2011 2/19

(本文とは無関係)

 将来書こうと思っているテーマだったのだが、何年後になるかわからないので、概略だけでも先に書いておこうと思う。

 ほぼ以前Twitterでつぶやいたものを清書したのみである。

 過去の漢字廃止論の経緯などには全く関心がないため、ここで言う「ひらがなすいしょう論」は「漢字廃止論」と必ずしも同一ではなく、

  • 現在ネット上で広まっている漢字を廃止ないしは減少させてひらがなで日本語を表記すべきという主張

 ぐらいの意味と考えてもらいたい。たとえば今すぐ思い当たる範囲では、あべ・やすしさん等の。

 結論から先に言うと、私はこの主張をしている人達の善意を疑うことはないが、絶対うまくいかないだろうから止めてほしいと思っている。

 それは、仮に共産主義者が真剣に経済の平等と人々の幸福を願っていたとしても、現代において共産主義を支持するわけにはいかないのと同じことだ。

 共産主義との類似性を言うのは単なるネガティブキャンペーンではない。この概略では大幅に省略せざるを得ないが、本当のテーマは、

 という20世紀を代表する誤りの共通性の話だ。

 この三つに共通する誤りとは何かというと、あらかじめ決まっている正しい状態、別の言い方をすれば「答え」がどこかに存在し、正しいステップを踏むことによってそこにたどり着けるのだという発想だ。

 たとえば、共産主義では「正しいパンの価格」というものが存在する。それが実際に100円であるかそれとも200円であるかとか、現実的にそれがそうと確かめらるかどうか、といったこととは関係なく、それは確かに実在するのだ。

 これと同様に、ひらか゛なすいしょう論の考え方では、「正しい言葉」というものが存在する。その正しさの根拠がたとえ何であれ、たとえば「社会的弱者にも使いやすいようにするため」だとか、どんな素晴らしいあるいは素晴らしくない理由を考えていたとしてもとりあえず関係ない。

 とにかく「正しい言葉」――あるいは少なくとも今より正しい言葉――というものが存在すると思っている。そして現在の言葉が「正しくない」理由は、何か(自分たち以外の)人間が馬鹿だったり、邪悪だったりするからだと思っている。

 だがこうした前提は間違っている。最も重大な間違いは、言葉を意味を正確に伝達するための道具だと思っていることだ。「えっ違うの!?」と思うだろうが、全然違うのだ。

 一見ちょっと関係ない話をしよう。私が子供の頃に読んだSF小説*1 で、スパイだか超能力者だかが、すごい訓練をして、ちょっとの言葉でものすごく沢山の意味を正確に伝達できる「超高速言語」とやらを身につける、というくだりがあった。

 これ、どうしてSFなんだろうね?

 むしろ、それが当然になっていないとおかしいのではないのか? どうして人間の言語は、ひらがなすいしょうの人たちが主張するみたいに、それどころかもっと極端にこのSFみたいに、単純明快で効率よくなっていないのだろう?

 言語が意味内容を正確に伝えてマンモス猟を成功させるためのものだったら、厳しい自然選択の力によって、とっくにそうなっていないといけないはずではないか? 現実の言語の方がよっぽどSF的な存在ではないのか?

 現実に存在する偉大な詩や小説、それらを創ることができるような人間の能力は、いったいどうやって進化できた? これは怪現象としか言いようがないことだ。

 進化論の共同発見者として有名なアルフレッド・ラッセル・ウォレスのような人さえもこの問題には降参して、ついに人間の精神だけは進化によっては説明できず、神によって導かれたものだと考えるようになった。

 彼がそうしたのも無理もないことだ。実は、言語の進化については、今に至るまで中学高校の教科書に載せられるような定説は存在しないのだ。どうにかこうにか説明がつくと思われるようになってきたのさえ本当に最近のことなのだ。

 だから、残念ながらこれから何を言うにしても教科書嫁終了というわけにはいかないのだが、少なくとも、たとえば仮に未来から振り返った時、最終的に正しい説明の一部分として生き残っているであろう重要な指摘は、

  • 言語能力は人間の性淘汰上の適応指標形質として働いている

 ということだ。

 これは、言われてみれば全く当たり前のことだ。あなたはお見合いに臨んでいるとしよう。その人と一生添い遂げねばならないとする。子供が欲しかったら子作りもその人としなければならないとする。以下のうち誰を選ぶ?

