2008 7/24

ドラゴンクエスト―ダイの大冒険 (33) (ジャンプ・コミックス)

「地獄の劫火」

 「だって正義のために死んでもらっているわけでしょ。他人を無残に殺して生き延びていてはいけない、というのが日本の法律であり、世論だ」。熱弁は続く。「遺族は極刑を望んでいる。大部分は1日も早い死刑執行を願っている。一生忘れることのできない傷であっても、正義の実現により、墓前に報告できる。うちの家族を殺したから報いを受けたんだよ、と。そういう気持ちになろうとしているときに、死に神が連れて行ったと言われたら、どう思うか

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 再び鳩山法相に戻って、さてどう思う? 「報復感情(・A・)イクナイ!」? はいはい、よくできました、えらいえらい。でも私が目を向けたいのはそこじゃなくて、今あなたが当たり前だと思ってスルーしてしまったところだ。この台詞は「死に神に連れて行かれると、報いを受けたことにはならない」という前提が自明のものとしてあらかじめ共有されていなければ、そもそも意味を成さないということに着目してほしい。

 死に神は今風に言えばゾンビみたいなもので(そういや黄泉の国のイザナミは見た目もゾンビだな)、近づく人間を襲って喰らったり感染したりするが、そこには「死とはそういうものだから」以上の理屈はない。何か理論や根拠があって、たとえば罰を与えようと思ってそうするわけではない。たとえ法相と違って死刑反対派であっても日本人はこの前提を共有できる。だからスルーした。

 だがしかし、それはちっとも当たり前のことではない。全く当たり前のことではないのだ。死神に連れていかれた者は、そうではない。死神に連れて行かれた者には、報いがある。それも、必ず。全知全能のGODが主宰する最後の審判だ。そこで全ての人間は善人と悪人に分けられる。善人は永遠の命を与えられ、悪人は永劫に地獄の火に焼かれる。

 もちろん日本にも地獄はある。しかし、日本の地獄は全然ぬるい。あくまで次の生まれ変わりまでの一時的な反省のための場所に過ぎない。所詮六道の1つで、人間界や天界とすら、変わらないとまでは言わないが、併置されうる程度の存在だ。*1

 これは一神教の地獄とは全く違う。現実の刑罰にたとえるなら、「市中引き回しの上打ち首獄門」と「自宅謹慎一週間」ぐらいの天地の差がある。おまけにヒンドゥー教のように功徳を積めば来世で高いカーストに、罪を重ねれば低いカーストに生まれるというような決まりすらない。「死ねばみな仏」であり生前の善悪は全て「水に流される」

 このような宗教感覚を前提とする日本文化では、凶悪犯罪者が刑務所で天寿を全うすればその罪は宇宙のいつどこでも償われず「殺り得」ということになってしまう。避けられない結論である。しかし、逆に言えば別の宗教感覚では避けうるかもしれないということだ。

 一神教文化における、殺人者に対する現世での寛容は、その犯罪者が無実でなく悔い改めもしていないなら、死後必ずや全知全能の神によって正しく裁かれ永劫に地獄の火で焼かれるのだという確信と表裏一体である。

 死刑があれば死刑となるべき凶悪犯罪者を、税金を使って一生刑務所で養い、衣食住になんの不自由もなく安楽に生活させて天寿を全うさせてやることをさしたる葛藤なく*2許容できる、EUの死刑廃止国の国民は、家族を殺されても少しも恨みに思わない仏様のような人間ばかりというわけではないのだ。*3

 これはまさしく妄想ではない宗教の御利益と言っていいところだろう。たとえば国家が死刑囚にガソリンをかけて焼き殺したらそれは「残酷な刑罰」とされ、許されないだろう。当たり前である。しかし神ならもっと残酷でも許される。なぜなら神だから。

 「個人よりも国家よりも当然道徳的であるべき神が国家より残酷な刑罰を加えても非難されないのは矛盾ではないか?」と、ドーキンスの兄貴のようなガチガチの無神論者なら言うかもしれない。(うろおぼえだが『神は妄想である』でそれに近いことを言っていた気がする。)

 しかし、兄貴が知らないか、たぶん知っていても不都合だから言わないことは、(無茶を承知で思いっきり要約すれば)そもそも一神教というのは社会のあらゆる矛盾をGODという無限遠の一点に集中させて一括管理する仕組みであり、神は矛盾してこそ価値があるのだということだ。矛盾していない神はゴミのないゴミ処理場と同じぐらい存在意義がない。

 私は今日の日本で復讐感情が野放しになっていることは、単純に日本の宗教者の怠慢であるとしか思っていない。坊主は何をしている? 坊主で連想してググったら「日本の政党で死刑制度廃止を公言しているのは公明党だけである。」らしい。曲がりなりにも仏教政党なだけのことはあるか、とちょっとだけ見直した。

