2010 3/12

ゴルゴ13 155 (SPコミックス)

 ゴルゴ13の出身は、たびたび話題になるものの、決して明らかになることはない。なぜか?

 ある意味では答えは簡単だ。多分あなたもすぐ思いついた通りだ。明らかになってしまったら、いつでも使えて確実に人気のあるネタの一つが無くなってしまうからだ。

 しかし、それはあくまで至近要因だ。なぜゴルゴの出身が確実に人気のあるネタなのか?

 想像してみよう。ついにゴルゴの真の出身が疑問の余地なく判明した! 実はロシア系中国人で日本とは縁もゆかりもなかった!

 あるあ……ねーよ。

 そう、誰もそんなことはありえないと知っている。みんな実はゴルゴは日本人――でなくとも、少なくとも日系人とか日本人とのハーフとか――だと知っているのだ。

 では、なぜゴルゴは日本人でなければならないか?

 いつか一言だけ触れた(参考)が、ゴルゴ13というキャラクターの人気は、戦後日本人の国際政治コンプレックスと切り離して考えることはできない。

 いつも無表情でアメリカ大統領やCIA長官を震え上がらせるゴルゴというキャラクターは、メガネでへらへら笑うエコノミックアニマル*1としての日本人の自己認識の正確な裏返しだ。

 では、もう一度最初の問いに戻って、なぜゴルゴの出身は決して明らかにならないのか?

 明らかにしたっていいのではないか、誰もがすでにそうだと知っているのだから。読者が皆そうであることを望んでいるとわかっているのだ。ネタのストックをひとつぐらい減らしても、明らかにしてあげるべきでは?

 もちろん、違う。

 コンプレックスの補償としての娯楽は、それを楽しみつつ、そうしているということをはっきり自覚させないことが重要だ。

 「日本人と断定されたゴルゴ」は、あまりにも日本人の国際政治コンプレックスの代償の要素がはっきりしすぎる。それは、たとえるならギャルゲーに「非モテ御用達」と明記するような自殺行為だ。

  1. おそらく日本人と思われつつも不明のまま
  2. 日本人と判明する
  3. 日本人でないことが判明する

 ゴルゴの出身についてのありうる選択肢は、この順番で望ましい。つまり、現状のままがベストだということを、作者はもちろん読者もみんなわかっているのだ。

*1:今となっては「むしろまたエコノミックアニマルと呼ばれたい」という思いの方が強くなっているかもしれないが。

おまけ

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2009 9/17

トライガンマキシマム (2) (YKコミックス (888))

 という質問を受けたことがある。どんなシチュエーションで聞かれたかはよく憶えていない。(たしか『トライガン』の絶頂期だったので、おそらくニコラス・D・ウルフウッドを念頭に置いた質問と思われる。)

 しかし、どう答えたかははっきり憶えている。私は「そりゃ本物の神父が出てきたらキモいからに決まってんだろ」と答えた。

 その後、日本のマンガ・アニメにもわずかながら本物の神父は登場するようになった。代表的なのはベルセルクのモズグス様だ。

 『HELLSING』のアンデルセン神父も、モズグスに比べると微妙ではあるが、やはり単なるコスプレとは一線を画している。

 彼らは、もちろん漫画的誇張を施されてはいるが、ある意味確かに「本物」の神父であり、それ故に日本ではモンスターあるいはフリークスとならざるをえないのである。

おまけ

 やはり日本ではウケが今ひとつ。

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2009 4/8

殴り合う貴族たち―平安朝裏源氏物語

 要約すると文学しか注目されない平安貴族の暮らしだけど、実情はわりとカオスでしたという話。当たり前と言えば当たり前なのだけど、こういう幻想が破壊される感は個人的に大好きだ。

 後半はだんだん似たような内容の繰り返しになってきて、一般的にはあまり面白い本とは言い難いので、そんなに積極的におすすめはしない。ものはついでだが、源氏物語については、

 の音読mp3と、

 のHTMLヘルプ版の組み合わせが、目下最強の環境ではないかと思われる。いい時代になったもんだ。

参考リンク

おまけ

 殴り合いで幻想が破壊される感つながり。

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2009 1/17

「甘え」の構造 [増補普及版]

 英語には日本語の「甘える」に相当する言葉がない、という話から始まる日本論。Wikipediaにも項があるようなベストセラーだったそうだが最近まで知らなかった。私にはやはりこれは日本論というより裏返しの一神教論として読めてしまう。

 たとえば浄土真宗では他力本願といって、自己の力で悟りを開いて成仏するなどという考え方は捨てて、ただ阿弥陀如来の力にすがるべし、というようなことを強調するわけだが、思えば『歎異抄講話』では、その感覚を“赤子が母親の乳房にすがるように”というように表現していた。

