2010 1/28

ニューエイジについてのキリスト教的考察

 ニューエイジが日本人にとって極めて理解しにくい理由は、それが基本的に西洋思想、とりわけキリスト教と近代科学に対するアンチテーゼだからだ。

 ある程度まで当たり前で、仕方のないことだが、日本人はキリスト教についてよく知らない。*1「○○」をろくに知らないのに「○○への反発」を正確に理解できるはずがない。

 そこを上手いこと補うために推薦できるいい本がないかとずっと探していたのだが、

 経由で知ってついに発見した。これは素晴らしい。まさか教会そのものが出しているとは思わなかった。灯台下暗しとはこのことだ。

 全体で170ページしかない薄さに、ニューエイジの基礎に加えて、「キリスト教とニューエイジそれぞれが、互いをどのように見ているのか」という、日本人にとって最もわかりにくく、かつ重要な部分が濃縮されている。

 ニューエイジ関係の話題――うちでもガイア教シリーズがもろに関わる――ちょっとでも興味がある人には最適の本だ。断然おすすめする。というかもはや必読。

 ただし、聖書に対する最低限の知識は前提として必要。たとえば「旧約聖書と新約聖書って何が違うんだっけ?」とか「ピラトって誰?」とか思うようなら、阿刀田高の「知っていますか」シリーズぐらいでもいいので、一通り予習してからにした方がいいと思う。

 また、教皇庁の手になるものなので当然立場はカトリックであるが、プロテスタントとの違いが重要になる局面はこのレベルではないので、あまり気にしなくていい。

*1:近代科学についてもよく知らないが、それは幸か不幸か――不幸に決まっているが――どこでも共通だ。

おまけ

 つながりわかる人いますか?

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2010 1/10

(本文とは無関係)

 政治や文化の歴史は、振り子のように左右に振れるというが、この人口に膾炙したイメージは、いささか単純すぎると思う。

 歴史は一度きりの現象で、決して繰り返したりはしない。もちろん、

歴史は同じようには繰り返さないが、韻を踏む。
The past does not repeat itself, but it rhymes.

マーク・トウェイン – Wikiquote

 という言葉がすでにあるが、振り子という極めて視覚的にわかりやすいイメージを、これで上書きするのは困難な気がする。

 そのために役に立つイメージを考えるなら、とても傾斜の緩い螺旋階段だろうか。この螺旋階段を上る点を、少し離れたところから見ると、左右に揺れているだけのように見える、ということ。

おまけ

 螺旋→らせん→貞子

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2010 1/10

切除されて

 ここしばらくヒューマン・ユニバーサルの話題を並べていたのは何故かというと、ちょっと前*1に見かけた一連の女性器切除の話題に関して、一言だけ触れておきたいと思ったから。

  1. 女性器切除
  2. ちょっと待って、「女性器切除」の話題! – キリンが逆立ちしたピアス
  3. 割礼儀礼の現場から Circumcision

 1の匿名のような素朴な意見は、もちろん2のような批判を免れえない。

 だが「女性器切除と一括りに呼ばれるものの中にも多様性がある」とか「現地女性の意見も様々だ」なんてことは百も承知の上で、3のような素朴な相対主義も、もはや支持しえない。

 現代の医学・人類学・霊長類学が明らかにしつつあるのは、女性の陰核や性感は、男性のペニスやリビドーの副産物などではなく*2生物学的にも社会的にも重要な武器のひとつ*3だということ。

 またさらに、陰核切除などの慣習にも、これ*4に代わるべき説得力のある説明はなく、別の脈絡では意味をなさない。この慣習を「女の割礼」――加入儀礼として男の包皮を切除するのと並ぶ慣習――と呼ぶことで説明してしまおうとするのは、あまりにあからさまな人類学的婉曲法である。このような説明はあてにならない。文化的な諸観念は、陰核の除去手術や陰唇の縫合(陰部封鎖)を行なって女の解剖学的構造を作り変えようという直截的な努力の上塗りにすぎない。それぞれの処置が男と女に対して及ぼす影響は根本的に異なっているのである。男の割礼は性的能力にきわだった影響を与えない。しかし、陰核切除は性的快楽を減少させる効果的手段である。

