2007 6/11

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 えっ、何それ三国志オンライン? としか思えない私がいる。てか普通に「炎上」でいいじゃん。

 このエントリ見てたらなんか思い出したので例によって『表現の自由を脅すもの』からの引用を二箇所ほど。

 それでは、人を傷つける意見の規制はどのように正当化されるだろうか。(中略)その論理を辿れば、これらの議論は皆、同じ結論に回帰する。つまりそれは、勝手な批判(従って自由科学)が危険ないし有害であるから、正しい考えの人達によって規制されなければならないというものである。
何故頑迷な意見を許しておくのか。」(中略)一体誰が、どの言論は〈頑迷〉であり、どの議論は単に〈批判的〉であるのかを決めてよいのかという重要な問題に行き着かざるを得ない。(中略)何故それが、人気のない意見であるというより、〈頑迷な〉提言ということになるのか。その違いは何か。そして誰が発言するのか。
 頑迷な意見に対する反対派の人々は、問題に対して真っ正面からぶつかることを決してしない。何故ならそうすると自分達の正体がばれるからである。我々、つまり正しい考え方をするものが、誰が頑迷であるか、ないかについて発言するものであるというのがその答えである。
 誰かが、頑迷な、あるいは気に障る、あるいは被害を与える、あるいは抑圧的な、あるいは邪悪な意見は、禁止されるべきであると言うとき、実際に彼が言っていることは、「私の憎悪する意見は禁止されるべきである」というに尽きる。別の言葉で言えば、彼は、プラトンが哲学者(すなわち彼)が社会の幸福のために支配するべきであると主張したときにやったことと同じ事をやっているに過ぎないのである。彼は力ずくでひったくろうとしている。彼は、法王、アヤトラ、哲人王になりたがっているのである。
「何故憎悪に満ちた、あるいは誤った意見を許容するのか」という質問に対する答えは、プラトンが彼の空恐ろしいユートピアを開陳して以来ずっと同じである。別のやり方はもっと悪いから、というわけである。
我々は、批判や吟味、正しい憎悪や脅しを押し止めようと欲するものではない。」ところで何時も困ることといえば、ある人の憎悪に満ちた発言は、別の人の真摯な批判であるということである(「ホロコーストはイスラエルの捏造である」)。そうなると、誰が線を引くべきか。

規制しなければ、悪しき批判は良い批判を駆逐するであろう。」つまり、頑迷かつ邪悪な攻撃は、筋の通った議論を不可能にする。だから、批判的討論をめちゃめちゃにしないように、規制が必要だというのである。
 極めて短期的な見方で、しかもごく限られた小グループの場合を別とすれば、実のところ真理はまさにこの反対である。良い批判が悪しき批判を駆逐する。自由科学のゲームで効果を上げたいと思うならば、自分は正しいと他の人達に説得しなければならない。しかも、一般的に言って、口汚くがなることは、改宗者を得るには拙い方法である。その理由から言っても、ある卑しい言葉を叫ぶなどというやり方は、短い目で見た場合は別だが、自分の方から結果を悪くするという報いを受ける。では何故科学はそうした礼儀正しい振る舞いを発展されることになったのか。別に科学者達が他の人達に較べて育ちが良いというわけではない。そうではなくて、思慮深く整然たる議論の方が、「ニガー」(黒人の蔑称)や「ファゴット」(同性愛者の蔑称)と叫ぶよりは、効果があるということである。
 言うまでもなく、理に適った討論を簡単にぶち壊すことができるのは、それを外部から規制しようとする企てである。批判的議論が現実に瓦解したケース――ソ連、ナチス、アメリカのマッカーシズム、人種問題に関する今日の幾つかのアメリカの大学など――を思い浮かべれば分かるだろうが、その理由は、ある何らかの権力者が実力を持って社会を〈破壊的〉、〈転覆的〉、または〈抑圧的〉な言葉から守ろうと行動したことにあった。

おまけ

 それではどうぞネットイナゴをご堪能下さい。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2007 1/8

一瞬「あれバーガー」に見えた。(本文とは無関係)