 鳩山家の宗教は神道だ。だが、大臣は真言密教の鹿児島最福寺の総代でもある。居間には池口恵観大阿闍梨から贈られた不動明王の像が鎮座していた。「不動明王は地獄に落ちた人を救うそうです。執行した後は不動明王にお参りしてます」という。大臣は、ひょっとして地獄に落ちるかも、と怖いのだろうか。

 「失礼だな、私自身は地獄に落ちるとは全然思っていない。死刑囚は天国に行かず地獄に落ちるだろうから(死刑囚を)導いてくれ、ということだ」とむっとした。

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 さて翻ってまた鳩山法相。今回日本の多くの死刑反対論者は鳩山発言をひたすら嘲笑している。確かに法相は私から見ても笑われても仕方ないと思うが、この部分は本気でEU並の死刑全廃を目指しているなら、別に賛成しなくても、少なくとも

そりゃないな、と思ったのがこれ。(中略)そうか、死刑囚は地獄に落ちるのか。

(鳩山法相の死生観 – 週刊日記)

 みたいに鼻で笑って済ますことなど絶対にできんはずなのだ。やはりジレンマは深刻だ。ちっとやそっとで解消できるねじれではないのである。(つづく)

*1:ちなみに対置されるのは解脱。
*2:少なくとも死刑復活を主張したくならないぐらいには。
*3:そうだったら話は簡単で私は楽なのだが。

おまけ

 ┗(^o^ )┓三 公明党というとこれしか選択肢が……。

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2008 7/23

BLEACH (1)

 前回で日本の死刑の完成型を見たので、今度は死刑廃止の完成型を見てみようか。

 私を含む大概の死刑廃止論者がロールモデルと考えているのは、すでに死刑を全廃しているEUだが、さすがと言おうか、以下の文章は死刑反対の論理をうまく要約していると言ってよい。

欧州連合は世界中で死刑制度が廃止されることを求めています

欧州連合(EU)は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人に当てはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。

このように、死刑は最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利を侵害する極めて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのです。

人権的観点からの理由に加えて、死刑には無実の人の生命を奪ってしまう危険が内包されています。私たちの住む世界は不完全だからです。人間は間違いを犯すものです。裁判の当事者である検察官や裁判官、陪審員であっても、既決囚を赦免することのできる政治家であっても、絶対に間違いを犯さないという保証はありません。にもかかわらず、死刑はいったん執行されれば取り返しがつきません。屍を無罪とし、生還させることはできないのです。

(欧州連合 – EUと死刑)

 私のような死刑廃止論者は皆このような哲学を正しいと信じている……わけねーだろが! 日本人はたとえ死刑全廃に賛成する論者であっても、このような哲学を誰も本当に(一神教文化の基準で)は信じていない。もちろん私もだ。信じているという人は、十中八九なんとなく信じているような気になっているだけだ。

 ここを誤魔化したままでは日本の死刑廃止議論は絶対に今より先へは進めない。それを自覚した上で「ではどうするのか」を考えるのが、いま必要とされていることだ。このEUの文書は後でまた戻ってきて詳細に取り上げるので、その時までによ〜く読み込んでおいてね。強調したところを参考に、とりわけ行間を。

「気の毒な神?」

 死神と死に神がいかに異なった存在であるか実例で見よう。まず死刑賛成派の産経新聞の記事の一部。

 話は飛躍しますが、人類で最初に生まれ、同時に最初に死んだ人の名を「ヤマ」といいます。インドの神話によれば、ヤマは死者の国(天界)への道を最初に見つけたことによって天界の王となります。が、時代が下るとヤマは、かわいそうなことに「死に神」とみられるようになりますが、一方ではヤマは、死者の生前の行為を審判する思想とも結びついていきます。

(【語誌ップ拾遺帳】死に神 7月12日15時46分配信 産経新聞)

 飛躍しすぎだろというのはひとまず置いて、これに対して、「死神」とみられるようになったヤマはかわいそうなの?閻魔さまは死に神とは違うの? というコメントがなされていて、その人はキリスト教徒だというのは大変示唆的であると思う。

 一神教文化に属する人間から見ると、ここには産経が痛いとか馬鹿とかいう以前の問題がある。死神は「かわいそう」ではありえない。死神はGODの一側面であり、唯一神が「かわいそう」だというのはまったくもって意味不明である。

 だが、日本文化に属する人間にとってこの部分は、別に賛成しなくても興味がなくても、少なくとも意味不明ではない。ちょっと考えればすぐわかる。ヤマは死の穢れを司る役を押しつけられて死に神にされたから「かわいそう」なのだ。「死神」が「かわいそう」でありうるのは日本文化的・多神教的な前提下においてのみである。

