない・落ちこぼれるというのは、「有り得ないこと」であり、それにもかかわらず、そういう人間が存在する理由が、「敵国に通じている」とか「教育が足りない」とか「頭がおかしい」という結論に行き着くのは必然ではなかろうか。(このへん詳しく解説してある本を探しているんだけどなかなか見つからない)

(国家鮟鱇 – リベラルの攻撃性)

 tonmanaanglerさんがお探しの本ですが、私がことあるごとにお薦めしている、ジョナサン=ローチ著『表現の自由を脅すもの』がまさしくそれなんですね。第4章「ファンダメンタリストからの脅威」からいくつか相当しそうな箇所を引用しましょう。

 ファンダメンタリズム(原理主義)といっても、宗教運動ではなく、知的スタイルを表すのだが、それは、あなたも間違うことがあり得るということを真面目に受け取ることを断固拒否する態度である。

 あまりにもかけ離れた突拍子もない信念を持っているイスラムの国家主義的ファンダメンタリストに出会うのと、信念は似通っているが、その信じ方が異なっているという誰かに出会うのとでは、雲泥の差がある。そこをどう考えたらいいのか。進化を聖なる教義とし、『種の起源』を聖典とするダーウィン主義の信奉家のグループを発見したとして見たまえ。彼らの実践を、科学でないと無視し得ても、その信じるところは誤りだと一蹴し得ないであろう。

 こちこちのファンダメンタリストにとっては、世の中には一つの明白な真理と、多くの嘘つきが存在する。向こう側は、間違っているだけでなく、嘘をついているのである。だから中絶反対のファンダメンタリストからすれば、中絶支持者はただの殺人ではなく謀殺に賛成するものである。生命選択論者は、人間であることを知りながら計画的に殺すことを許容しようとするものである。(中略)生命選択論者であるファンダメンタリスト達は、生命尊重を称える彼らの反対者に対して、彼らは本当は胎児が人間だなんて信じていないんだ、信じるわけがないとしばしば主張する。それどころか、胎児に対する関心と言っているが、それは仮面であり、計略であって、本当のところ中絶反対論者の闘いは、女性の権利の撤回、出産を目的にしない性行為の禁圧のためだと主張するのである。ワシントンの多くの保守主義者を含めて、アメリカの政治的右翼のファンダメンタリスト達は、自由主義者である彼らの反対者達は故意に国を害そうとしているから、反逆者、でなければせいぜい非愛国者であると主張する。政治的左翼のファンダメンタリスト達は、彼らの敵である保守主義者達は意図的に貧者を飢えさせ、地球を吹っ飛ばそうとしていると主張する。真理が明らかなのにそれが見えないとすれば、それは気が変か、バカか、騙そうとしてやっているかである。

(反対意見の者に対してソビエトが、精神医学を用いるのは、確信的ファンダメンタリストから見れば明白な真理が分からない人は、馬鹿か性悪でなければ、気が変であるに決まっているので、そんなに風変わりなことではなかろう。)

 つまりこの場合のポイントはリベラルであるとか保守であるとかの思想というよりも、その思想の実践法(あるいはメタ思想とでも言おうか)であって、どんな立場であっても絶対的なものの考え方をすることはできるし、それに基づいて行う議論は健全ではないということですね。

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