(サラ・ブラファー・ハーディー『女性の進化論 』)

 すでに多くの人が指摘していることだが、あらゆる意味で*5陰核切除を含む「女子割礼」に正しく相当する「男子割礼」は、包皮切除ではなく亀頭切断である。

 もちろんそんな男性にとって都合の悪い「文化」など、非難する・しない以前に、どこにも存在しない。何が文化かを決める権力は、常に男性が握っているからだ。*6

 (極端な)文化相対主義が徐々に批判に耐えられなくなってきた以上、人権の概念の方を大きく書き換えるのでない限り、少なくとも「男子の包皮切除が非難されないのは欧米中心主義だ」などという類の言説は、もはや批判に耐えられない。

 「じゃあどうすんの?」という話になるのだけど、今回の絡みで読んで一番バランスが取れていると思ったのは、流石に専門の文化人類学者らしいこちらのエントリ。

 心理学ではよくある話*7だが、実際には大したことがないものを魅力的に見せるのに、上から頭ごなしに禁止するより優れた方法はない。人間はただ禁止されているという理由だけで毒薬でもなめる。

 このような心理的傾向は、ほぼ間違いなく優位者の操作に対抗するために進化してきたものであろうから、一概に否定もできない。ただ、分かっていてそういう方向に追い込むなら、追い込んでしまう側には責任がある。

 仮に女性器切除の廃絶だけを目標とするにしても*8それを実現するベストな手段はおそらく、女性器切除への関心などおくびにも出さず、ひたすら現地の女性に対するエンパワーメントを進める、というようなものになろう。

 当然、このような見方を受け入れるならば、長い間、多くの女性に生じる現実の被害を、積極的に見て見ぬふりをすることを要請することになるわけで、そのことの倫理性は大きな問題になるであろうが、それはまた別の話。

*1:すでにちょっとどころではない前だけど。
*2:男性の乳首が、おそらく女性の乳首の単なる副産物であるようには。
*3:何も特別な意味ではなく、単に脳や目や手足がそうであるように。
*4:女性の社会行動・性的戦略を制限して男性の父性を確実にすること。
*5:相同器官であるという生物学的な意味でも、実際に果たしている生理的・社会的機能の上でも。
*6:完全な女権社会は、地球に未だかつて実在したことはないと思われている。いわゆるアマゾネスの伝説は、現代人にとってのビキニスーツの女戦士が登場するアニメ同様、男性の男性による男性のための性的ファンタジー以上のものではなかったであろう。(念の為に断っておくが、だからいかんと言ってるわけではないよ。性的ファンタジー大いに結構。現実とごっちゃにしなければ。)
*7:『影響力の武器』か何かにも出てきたと思う。
*8:もちろん「だけ」を目標にする必要などないだろうが。

関連書籍

おまけ

 亀頭とか書ける機会はあまりなさそうなのでこの際遠慮せず。

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2009 12/2

歴史 上   岩波文庫 青 405-1

 有名すぎる本だけど、このエピソードがなんか無性に好き。

 プサンメティコスはいろいろ詮索してみたが、人類最古の民族を知る手段を発見できず、とうとう次のような方法を案出した。生れ立ての赤子を全く手当り次第に二人選び出し、それを一人の羊飼にわたして羊の群と一緒に育てるように言いつけ、その際子供の前では一言も言葉を話してはならぬ、子供はほかに人のいない小屋に二人だけでねかしておき、然るべき時々に山羊を連れていって十分に乳を飲ませ、そのほかの世話もするようにと厳命しておいたのである。プサンメティコスがこんな手筈を整え、こんな命令を出したのも、赤子が意味のない喃語を語る時期を脱したとき、最初にどんな言葉を発するかを知りたいと思ったからにほかならなかった。この計画は王の思いどおりにいって、羊飼は言いつけられたとおりを行なって二年たったある日のこと、小屋の戸を開けて中へ入ると、二人の子供は手を延べて彼のところへ駈けより「ベコス」といった。はじめ羊飼はそれをきいても、そのことを誰にも語らなかった。しかし赤子の小屋へゆき世話をするごとにこの言葉を聞くのが度重なって、羊飼はとうとうそれを王に報告し、王の命令によって赤子を王の前に連れていった。王も自分の耳でその言葉を聞くと、「ベコス」という言葉を使うのは何国人であるかを調べさせた。そして詮索の結果、プリュギア人がパンのことをベコスということが判ったのである。
 エジプト人もその実験の結果から判断して、とうとう今までの主張を譲歩して、自分たちよりもプリュギア人の方が古い民族であることを認めるようになったのである。