 今度は死刑反対派としてよく見るブログのエントリ。

 その一方で、法を守り、国民に期待され、ストレスに耐えて命令に従い、死刑に関わる業務を遂行する人たちがいる。彼らは(こういう言い方はしたくないが)死神の道具だ。

 私は命令に従い死刑に関わる業務を遂行している人たちを批判しない。むしろ気の毒に思っている。私なら(戦争でも起きればともかく平時に)「意図的に確実に人の命を絶つ」仕事はできない。社会のため、正義のためと信じて辛い仕事をしている人は立派である。

(死神の力 – 玄倉川の岸辺)

 一神教的な文化における死刑存廃議論において、賛成・反対に関わらず「執行者が気の毒だ」という意見はありえない。

 神の名の下に死刑の執行を許すなら、命令を下す大臣も手を下す執行者も神の代理人であるから、当然「気の毒」などではない。神の名の下に死刑の執行を禁ずるなら、命令を下す大臣も手を下す執行者も、神を僭称する輩であるから、たとえば「許されざる殺人者」などではではありえても、やはり「気の毒」ではありえない。

 死刑執行者が「気の毒」でありうるのは、人々の穢れを押しつけられ、あたかも存在しないかのごとく振る舞わなければならないことを自明の前提とする、日本文化においてのみである。

 執行者が「気の毒」であることを認める日本の死刑反対派は、賛成派の鳩山法相や産経新聞と、死刑の是非という論点ではもちろん対立するけれども、文化的前提は共有している。蝸牛角上の争いとまでは言わないが、より大きな視点では同じ側にいる人間である。

 そろそろジレンマの深刻さを実感してもらえるだろうか。そう、困ったことにこの「より大きな視点」で正反対側にいるのが、まさしく冒頭でEUが示しているような死刑全廃を支える一神教的倫理なのだ。(つづく)

おまけ

 東方続きだけど閻魔がかわいそうというとこれしか選択肢が……。

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2008 7/21

DEATH NOTE デスノート(1)

 永世名人 羽生新名人。勝利
目前、極限までの緊張と集中力
からか、駒を持つ手が震え出す
凄み。またの名、将棋の神様。
  × ×
 永世死刑執行人 鳩山法相。
「自信と責任」に胸を張り、2
カ月間隔でゴーサイン出して新
記録達成。またの名、死に神。
  × ×
 永世官製談合人 品川局長。
官僚の、税金による、天下りの
ためのを繰り返して出世栄達。
またの名、国民軽侮の疫病神。

(6/18 朝日新聞 素粒子)

「全知全能の死神」

(Wikipediaより)

 この朝日新聞の死神コラムは四方八方で議論を巻き起こしはしたが、大概はめいめいが自分の解釈を一方的に開陳するだけで、ほとんど実がない。そうなる最大の原因は「死神」とは何であるかについての見解が、話者ごとにてんでバラバラで、全く一致を見ないことである。

 一致を見ないのも当然だ。そもそも死神は日本には存在しない概念である。厳密に言えば日本の死神はイザナミだが、よもや死神コラムの「死に神」がイザナミのことだという前提でしゃべっている者は1人もおるまいし、古典落語の死神もまた、明治期以後に輸入されたネタに過ぎず、宗教的存在とは言いがたい。

 つまり死神概念は西欧のものだ……と思ったらはい残念、それも違う。意外と思うかもしれないが、西欧には死神は「いない」

こうした一般的に想像される禍々しい死神の姿は 一種のアレゴリーであり、死を擬人化したものである。神話や宗教・作品によってその姿は大きく変わる。時には白骨とは違った趣向の不気味なデザインとなる事もある。

(中略)

キリスト教などの一神教においては神は唯一神以外になく、実際に死をつかさどるのは天使である。このためキリスト教では「死神」は存在せず、代わりに「悪魔」が存在する。また、直接死神とは書かれていないが、黙示録において「第4の封印」を開けた時、「剣と飢餓を持って蒼ざめた馬に乗った”死”という者」がやって来ると記載されている。この者が神によって遣わされているという点は特筆すべきである。

(死神 – Wikipedia)

 わかるか? 欧米一神教的文化においては、実際に「いる」のは、全宇宙の創造主であり、最後の審判の主宰者であり、イエスや聖霊と三位一体であり、アルファでありオメガである、全知全能の父なる神、唯一神YHWH、いわゆるGODのみだ。