 ちょっと前に、日本語版のWikipediaの記事のクオリティについて議論があったような気がする。

 私はWikipediaの上部組織がどんな人によってどんな風に運営されているのかまったく知らないが、Wikipediaの質に十分満足している。

 2ちゃんねらが荒らしやがるから根本的な改革が必要とかまったく別のプロジェクトが必要というような類の主張をする人は、もしいればの話だがその考え方が古いだけだと思っている。

 確かにWikipediaの記事は百科事典に比べると低いのかもしれない、馬鹿が書いてるのかもしれないし、2ちゃんねらが荒らしてるのかもしれないし、ネット右翼(あるいは左翼)がはびこってるのかもしれない。

 とりわけ日本語版は英語版に比べてひどいのかもしれない。個人的には単なる利用人口の問題だと思うが。

 私もごく一般的な日本語の意味を知るのWikipediaを引くことはしない。もちろんPC上でではあるが、あくまで広辞苑を引く。

 これは特に意識せずにやっていることだが、あえて言葉に直すと「Wikipediaの利点は普通の百科事典・国語事典には載っていないようなマイナーな項目が存在することや速報性にあるのであって、安定性や正確性にあるのではない」と思って住み分けていることになる。

 WikipediaはWikipediaであって百科事典ではない。もちろん「Wikipediaは事典である」と言っても間違いではないが、それは「スペースシャトルは船である」というのと同じ程度に間違っていないにすぎない。

 百科事典や国語事典の内容がWikipediaのように荒れていたら確かに困るだろう。しかしWikipeidaがWikipediaのように荒れていて、個人的に不愉快だという以上に困った事態が何かあっただろうか?

 対して、荒れていることの利点なら誰しも常に享受しているはずだ。

 「荒らし等の理由によって半保護されています」とか「中立的な観点に疑問が云々」とかいう表示を見ることによって、一瞬にしてああこれは“そういう”トピックなんだという知識が得られるではないか。

 普通の百科事典を隅から隅まで読んでも得られない知識である。

 私はWikipediaでその項目に行くなり本文を無視して保護の状態とノートだけ見て帰ることが結構ある。

 荒らしがやってくるような項目がマイナーな話題であることは、ほとんどない。荒らしは多くの人が知っている一般的な項目に集まるのであり、そこがどんなに荒れているとしても普通の百科事典や他のメディアでまともな情報がすぐ見つかるはずだ。

 そして一番必要とされているマイナーな話題は特に荒らしも来ずに有意義であり続けている。

 Wikipediaの不要もしくは冗長な部分の質が低く、有用な部分の質が高いのなら、そしてある部分の質の低ささえもが別の有益な情報をもたらしているとすれば、それは単にWikipediaは有用で質が高いと言うべきだろう。

 もし何らかの高尚な理念の元にWikipediaに取って代わろうとするプロジェクトがあったとして、最大限うまくやったとしてもたぶん成功しないだろう。

 単純に後発だからというだけでなくWikipediaに取って代わるべき理由が何もないからだ。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2006 8/22

 半熟卵の件のブログ他人の不幸は蜜の味は、私が初めてブログツールを使い始めた頃にほぼ全エントリを読破した。

 ブログのユーザビリティ等の一般論に留まらず、ブログ界隈・はてな界隈というのがどんなもので、どんな人間がどんな事を考えてどんな事をしているものなのか。さまざまな観点で非常に参考になった。

 その経験から言えばこの半熟卵の件、LSTYさんが分かってやってないわけがない。要するに全部釣りだ。

 最初の勘違いがネタか天然かは私にもわからないし、企業の書き込みは予測不能の出来事だったに違いないが、少なくとも炎上ネタになりだしてからの行動*1は確実にわざとだ。

 単純に自分の心にもないことを書いて、誰かが自分の本心とまったく異なるとんちんかんな反応を*2返すのを見るのが好きな人なのだ。

 非難しているわけではない。そのようにメタレベルで人間心理を弄ぶ事が好きであればこそ、私が参考にしたいと思ったような濃い考察ができるのに違いないのだから。

 LSTYさんはああしていつものように“界隈”を風刺している。「お前たちは企業や社会の問題を告発する立派な人間のふりをしているだけで、実はコテハンな分だけ無責任な2ちゃんねらーよりマシという幻想に酔っているアクセス乞食に過ぎないのさ」と。

 私が幻滅したのはLSTYさんの芸を十分理解できるはずでありながら、結局2ちゃんから来た愚かなネットイナゴは云々といった風にまとめ上げてトラックバックしたり、はてなブックマークコメントしたりしてしまう“界隈”に対してだ。

 たとえ話で言うとこんな感じか?