  1. 美形で言葉が巧みだけど一文無しの人
  2. 金持ちで言葉が巧みだけど二目と見れぬ不細工
  3. 金持ちで美形だけど言葉が話せない*2

 これだけの想像でも、ほとんどの人が重要だということに同意するであろう経済力や外見に比べても、勝るとも劣らないぐらいに言語が重要だということは明らかだ。

 世界一モテる人間は世界一の金持ちビル・ゲイツでも世界一の権力を持つアメリカ大統領でもなく、一流のスポーツ選手や歌手だ。スポーツ選手がモテるのは当然として、言語や音楽を操るのがうまい人がなぜモテるのか?

 当然のことの確認から始めよう。スポーツが得意な人がモテるのは、言い換えれば、スポーツができる人を好ましいと思う性質が人間に進化してきたのは、それがダーウィン的な意味で優れていることを示す正確な信号だからだ。

 より早く走ったり、より正確に動いたり、より重い物を持ち上げたりといったことは、肉体的に本当に優れていないとできないことだからだ。そのような日常的な観点からは不当に大きなコストを負担できるということが、嘘やハッタリではなく実際に優れているということを証明することになる。

 そろそろ勘がいい人は、次にどういう話になるかわかるだろう。この観点では、言語を操ることはいわば精神のスポーツであり、現実に存在するすばらしい小説や詩や歌などは、いわば脳のオリンピック競技なのだ。

 これ以上詳しい説明は省略するが、この性淘汰の再評価によって、従来説明がつかなかった人間の能力、特に言語は、孔雀の羽が実在することが不思議でもなんでもないぐらいには、不思議でないものになってきた。

 重要な概念は【コスト】だ。日常生活より楽なことをやっていては、それはスポーツにならず意味がないように、負担がかかることこそが重要なのだ。

 言語が意味内容を伝えるためのものだと考えている時には、当然コストは少ない方がよいということになる。言語はできるだけ簡単でわかりやすいほうがよい。そう、ちょうど狩りや共同作業に必要十分なくらいに。

 しかし、コスト自体が重要だという観点からは、全く違う結論が出てくる。つまり、言語をもっと簡単でわかりやすく、誰でも使えるものにしようということは、言語がそもそも生まれ今のようなものになった原因でもある最も重要な機能を台無しにしてしまえという主張になるのだ。

 これもまた、言われてみれば当たり前のところがある。

 超有名な不朽の名作、ジョージ・オーウェル1984年』で、ニュースピークというものが出てくる。説明は省くが要するに、極端に簡略化された英語だ。エスペラント語を参考にしたのではないかとされている。

 ニュースピークがなぜこれ程までに人間性に対する冒涜と感じられるのか? 素晴らしい効率性と単純性に美しさを感じてウットリとなってもいいはずではないか? なぜそうではないのか?

 なぜ、この感覚が英語を母語としない人にまで広く共有されうるのか? 英語話者のみがそう感じるのであれば、たとえば「自分たちと違う言葉を話す人に対する警戒感」など従来から認識されている理由だけで説明がつけられるかもしれないが、明らかにそうではない。

 私が初めて『1984年』を読んだ時、それが不思議で不思議で仕方なかったが、今はもう不思議とは思わない。そもそも、それが当たり前だったのだ。おそらく何十万年も前からずっと。

 たとえネアンデルタール人であれ、クロマニヨン人であれ、北京原人であれ、人類が簡単すぎる言語にアンチヒューマニズムを感じなかったことなど、おそらく一度もないのだ。

 コスト。途方もなく複雑で絶えず変化する言語を流暢に操るという活動にかかる途轍もなく無駄なコストが、優れた者あるいは自分たちの仲間を見分け、劣った者あるいはよそ者を排除する、という機能を実現可能にしている。

 つまり、意外と思う人もいるかも知れないが「言語の難しさが、差別や排除に繋がっている」という一部のひらか゛なすいしょう論者の発想は、実は的外れではない。めちゃくちゃ正しい。

 むしろ、問題はそれが正しすぎるということだと言ってもよい。そう正しすぎる。言語は元々そのためのものなのだ。*3

 つまり、ひらか゛なすいしょう論の主張は、肉体的なことに置き換えれば、

  • みんな! スポーツなんて無駄なことは廃止して代わりに鍬を振るうようにすれば、腹も減らず怪我もしないし、余分の食料も増えてみんなハッピーだよ!