(ヘロドトス『歴史』上巻 P161-162)

 なんというか、人間と社会の、昔と変わってしまった部分と変わらない部分が、絶妙に混ざり合ってる感じが好き。

おまけ

“ふたりはプリュギア” に一致する日本語のページ 8 件中 1 – 8 件目 (0.05 秒)

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2009 10/20

進化と人間行動

 これも読んだのはかなり前だが、下の部分をメモするための再読。

 ついでにおすすめすると、この話題に関する教科書として素晴らしい最高の出来。

 想定されているのは大学の教養課程での使用だと思うが、わかりやすさも重視されているので高校生・中学生でも十分読めると思う。

マーガレッ卜・ミードの神話

 文化が変われば何でも変わる, したがって固定された「人間の本性」など存在しない, という考えの証拠としてあげられた研究に,文化人類学者のマーガレット・ミードの研究があります. ミードは文化相対主義の創始者であるフランツ・ボアズやルース・ベネディク卜の弟子で,サモア,ニューギニアなどの南太平洋洋の人々を研究しました.
 文化人類学の古典とも呼ばれる彼女の著書,『サモアの青春』の中で,彼女は,サモアの文化には思春期の葛藤や性の抑圧は存在しない,結婚前の若い女の子たちのセックスは自由で,それについて話すことにもなんの制約もないと報告しました.つまり,性にまつわる考えや習慣は文化によってなんとでも変わるということです.
 この考えをさらに強固にするのが,彼女の著書『三つの未聞社会における性と気質』の中で語られる,互いに100マイルと離れていないニューギニアの三つの部族における男性と女性の性質の話です.彼女の調査によると,アラペシュと呼ばれる人々は,男性も女性も穏健で,ムンドゥグモルと呼ばれる人々は,男性も女性も非常に攻撃的,そして,チャンブリと呼ばれる人々では,男性が,西欧で普通に女性的と思われている性質を表し,女性が,西欧で普通に男性的と思われている性質を表しているということです.つまり, 「男らしさ」「女らしさ」が完全に逆転している社会もあるというわけです.
 ミードの著書は,まさに20世紀の文化相対主義を絵に描いたごとくであり,非常に広く読まれ,文化人類学のみならず,社会学,心理学などにも大きな影響を与えました.実際,筆者らが修士課程のころには,文化人類学の先生にこの話を教わったものです.
 しかしながら,その後の厳密な再検討の結果, これらの調査結果は正確なものではなく,大部分がミードの性急な思い込みによるものであることが明らかとなりました(Freeman,1984, 1999). サモアの青春についてミードに情報を提供したサモア人の少女たちは,自由で抑圧のない性についてミードに作り話をしたことをのちに証言しました.また,アラペシュ,ムンドゥグモル,シャンブリについては,そもそも学問的に正確なデータは一つも存在しません.
 ミード自身や同時代の他の文化人類学者たちの著書を読むと, ミードがまとめたような性質を彼らが持っていることを示す具体的な証拠は一つもなさそうです.結局,文化にはなんでもあり,文化が変わればすべてが変わるという主張を支える証拠として長らく引用されてきたマーガレット・ミードの南太平洋研究は,信頼性の低いものであることがわかりました.