 皮肉屋の男がいた。王様は裸だと言ったが誰も注目しなかったので、自分も裸になって行列を併走してみることにした。

 すると男を王様の親類か何かと勘違いした市民達が銀貨の一枚でも恵んでもらおうと「あなたのお召し物も素晴らしいですね」と口々に言いながら集まってきた。

 おそらくLSTYさんも大入りで嬉しいと同時に複雑な気分なのではないかと思う。

*1:あるいは行動しないこと。
*2:自分の意図したとおりに。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2006 6/1

お寿司

 2ちゃんねるのVIP系ブログが軒並み閉鎖に追い込まれた問題。のまネコ以来の興味をそそられるネット問題だ。

 Bloglinesで関連エントリに初めて触れたとき、私の脳裏に初めて「2ちゃんねるの終わりの始まり」という言葉が浮かんだ。

 これまでどんな事件が起ころうとも、mixiにトラフィックで抜かれたとか、ブログブームで役目は終わったとか、どんな理屈を聞かされようとも、決して浮かぶことのなかった感覚である。

 ここで言う「終わり」は必ずしも消滅や閉鎖を意味しない。少なくとも21世紀初頭に確かに存在した「2ちゃんねる」はなくなるのではないかという意味である。

 その感覚はどこから来るのかちょっと確かめてみたくなったので、まずはその感覚と無関係な部分を整理してみたい。

 まず「編集だけで対価を取ってる仕事なんて世の中にいっぱいあるよ!」という切り口(参考:中間情報産業への無理解)。

 これは攻撃側も言われなくても承知の上のはずだ。もちろん本当にわかってない人もいることはいるだろうが、多くは脱税云々もふくめて全部戦闘手段と割り切っているのだろうと思う。

 また書き込みの財産権がどこにあるかとか、脱税の有無とかは、あくまで2ちゃんねるの規約と法律の話だ。

 特に法律に不備があるとかそういう話になっているわけでもないようであるし、今まで曖昧だったというならこの機会にちゃんとすればいいというだけの話だ。現にさっそく規約が改訂されたようだ。

 次に祭り状態そのものは燃料があって火がつけば燃える、というごく順当なもので特別に興味をそそるような変わった要素はないように見える。

 燃料は主にアフィリエイトによる金銭面の妬みの感情、火はブロガーの誰かがネタ元に敬意を払わずむしろ侮辱するようなことをしたらしいということ。

 燃料の方はわかりやすい。誰だって他人が楽して儲けているように見えたら妬ましい。妬みだからいけないと言っているわけではない。突き詰めれば人間のモチベーションなどほとんど妬みだ。

 ただし今回まとめブログが特別嫉妬されやすい状況にあったことは疑いない。嫉妬とは自分よりうまくやっていてかつ「自分にもできる」と思われる範囲の相手に対して起きるものだからだ。

 自分より評価が高いからといってビートルズに嫉妬するバンド、手塚治虫に嫉妬する漫画家、モーツァルトに嫉妬する作曲家などいない。

 『アマデウス』のサリエリは? と思うだろうが、それこそ法則を試す例外というもので、彼自身が歴史に名を残すほどの能力があるから嫉妬“できる”のだ。*1

 ログの編集とアフィリエイトによるブログ運営は「自分にもできる」と思わせる絶好の要素を揃えている。載っているのは自分の書き込み、アフィリエイトを貼るのもブログを更新するのも「自分にもできる」ことであるから。

 火がついたきっかけの方には少し解説が要りそうな気がする。この手の話への経験が浅いと「どうして敬意を払わないとか侮辱がどうとか些細なことでそんな過激な行動に出るんだ? こいつらみんなゲーム脳のコイズミ政治の犠牲者の下流ニートネトウヨ君ばかりに違いない!」とわかりやすい結論に飛びついてしまいがちだが、実情はそこまで簡単ではない。