 と言っているようなものだということだ。

 当たり前だが、その主張がいかにもっともらしくとも、一夜にして人々がスポーツに魅力を感じなくなったりしない。突然スポーツ選手がモテなくなったりしないし、イチローがバットを鍬に持ち替えたりもしない。

 仮にみんながみんな本当にそうすればハッピーかもしれないが、無論その仮定が成り立つことはない。仮にみんながみんな私利私欲を持たず公平に働けば共産主義だってうまくいくかもしれないが、現実には成り立たないのと同じことだ。

 ファミコン直撃世代の私は、ひらがなが読みにくいというひらか゛なすいしょう論に対してよくなされている反論には全く同意しない。当然のことながら、慣れたらむしろ読みやすいだろう。

 現在ネットでひらか゛なすいしょう論が多少なりとも追随者を産む程人気がある(≒格好いい)のは、まさにそれが、ほとんど誰もやってない珍しい(≒書くにも読むにもコストのかかる)ことだからだ。多くの人がするようになり、慣れてしまったら、それは誰でもより簡単にできることに過ぎなくなってしまう。

 おそらく現在ひらか゛なすいしょう論者は「ひらがなが読みにくい」と言ってくる人々を憎んでいるだろうが、そう言ってくれる人がいなくなったらおしまいなのだと思えば、もう少し仲良くできるのではないだろうか。

 大勢がやるようになっても人気を保とうとするならば、もちろん漢字も見事に使い最高に複雑で優雅で難しい表現で主張するしかないだろう。しかし、それはもちろん、もはやひらか゛なすいしょう論ではない。

 結局自己否定的なのだ。

 エドワード・オズボーン・ウィルソンは何かの本で「マルクスは理論を適用する種を間違えたのだ」*4というようなことを言っていた。

 人間性がおそらく数十万年・数百万年かけて形成されたもので一夜どころか一世代でも到底変化させられないものである以上、このジレンマを逃れて自発的に受け入れさせる方法は私には思いつかない。人類を滅亡させるほうがまだ簡単だろう。

 無理にでも受け入れさせたかったら強権をもってするしかない。それこそ本当に『1984年』のように。それを真剣に望む人はいないと思いたい。

 差別や排除に対する問題意識から主張している、私の考えるレベルの高いひらか゛なすいしょう論者の方々に言いたいのは「あなたを尊敬するが、だからこそその望みのない道にリソースを割くのはやめて、他を当たってほしい」というものだ。

 逆にレベルの低いひらか゛なすいしょう論者には、「自分が魅力を感じないもの・自分が理解できないものは、この世からなくしてしまった方が世のため人のためだ」という最も危険なタイプの正当化の誘惑に弱い人が混じっているように見える。

 最低なのは単に「合法的」に表現できる唯一の対中エスノセントリズム(自文化中心主義)として漢字廃止を主張し、「やまとことばはうつくしいでしょう?」とかなんとか言ってる奴。

 こうしたレベルの低い人々に対する反論は、ここでわざわざするまでもないと思う。

 本来この数十倍・数百倍の字数が必要な話なので、納得いかないことも多いと思うが、そもそも今この問題に割くリソースがないということがこの概略を書いた動機なので、質問にもよほど面白いor有益と思うものでなければ答えられない。

 代わりと言っては何だが、重要な参考文献をいくつかあげておくので、興味がある人はまずそれらに当たってもらいたい。この問題とは関係なくおすすめできるものばかりである。

*1:後で調べたらロバート・A・ハインライン『超能力部隊』だった。
*2:たかだかここ数千年・数百年の発明に過ぎない手話や筆談は存在しないものとする。
*3:もちろんそのためだけのものではないが。
*4:アリなら共産主義がうまくいっただろうという意味。

参考文献

おまけ

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2010 11/22

(本文とは無関係)

 いつの間にか応募が始まっているようだけど、今年はもう「流」で決まりではないだろうか。

  • 新型インフルエンザ(行性感冒)の
  • メキシコ湾の石油出事故
  • 口蹄疫の
  • 探査機はやぶさがれ星になる
  • テロ捜査情報や尖閣映像が出する
  • 火山噴火で火山灰や溶岩がれる
  • 津波被害で押しされる人々
  • ソーシャルゲーム
  • Twitterでデマ(言蜚語)がれる