(P7-8)

おまけ

 性別逆転+「神話になれ」つながり。

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2009 10/11

名誉と暴力―アメリカ南部の文化と心理

 『みんなの進化論』で言及されていて面白そうだったので読んだ。以下は超要約。

 アメリカ南部の文化が、端的に言ってマッチョ的だというイメージは広く知られている。しかし、南部人は単に何に関しても暴力的というわけではない。自分自身や女性親族の「名誉」を守るという文脈で、特に暴力を許容する傾向がある。

 よく言われてきた「奴隷制のせいで良心が摩滅しちまったんだよ」という類の説明は、「社会制度が暴力肯定を助長することがある」という一般論として正しい部分はあるかもしれないが、南部の特殊性を説明しうるものではない。

 南部の「名誉の文化」の特殊性は、初期の移民達の牧畜生活の産物である。盗まれやすい家畜が主な財産であり、公権力に頼りにくい牧畜生活では、家畜や家族を守る暴力を持たないと見なされる、すなわち「なめられる」ことは、死活問題に繋がりやすいからである。

 かなり面白かった。実験やデータの説明もなかなか面白いのでぜひおすすめ。

参考リンク

おまけ

 牧畜と文化つながり(?)

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2009 1/17

「甘え」の構造 [増補普及版]

 英語には日本語の「甘える」に相当する言葉がない、という話から始まる日本論。Wikipediaにも項があるようなベストセラーだったそうだが最近まで知らなかった。私にはやはりこれは日本論というより裏返しの一神教論として読めてしまう。

 たとえば浄土真宗では他力本願といって、自己の力で悟りを開いて成仏するなどという考え方は捨てて、ただ阿弥陀如来の力にすがるべし、というようなことを強調するわけだが、思えば『歎異抄講話』では、その感覚を“赤子が母親の乳房にすがるように”というように表現していた。

 キリスト教にも、救済には神によって決められる(すでに決められている)もので自分の力でどうにかなる問題ではない、というような一見よく似た思想はあるわけだが、この場合“赤子が母親の乳房にすがるように”神に頼れってのは、まったくありえない形容だわな。「キリスト教の神は男性じゃねえか」と思うかもしれないが、そういう意味では阿弥陀如来が女性とされているわけでもないし。

 全体としてはかなり面白かった。類似の内容では『空気の研究』以来。ページ数も手頃なのでおすすめ。他に気になったところを2箇所ほど。

 天皇は、諸事万端、もちろん国政に至るまで、周囲の者が責任を以て万端漏なきよう取りしきることを期待できる身分である。したがって天皇はある意味では周囲に全く依存しているが、しかし身分上は周囲の者こそ天皇に従属している。依存度からすれば天皇はまさに赤ん坊と同じ状態にありながら、身分からすれば日本最高であるということは、日本において幼児的依存が尊重されていることを示す証拠とはいえないであろうか。天皇に限らず日本の社会ですべて上に立つ者は、周囲からいわば盛り立てられなければならないという事実が存するが、これも同じような原則を暗示するものである。いいかえれば、幼児的依存を純粋に体現できる者こそ日本の社会で上に立つ資格があることになる。素直ということが古来最高の美徳としてもてはやされていることは、この点を裏書きするものといえるであろう。

 あまり関係ないのだが、東方の設定のユニークさに対する興味は継続中である。次に機会があったら、テーマはたぶん理想化された日本社会である幻想郷の“ひとり天皇家”としての博麗霊夢

 現代の疎外は、人間が近世の曙以来理性によって自立し自己充足できると思ったにも拘らず、そうはいかないことを発見したことに、究極的に由来すると考えられるからである。面白いことは、このことがすでに十九世紀の初頭ゲーテによって予感されていたことである。すなわち彼が創作したファウストという人物は、ルネッサンス的な人間として登場するが、しかし実際のルネッサンスの人間のようには、自信と喜びに溢れていない。むしろ彼は思索と研究に倦み疲れ、自己に絶望して毒を仰ぎ命を絶とうとするが、ふと聞えた復活節の歌声に気を取り直して思い止まる。しかしそれは彼の信仰が甦ったからではなかった。彼はむしろ信仰がないことをあらためて自覚する。歌声が、過ぎ去った幸福な幼年時代を思い起こさせたことが、彼をして死を思い留まらせた原因だったのである。その後彼はあらゆる分別をふりすてて、メフィストフェレスのいざなうまま、さまざまの冒険に身を委ねる。しかし遂に真の満足を経験することなく死に至るのであるが、その時ゲーテは、天上の合唱隊に「永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ。」と歌わせているのである。