 ネットというのは言わば魂しか存在しない世界である。肉体は存在せず、したがって生も死もなく、お金も動かない*2世界である。だから、そこで長く暮らしている人格・そこで生まれたコミュニティは必然的に現実とはかなり異なる倫理感覚を持つことになる。

 それは生命や危険を顧みず*3金銭を汚しとし*4何よりも礼節を重んじ侮辱を許さない*5というものだ。つまり良く言えば武士道精神的な、悪く言えばヤクザな倫理である。そう、なんかそんな台詞あったなと思ったらジョジョ5部のギャング、ポルポだった。

 われわれは金や利益のため、あるいは、劇場やバスの席を取られたからといって、人と争ったり、命を賭けたりはしない。争いは実にくだらんバカのする事だ。

 だが!「侮辱する」という行為に対しては、命を賭ける。殺人も、神は許してくれると思っている!

 というわけだから、ネットと現実の境界で軋轢が起こるとき、現実側に軸足を置いている人間から見ると、ネット側の人間はとんでもないヤクザに見える*6し、ネット側に軸足を置いている人間から見ると現実側の人間はものすごく惰弱でこすずるい奴に見える*7のだ。

 要は異なる文化圏のディスコミュニケーションなのである。そこから発生するトラブルを回避する能力は、ネットと現実は本当の本当にどこかで繋がっているということを理解しているかどうかによる。

 できないまま行くところまで行ってしまうと、ネット側では警察が部屋のドアを叩くことによって(もうだめぽ)、現実側では回り回って金銭的・現実的な損害が発生することによって無理矢理気づかされることになる。

 前置きがものすごく長くなってしまったがこれでようやく私の感じた“感覚”に関係なさそうなところは整理できた。まだ残っている違和感を探っていけば本題にたどりつけそうだ。

 まず1つめは、内ゲバ的であること。いくらアフィリエイト云々の事情があるにせよ。「2ちゃんねるのログをまとめる」という紛れもない「2ちゃんねる的」な対象が祭りの対象となっていること。

 これまでは祭りのたびに身びいきだのダブルスタンダードだのと非難された*8ように、「内(味方・2ちゃんねる的なもの)」、「外(敵・反2ちゃんねる的なもの)」という区別を簡単につけることができた。

 これまでであれば「内」に当たるのは2ちゃんねるそのものだったり2ちゃんねらーだったり2ちゃんねる発の団体だったり運動、「外」に当たるのはマスコミだったり企業だったり時には政府、とある程度決まっていた。今回いわゆるVIPPERとVIPブログ連合の間にはそういう区別はつけられない。

 2つめ、運営側が即座に*9拡大・解放よりも権利・利益の確保というベクトルの判断を示したこと。

 今までの2ちゃんねるは「バスジャック犯が書き込みしてたといって話題になろうが、たびたび犯行予告で逮捕者が出ようが、賠償を訴えられて金を取られようが、それで話題になって2ちゃんねらになる人が増えるならラッキー」というノリでやってきた。*10

 今回だって「まとめブログから流れてくる人もいるんだしいくらか還元してくれればいーじゃん」という対応の仕方もあったと思うし、私も第一報の時点ではそうなるものと思っていた。

 しかし、実際に取られた措置はそうした来るものは拒まずと言うか、細かいことはどうでもいいからとにかく来い、というノリとはまったく逆方向を向いている。

 つまり私の感じた「終わりの始まり」という直感は、ちょっと詳しく言えば「2ちゃんねるは成長の限界に達し、あらゆるものを取り込んで広がり続ける混沌から、現状を維持しそのためならば時に排除もする存在へと性質を変えつつあるのではないか」ということになる。

*1:無論フィクションだということはひとまずおいて。
*2:少なくとも最近まではそうだった。
*3:どうせネットで何やったって死なないから。
*4:どうせネットで何やったって儲からないから。
*5:それだけがネットにおける“リアル”だから。
*6:「なんでそんなくだらない理由で殺人予告とかするの!? 命をなんだと思ってるの! 信じられない!」
*7:「ちょっとぶっ殺すとか言われたぐらいですぐ警察とか言い出しやがって! 空気の読めない卑怯者のアホめ! 信じられねえ!」
*8:というか実際にそうだった。
*9:と言っていいほどの早さで。
*10:少なくとも私の中では最近までそういうイメージだった。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する