2011 12/10

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 なんだかそれっぽい話題が聞こえてきたので、久々にジョナサン・ローチ『表現の自由を脅すもの』から2ヶ所引用。

我々は、批判や吟味、正しい憎悪や脅しを押し止めようと欲するものではない。」ところで何時も困ることといえば、ある人の憎悪に満ちた発言は、別の人の真摯な批判であるということである(「ホロコーストはイスラエルの捏造である」)。そうなると、誰が線を引くべきか。

人を傷つける邪悪な意見が駆逐されれば、社会はもっとよくなるだろう。」多くの人たちは言う。「悪いことを言いかつ信じる人たちを罰し、そして追い払う必要があるということは、恥ずべきことだが、しかしそれは、文明化された人々を文明化されていない人々から、圧迫されている人々を圧迫者気取りの人たちから守るために、我々が支払わなければならない対価である。」別の言葉で言えば、オムレツを作るためには、幾つか卵を割らなければならないというのである。ジョージ・オーウェルが言ったように、答えはイエスであるが、しかし、オムレツは何処にあるのか。
 宗教裁判といえども、コペルニクスの考えを押さえることはできなかった。せいぜいそれがやったことといえば、知識の進歩を遅れさせ、人々を殺したことであった。新たな異端審問も、同じ事しかできない。信念を抑圧しようという試みは、かえってそれらの信念に注意を向けさせ、有名な裁判事件に仕立て上げてしまう。人種差別的、ホモ恐怖的、あるいはその他諸々の意見は許されるべきではないと強調すると、如何なる大学二年生でも、あからさまな人種差別主義者やホモ恐怖論者であるというだけで、確実に新聞のトップ見出しを飾ることになり、それは、多くの二年生にとってはこらえられない誘惑になるであろう。不快な言論は、人々が怒って喧嘩を売ろうとすれば、もっと不快なものになる。憤慨は四方八方でエスカレートする。しかし誰の考えも変わりはしない。

 また引用だけで終わるのもアレなので、自分の昔のツイートをちょっと引き伸ばして追記。

  • はじめから表現の自由を規制より好む人

 はいない。それは

  • 生まれながらに自由貿易を重商主義より正しいと感じる人

 とか、

  • 生まれながらに賢人独裁より普通選挙を正しいと感じる人

 とか、

  • 生まれながらに進化論を信じて創造論を理解できない人

 などと同様に、全くありえない存在だ。これらの制度・理論は、あまりにも本能・直感に反するもので、特殊な教育によらなければ信じさせることはできない。

 これらのうち普通選挙は一番救いがある。たとえ仕組みそのものが正しいとは信じられなくても、集団の中で自分が平等に扱われることを求める人間の本能には、完璧に訴えることができるからだ。

 自由貿易や進化論にもまだ救いがある。本能には逆らっても、実利や証拠の助けが得られるからだ。たとえ大衆の理解や支持が得られなくても――実際に今日でもしばしば得られない――関わる人は真剣に支持するインセンティブを持てる。

 表現の自由は本能の助けも実利の助けも証拠の助けもまったく得ることができない。

 社会的に受け入れられていく過程が、おおむねこの順序になっているのは、たぶん偶然ではないのだろう。

おまけ

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2008 12/8

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 下に並べたように事あるごとにおすすめしているジョナサン・ローチ(ジョナサン・ラウチとも)著『表現の自由を脅かすもの』原題“Kindly Inquisitors: The New Attacks on Free Thought”(『やさしそうな異端審問官たち――自由思想への新たな攻撃』)。

 人生の中でも他人にお薦めしたい本No.1なのですが、定価1600円にも関わらずamazonで3万円近くというアホみたいな値段まで高騰しています。このままでは流石に買おうとする人はいないと思われます。

 『人間の測りまちがい』の復刊が嬉しかったので、こちらも復刊を願ってとりあえず復刊ドットコムに登録して投票してみました。どのくらい実現可能性があるかわかりませんが、実績はあるサイトのようなので読みたい方、同じくおすすめしたい方は協力していただければ幸いです。

関連エントリ

関連図書

おまけ

 自由だあああああああああああ!!