 キリスト教にも、救済には神によって決められる(すでに決められている)もので自分の力でどうにかなる問題ではない、というような一見よく似た思想はあるわけだが、この場合“赤子が母親の乳房にすがるように”神に頼れってのは、まったくありえない形容だわな。「キリスト教の神は男性じゃねえか」と思うかもしれないが、そういう意味では阿弥陀如来が女性とされているわけでもないし。

 全体としてはかなり面白かった。類似の内容では『空気の研究』以来。ページ数も手頃なのでおすすめ。他に気になったところを2箇所ほど。

 天皇は、諸事万端、もちろん国政に至るまで、周囲の者が責任を以て万端漏なきよう取りしきることを期待できる身分である。したがって天皇はある意味では周囲に全く依存しているが、しかし身分上は周囲の者こそ天皇に従属している。依存度からすれば天皇はまさに赤ん坊と同じ状態にありながら、身分からすれば日本最高であるということは、日本において幼児的依存が尊重されていることを示す証拠とはいえないであろうか。天皇に限らず日本の社会ですべて上に立つ者は、周囲からいわば盛り立てられなければならないという事実が存するが、これも同じような原則を暗示するものである。いいかえれば、幼児的依存を純粋に体現できる者こそ日本の社会で上に立つ資格があることになる。素直ということが古来最高の美徳としてもてはやされていることは、この点を裏書きするものといえるであろう。

 あまり関係ないのだが、東方の設定のユニークさに対する興味は継続中である。次に機会があったら、テーマはたぶん理想化された日本社会である幻想郷の“ひとり天皇家”としての博麗霊夢

 現代の疎外は、人間が近世の曙以来理性によって自立し自己充足できると思ったにも拘らず、そうはいかないことを発見したことに、究極的に由来すると考えられるからである。面白いことは、このことがすでに十九世紀の初頭ゲーテによって予感されていたことである。すなわち彼が創作したファウストという人物は、ルネッサンス的な人間として登場するが、しかし実際のルネッサンスの人間のようには、自信と喜びに溢れていない。むしろ彼は思索と研究に倦み疲れ、自己に絶望して毒を仰ぎ命を絶とうとするが、ふと聞えた復活節の歌声に気を取り直して思い止まる。しかしそれは彼の信仰が甦ったからではなかった。彼はむしろ信仰がないことをあらためて自覚する。歌声が、過ぎ去った幸福な幼年時代を思い起こさせたことが、彼をして死を思い留まらせた原因だったのである。その後彼はあらゆる分別をふりすてて、メフィストフェレスのいざなうまま、さまざまの冒険に身を委ねる。しかし遂に真の満足を経験することなく死に至るのであるが、その時ゲーテは、天上の合唱隊に「永遠に女性なるもの、我等を引きて往かしむ。」と歌わせているのである。

 一体これは、現代人の魂の遍歴を暗示している、といえないであろうか。すなわち現代人も自らの理性に依り頼んであらゆることを試みた後、自己に絶望しはじめている。たしかに科学文明は人間の力を誇示した。しかしそれはもはや往年のごとく人間にとってインスピレーションとはならない。人間は生命的枯渇感を覚え、これを恢復するため今一度裸の人間にかえって感性的に生きようと決心する。そしてこの新たな探求は、ファウスト劇の最後の言葉が暗示するように、母性的なものへの憧れ、いいかえれば甘えに導かれているように思われるのである。

(中略)

 現代文明に接する新しい世代の感覚という観点から論じてみても、同じように人間疎外の意識が導き出されるように思われる。すなわち、現代文明の巨大かつ複雑な機構に接した場合、新しい世代は、未開人と同じく、ほとんど畏怖に近い感情を抱くのではなかろうか。殊に文明による環境破壊があらわになった今日ではなおさらのことである。

 ファウストをそういう読み方をしたことはなかったが、よくわかる。現代の先進国に住む進歩的な人が、キリスト教を「後れた差別的な狂信」と否定したと思ったら一直線にスピリチュアリズムに走ってしまうことがあるのは、まさにこういうメカニズムだろう。

参考リンク

おすすめ類書

おまけ

 味覚+国民性つながり。

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2008 10/29

日本という方法―おもかげ・うつろいの文化 (NHKブックス)

 なんかものすっごい微妙な本。何とも説明しづらい感覚なのだが、これを読んで「感動した!」って人間とはあまり趣味が合わなさそうと思う反面、これに書いてあるようなことを「全然興味もありません。」って人間ともあまり趣味が合わなさそうな感じ。