 あらゆる超自然・あらゆる超理性・あらゆる神秘の存在は、GODに連なるものあり、仮にそうでない超自然の存在があったとしたら、たとえどんなに神秘的であっても(むしろあればあるほど)それは幻であり、人々を正しい信仰から遠ざける邪教である。

 つまり大鎌を持ったローブに白骨の死神は単なる絵的な「たとえ」だ。そんなものはいない。後頭部がハゲてるチャンスの女神がヤハウェの隣に侍っていたりしないのと同じだ。万が一、本気で「いる」と思っているやつがいたら異端者であり、火焙りだ。

 さて『素粒子』の「死に神」がGODのことだ、もしくはその遣いである天使のことだ、という前提で議論している人はいるか? イザナミだという前提で議論している人がいないのと同様、誰もいないはずだ。今回「死神」についての議論を戦わせた日本人たちは、世界中どこにもいない「死神」がどんな存在であるかについて議論していたわけだ。

「死の穢れの神」

 元々どこにもいない「死神」についてのイメージが、てんでバラバラになるのは当然である。しかし、全員が濃淡はあれど日本文化を共有している以上、バラバラである中にも最大公約数があり、それは日本文化に沿った独自の死神概念とならざるをえない。どこからともなく現れて、人間をどこへともなく連れ去り獲って喰らう、死の穢れの神としての「死に神」*1である。

 鳩山法相・死に神コラムを書いた朝日の記者・コラムに抗議したあすの会・死刑反対派・死刑賛成派、それぞれ立場も思惑も違えど、ほとんど全ての日本人にとっての「死神」は、死神ではなく(GODでもアズラーイールでもなく、自覚はなくともまだしもイザナミの方に近い)この死に神の方だ。

 さて、死に神コラムを受けた鳩山法相はまずどう反応したか。

 「批判、中傷は慣れとる」。だから「死に神」と書かれたときの最初の反応は「ふーん、よく言うわ」だった。だが「待てよ、これはいかんわ、絶対いかん」と思い直したという。

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))(太線強調は私による。以後も同様。)

 鳩山法相は自他共に認める非常に日本文化的な人間だ。もともと日本にない概念である「死神」という言葉をぶつけられた時、「死」という字面から何となくマイナスイメージで、批判されているんだなというぐらいはわかったものの、最初はよく意味がわからなかった。

 しかし、鳩山法相も現代日本人であるので、やはり“穢れ”概念に慣れ親しむと同時に、それを良くないと考えるような教育を受けている。少し考えた結果、素粒子が言っているのは死神ではなく死に神であるということを、(私の考えでは正しく)洞察した。だからこうなる。

「(死刑囚にも)人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。彼らは死に神に連れて行かれたのか」とマイクが置かれた台をたたいて声を荒らげた。

 さらに「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあると思う。軽率な文章が世の中を悪くしていると思う」と語った。

(「死に神」表現に猛抗議 死刑執行で鳩山法相)

 ここで元のコラムに出てこない「執行された人への侮辱」を持ち出していることを「自分が堂々と批判を受けるフリをしながら、実際にはより弱い立場の人間を盾にして自分への批判をかわそうとしている」とだけ(もちろんその要素はある)解釈するのはよくない。

 日本文化における矛盾、この場合の死の穢れの片づけ方は「他人に押しつけてその人間を差別し、自分は関係ないと見て見ぬふりをする」ことだと最初に言ったが、この場合の他人というのは当然、より目下の弱い立場の人間になる。

 つまり主権者である民草が、公僕である大臣に穢れを押しつけ、大臣が部下である刑務官に穢れを押しつける。殺人者の死刑という、穢れ中の穢れの発生源に直接手を触れざるをえない末端の刑務官が全てをひっかぶり、民草は死刑など存在しないかのごとくそれを見て見ぬふりをすることで、全てが丸く収まる。これが日本文化的現代版死刑の完成系だ。

 だから死に神コラムによって、自分が民草から穢れを押しつけられて差別されているということに気づいた法相は、同時に自分は刑務官にその穢れを押しつけて差別しなければならないと気づいた。法相の心の内なる伝統文化はそうせよと教える。だが、外からの教育の命じるところによればそのような穢れの押し付け合いは、してはならない悪いことだ。

 誰も言ってない「執行された人への侮辱」を自分で持ち出しておいて、自分でそれを非難するというマッチポンプ的な混乱した言動に見えるけれども、法相の発言は現代日本の抱えるジレンマをわりと率直に表明しているのだ。(つづく)

*1:今後欧米文化的”Death”の訳語として「死神」を使い、日本文化的独自解釈の死の穢れの神を「死に神」として使い分けることにする。

おまけ

 三途の川の渡し守である小野塚小町が大鎌持ってるのは東西イメージのちゃんぽんなわけですな。

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