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2008 3/19

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 とかなんという話で盛り上がっているそうで。

 あまり時間を割けないので例によって『表現の自由を脅すもの』からの引用でお茶を濁す。本当に人間の本性というのはいつでもどこでも変わらないもんだなあ。

 アメリカには、どこの国とも同じように、極端にお堅い人達が常に存在した。そうした人達のことをH・L・メンケンはピューリタン――「誰かが、何処かで幸せにしているかも知れないという絶えざる恐れ」に駆られている人達――だとあざ笑った。彼らの好きな攻撃目標は、ポルノであって、神様や、後には、上品さや家庭的価値などを持ちだしてこれをやっつけた。創造論者達の場合同様、彼らは体制側知識層の嘆きや揶揄の対象になった。ところで彼らは、創造論者達がやったように、力のこもった論陣を張ったが、まともに相手にされず、永いこと無視されてきた。

 この堅物達の主張によれば、ポルノは道徳を崩壊させ、社会に脅威を与えるから有害だというのである。猥褻禁止の反対論者がしばしば指摘するのは、猥褻と芸術、いやらしいものと美しいものの境界線は、原則的にも、ハッキリさせることは不可能だということである。ハッキリできないからこそ、下品なものの禁止が、真面目な芸術にまで及ぶということになりかねない。イギリスとアメリカで、ジョイスの『ユーリシーズ』が発禁にあい、官憲によって船積み直前の本が差し押さえられ、焼かれたということが、この点に関する不朽の証拠だと、彼らは指摘したのである。

 ところで、『ユーリシーズ』を堅物達から護るという戦いは、リベラルな裁判所の助力によって間もなく勝利した。今日でも、相変わらずこうした堅物達は再浮上してきている。1989年、シンシナティの現代美術センターの館長が、ロバート・マップルソープの作品である同性愛的写真を展示したというので、裁判沙汰になって注目を集めたし、1990年には、ラップ・ミュージックのグループ「2・ライブ・クルー」が、露骨でひどい歌詞のせいで裁判に掛けられた。しかし1980年代頃には、ポルノ反対の活動家達は、もはや議論を支えきれなくなっていた。公金がからんでいる場合は別として、彼らに反対する立場の方がのしてきた。

 だが、これまた、話はこれで終わりというわけではない。ピューリタン流の道徳的恐怖に付随するか、あるいはその底にあるのは、人々や社会は、汚い言葉やひどい映像で害されつつあるという反対意見である。しかもこうした議論は、社会がポルノに対してますます容認的となってきても、なくなりはしない。その代わり、この議論は、さなぎのように繭の中で眠り、やがて前よりも強力な姿で再登場するのであった。

 きっかけはやはりポルノであった。しかしこの度は、攻撃はより精緻となり、しかもそれは、ピューリタン的道徳家からではなく、女権論者の方からやってきた。女権論者の議論は、しばし持ちこたえたが、すぐにより広範な立場に合流していった。議論の核心は、ポルノは女性を侮辱し、抑圧を助け、女性自身の権利を否定することによって女性を傷つけるというものであった。1983年、批評家にして学者でもある有力な女性論者のキャサリン・A・マッキノンが語ったところによると、ポルノは「人口の半分に対する待遇と地位を決める暴力的差別的態度や行動を生じさせるもの」である。現に生身の人達が傷つけられている。メアリ・Sとか、ベス・Wといった女性が、そうしたものに触発された犯罪人によってレイプされたり殺されたりした。そして、こうした実際の恐怖の現実があるにもかかわらず、伝統主義的男性権力構造は、性的暴力や支配の場面を売り物にするポルノ制作者の権利を保持してきた。女権論者たちには信じられないことであった。ここにも、女性の人権を蔑視する家父長制のもう一つの印があると、彼女たちは言った。

 彼女たちはいささかの成果を得た。マッキノンや他の人達に動かされて、インディアナポリス市はポルノを性差別として起訴しうる反ポルノ法を制定した。(この法律は、後に、違憲と判定された。)1989年には、同趣旨の法律案が議会に提出された。あなたが性犯罪の犠牲者であり、その犯罪と、何らかの「特定ポルノ資料」の間に関連性があることをあなたが示し得るならば、受けた損害に対してその資料の制作者又は頒布者を告訴しうる権利があなたにあるとするものである。こうした法律に関する憲法問題は今はさておき、害されたら告訴できるというこの論旨は、説得力があるように見える。