 よって、一目で「面白そう」と思った人には「必ずしも読まなくてもいいです」と言い、一目で「全然食指が動かない」という人には「まあそう言わずに読んでみて」というぐらいのお薦め具合になる。

参考リンク

おまけ

 MADも編集文化かね。

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2007 5/24

バベル スタンダードエディション [DVD]

 タイトルのバベルとは

聖書におけるバベルの塔

バベルの塔の記事は『旧約聖書』の『創世記』11章にあらわれる。位置的にはノアの物語のあとでアブラハムの物語の前に置かれている。そこで語られるのは以下のような物語である。

もともと人々は同じ1つの言葉を話していた。シンアルの野に集まった人々は、れんがとアスファルトを用いて天まで届く塔をつくってシェム(ヘブライ語、慣習で名と訳されている)を高くあげ、全地のおもてに散るのを免れようと考えた(偽典の『ヨベル書』によれば神はノアの息子たちに世界の各地を与え、そこに住むよう命じていた)。神はこの塔を見て、言葉が同じことが原因であると考え、人々に違う言葉を話させるようにした。このため、彼らは混乱し、世界各地へ散っていった(『創世記』の記述には「塔が崩された」などとはまったく書かれていないことに注意)。『創世記』の著者はバベルの塔の名前を、「混乱」を意味するバラルと関係付けて話を締めくくっている。

原初史といわれ、史実とは考えられないアブラハム以前の創世記の物語の中で、バベルの塔の物語は世界にさまざまな言語が存在する理由を説明するための物語であると考えられている。と、同時に人々が「石のかわりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを」用いたという記述から、古代における技術革新について触れながらも、人間の技術の限界について語る意味があると考えられる。

(バベルの塔 – Wikipedia)

 のこと。というわけだからテーマはディスコミュニケーションと格差。とにかく話が通じない。全ての登場人物と全ての登場人物の間で話が通じない話ばかり。

 モロッコ・日本・アメリカ・メキシコの4地域を舞台に、モロッコ人一家、アメリカ人夫婦、夫婦の子供たちと子守のメキシコ人のおばちゃん、日本の聾唖の女子高生とその父親あたりの主要人物たちの数日間が淡々と描かれる。

 全部が一丁のライフル銃で繋がってはいるわけだが、宣伝と違って別にこの銃を巡って思いも寄らない展開に進んでいくということはない。

 がっかりしたという人も多いみたいだが、本当は世界中が因果で1つに結びついているはずなのに現実はあまりにもバラバラだということを描きたい映画なのだから、これは宣伝の方法が間違っているんだろう。

 ただし日本編は話題になったポケモン光線がかなり強烈な上、なんという思考回路この女子高生は間違いなく色情狂みたいなストーリーなので間違ってカップルや家族連れで見てしまった人は気まずいことこの上なかっただろう。全体としてはかなり面白かった。

おまけ

 まあ世界の言語が多様なおかげでこんな空耳ソングを楽しめもするわけだ。感謝感謝。(下ネタ全開注意!!)

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2007 2/18

墨攻

 「墨攻」とはもちろん大量の墨汁を敵の城に流し込んで服や書物を台無しにして戦意をくじく計略……ではなくて、「墨守」もじった原作小説のタイトル。

 どこかのサイトで「矢一本で敵軍を追い返し……」とかなんとかいうのを憶えていたので同じ中国映画の『英雄』とか『LOVERS』みたいなハチャメチャアクションで脳味噌カラッポでスッキリー!!

 な感じを期待して見に行ったら、いろんな意味で全然違って結構真面目で意表をつかれた。後で調べたらどうやら原作は日本の小説らしい。さもありなん。

 まあ一言で言えばコーエーの世界。三国志とか信長の野望で普通にプレイするのに飽きて、わざと領土を広げず一国一城だけで残りの全土を擁する敵勢力相手に何年粘れるか!?

 なんてヘンテコなルールとシチュエーションを勝手に設定して遊んだような経験のある人なら(私はある)ツボにハマるのではないだろうか。

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2004 1/6

 誰が言い出したのか知らないが『勝ち組』という言葉が嫌いだ。『負け組』はわかる。上の立場から十把一絡げにして見下すにも、同じ立場から傷を舐めあうにも便利でいい言葉だ。だが『勝ち組』というのはわからない。

 勝っているという自信があるなら自分(あるいは我が社・我が国)は『勝者』だと言えばいいではないか。勝っている時にまで群れて安心したいという群衆心理を露骨に感じてしまって嫌なのである。もっとも、それだからこそ人気のある言葉たりえているのだろうが。

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