 一体これは、現代人の魂の遍歴を暗示している、といえないであろうか。すなわち現代人も自らの理性に依り頼んであらゆることを試みた後、自己に絶望しはじめている。たしかに科学文明は人間の力を誇示した。しかしそれはもはや往年のごとく人間にとってインスピレーションとはならない。人間は生命的枯渇感を覚え、これを恢復するため今一度裸の人間にかえって感性的に生きようと決心する。そしてこの新たな探求は、ファウスト劇の最後の言葉が暗示するように、母性的なものへの憧れ、いいかえれば甘えに導かれているように思われるのである。

(中略)

 現代文明に接する新しい世代の感覚という観点から論じてみても、同じように人間疎外の意識が導き出されるように思われる。すなわち、現代文明の巨大かつ複雑な機構に接した場合、新しい世代は、未開人と同じく、ほとんど畏怖に近い感情を抱くのではなかろうか。殊に文明による環境破壊があらわになった今日ではなおさらのことである。

 ファウストをそういう読み方をしたことはなかったが、よくわかる。現代の先進国に住む進歩的な人が、キリスト教を「後れた差別的な狂信」と否定したと思ったら一直線にスピリチュアリズムに走ってしまうことがあるのは、まさにこういうメカニズムだろう。

参考リンク

おすすめ類書

おまけ

 味覚+国民性つながり。

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2008 12/10

数量化革命

 『飛び道具の人類史』が面白かったので、アルフレッド・クロスビーつながりで借りてきた。

 中世のヨーロッパは全てが宗教一色に塗り固められていて文明はむしろイスラム圏や中国より劣っており、近代の繁栄が始まったのはギリシア文明のルネッサンスから、というのは中学校でも習う話だが、それを“数量化”という観点からまとめた本。訳者あとがきより。

 世界を理解する枠組みが、従来のような定性的で目的論的なものから、定量的で自然主義的なものに変わった。アリストテレスの権威とキリスト教の教義に基づいて階層構造をなすとみなされていた世界は、均質で一様でニュートラルなもの、数量的に表現できるものに変貌した。こうした認識の変化はやがて、天動説天文学から地動説天文学への移行に見られるようなパラダイムの変化をもたらし、十六世紀後半と十七世紀の科学革命を経て近代科学が築かれる礎石となった。

 このように中世の西ヨーロッパ人の世界観が変容してゆくプロセスを、著者は機械時計の発明や地図製作術の進歩、インド・アラビア数字や数学記号の導入などを例に引いて明らかにしている。事物を構成要素に還元して数量的に考察することに加えて、事物を視覚的に表現する傾向が強まってきた。その結果、音が持続する時間も表示できる定量記譜法が発達し、三次元の空間を二次元の平面上に幾何学的に正確に再現する一点消失線遠近法が考案された。一方、質的にも量的にも変化の波に襲われていた商取引の流れが、マックス・ウェーバーが資本計算の形式合理性の最高形態と評した複式簿記によって、その要点が一目瞭然にわかるような形で表現できるようになった。

 著者が論証を展開してゆくうえで論拠として提示していることがらは、たとえばグレゴリオ改暦にせよ、記譜法の発達の歴史にせよ、その一つ一つがきわめて重要なテーマであり、それらを専門に論じた文献も枚挙にいとまがない。また、現在にいたっても学問的な決着がついていないことがらも少なくない。それらを限られた紙幅で十全に論じきるのは望むべくもないのだが、本書は一冊の本のなかでできる限り幅広く目配りし、一見したところ関連のなさそうなさまざまな事象に共通するテーマを提示している。現実世界の諸相を数量的かつ抽象的に計測する普遍的な尺度が、あるいはそうした思考様式が、近代科学の誕生に道を開き、ヨーロッパ帝国主義の世界支配を支えたことを指摘したという点で、本書の価値は大きいと思う。

 『銃・病原菌・鉄』で歯切れが悪かった(と私は思う)「なぜ中国ではなくヨーロッパだったのか」の部分を補完するものとして読めるのではないかと。

 二冊続けてかなり面白かったので著者の他の本も読んでみよう。また、途中でわずかに『図説 数の文化史』に言及される部分があったのだが、これは『文字はこうして生まれた』のためにもう一度読みたくなっていたところ。

関連図書

おまけ

 五線譜の話が出てきたので。ドレミファソラシドの由来は恥ずかしながら今回初めて知った。

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