 どこからどう見ても決まりっしょ。これしかない感じ。

 ちなみに、来年のことを言うと鬼が笑うコンテスト略して鬼コン2010で「流」と予想した人は、当たり前だけどいないな。

おまけ

 マイケル死去……はもう去年か。

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2009 12/12

(本文とは無関係)

 いきなりブリキのさんが的中させるという番狂わせ(?)がありましたが、面白かったので今年もやります。

 ルールは超簡単。2010年12月12日に発表される今年の漢字を予想して下さい。

  • ここのコメント欄に書いて下さい。
  • 有効期間は2009年12月12日から12月31日までです。
  • 同じ字を選んだ場合は早いもん勝ち。先の人だけ有効です。別の字を選んで応募し直すのはありです。
  • 見事的中した人には……何も出ませんが神扱いします。
  • よってたかって予想して全員外れたら……鬼の勝ちです。笑われましょう。
  • 飽きるまで毎年やろうかと思います。

 ちなみにWikipediaより歴代一覧。同じ漢字は選ばれないという規則はあるのか知りませんが、当分はないでしょう。

年代 漢字
1995年 震(シン・ふる-える)
1996年 食(ショク・た-べる)
1997年 倒(トウ・たお-れる)
1998年 毒(ドク)
1999年 末(マツ・すえ)
2000年 金(キン・かね)
2001年 戦(セン・たたか-う・いくさ)
2002年 帰(キ・かえ-る)
2003年 虎(コ・とら)
2004年 災(サイ・わざわ-い)
2005年 愛(アイ・いと-しい)
2006年 命(メイ・いのち)
2007年 偽(ギ・いつわ-る・にせ)
2008年 変(ヘン・か-わる)
2009年 新(シン・あたら-しい・あら-た)

おまけ

 鬼と笑いつながり。

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2006 9/28

「超」整理法―情報検索と発想の新システム (中公新書)

 あまりにも有名なので、読んでいないにも関わらず超整理法そのものは知っており、すでに実践もしているのだが、やはり一度は原典に当たってみようと読んでみたら、当時(93年初版)のパソコン事情などがかいま見えて思った以上に面白かった。

 超整理法の要点は簡単で“分類などせずに最近使ったものから順に時間軸で一直線に並べればなくすこともなく合理的な時間で検索できる”というものだ。

 今では多くのソフトで「最近使ったファイル」という機能があるので、物心ついた頃からそれに慣れ親しんでいる人は、それを「整理法」だと意識することすらないのではないだろうか? 大げさかもしれないが一種のパラダイムシフトを見る思いがする。

 他にも情報を捨てずにパソコンで情報を全検索できることの利点について考察していたりして、物心ついた頃からgmailを当たり前に使うようなもっと先の世代が読むとどう感じるのか興味がある。本筋とは関係ないが、最後の章のこの部分、

 漢字は、東洋文化圏に課された大きな桎梏と考えられてきた。漢字の学習のために貴重な勉学時間を裂かねばならぬだけでなく、(中略)また漢字ではタイプライターの利用が困難だから、日本語の表記をかな文字化しようという論者さえいた。
 しかし、漢字かな混じりの文章は、キーワードが漢字になっているためすぐ分かるという点で、きわめて優れた側面を持っている。(中略)ワードプロセッサの普及によって、後者のメリットが前者のデメリットを凌駕するようになった。二十一世紀においては、日本語や韓国語こそ、もっとも効率的な表記体系と見なされるだろう。
 (中略)だれもがワードプロセッサを使うことを前提とすれば、漢字を読むことと書くことを同等に教えるのではなく、前者に比重を移すべきだろう。

 私も全く同じ事を考えたことがある。日本語や韓国語の表記体系が優れているかはまあいい。個人的には予見しうる未来においてIMEはより進歩し、速読の必要性は減らないであろうから、たぶんそう言えそうだと思うが、だからといってどうなるものでもない。

 ただ漢字教育の比重を書きより読みに移すべきというのはほとんど自明だと思うが、そんな話は聞いたことがない。実際どうなっているのか気になる。

おまけ

 せいり違い、というかZUN素の人は病気すぐる。(セクハラ注意!)

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