 問題は、特定個人が、犯罪者によってレイプされ傷つけられたのであって、ポルノ映画によってではなかったということである。「如何なる立派な研究や証拠をもってしても、ポルノと現実の暴力の間に因果関係があることを示し得たものはない。」デンマークのある報告によれば、「ポルノが合法化されている国では、レイプや性犯罪の犯罪率は現実に低下してきた。」何らかの特定犯罪と、何らかの特定ポルノ作品との関連性を示すことは、困難又は不可能であった。ともあれ、従来からの理論によると、あなたは犯罪者を罰するのであって、犯罪者の頭の中にあったかも知れない観念や、観念を植え付けたかも知れない人を罰するのではない。ある馬鹿が、ヒトラーの『我が闘争』を読んでユダヤ人を殺したからといって、この本の販売を法律違反にするべきだろうか。従来からの理論によれば、勿論ノーである。それならまた、誰かが聖書のカインとアベルの物語を読んで自分の兄弟を殺すかも知れない。あるいはまた、誰かが「魔法使の女は、これを生かしておいてはならない」(「出エジプト記」22章18節。原文にはないが訳者注として聖書の引用箇所を指摘しておく)とあるのを読んである女性を殺すかも知れない、さらにまた、エリシャ(「列王紀下」2章24節)の物語を誰かが読んで悪い子供達を殺すかも知れないからといって、聖書の販売を非合法化すべきだろうか。馬鹿どもが読んで興奮するような本や言葉を禁止するということは、我々の中の一番低級な輩に、我々が何を読んでいいか、何を聞いていいかを決めさせることになるのである。

 こうした問題を前にして、女権論者達は自分達の議論を拡大した。そしてここでの議論は、本書の観点からすればとりわけ興味深い。問題は、特定の猥褻本や映画に誘発された特定の犯罪によって、特定の人達が被害を被るかも知れないというに止まらなかった。問題はさらに、ポルノによって女性が一階層として被害を受けるということであった。マッキノンの言うところによると「ポルノは個々人を、つまり一時に一人という意味での個々人として、害するのではなくて、《女性》というグループのメンバーとして害するのである」。

 女権論者の見方からすれば、ポルノは強制された性の一形態、性の政治の一慣行、性的不平等などの一制度である。この観点から言うと、ポルノは本来自然で健康的な性の無害な幻想とか、堕落し混乱し歪曲された表象といったものではない。それに関連して起きるレイプや売春と共に、ポルノは男性優位の性の制度化であって、支配服従関係のエロス化と男女の社会構成を一体化するものである。男女差には性的な側面がある。ポルノはそうした性的側面の意味づけをする。男性は、自分本位の見方から女性を取り扱う。ポルノはそうした見方を作り上げる。

 別の言葉で言えば、ポルノは男性の女性支配を表現するものとして、男性優位の倫理を伝え、それを現実化する。従ってポルノはそれ自体において女性を抑圧するものであって、ポルノに刺激されて犯罪が起きたかどうかとは別問題である。

 それでは実害の証拠を出せとあなたは言うかも知れないが、あなたはそれがあると期待してはならない。何故なら、ポルノの実害の一つは、それが引き起こす損害を隠蔽するところにあるからである。「そもそもポルノが男性優位の行為だとすれば、その害は、男性優位という害であって、それがあまりにも広範でかつ強力であり、世界をポルノチックな場所にすることに成功しているから、ちょっとやそっとでは見破れない……ポルノが社会的現実を構成するのに成功している程度に応じて、害は不可視的となる。」ポルノによって構成された世界では、ラディカルな女権論者でない人達には、ポルノの害は見ることができない。それはちょうど魚にとって水が見えないのと同様である。それでは、女権論者の主張するようなポルノの実害があるとすれば、それを我々はどうやって知るか。現に害はあるに相違ないのである。ポルノはまさにその本質上、つまりそれが表現するイメージや、それが醸し出す心理的雰囲気によって、抑圧的である。

 興味深い点がここには含まれているので、もう少しこの話を続けよう。言論の自由に関する標準的理論に反対する古い苦情によれば、言論の自由は人々に有害なこと(例えば、「汚い便座からエイズを貰うことがあり得る」といったようなこと)を勝手に言わせることになるというものである。そして古い答えによれば、「有害」は観察者の判断であるに過ぎず、有害な行為というのだったら罰せられるべきであるけれども、言葉や表現されたイメージは、意見や思想の担い手であって、それは別物だというのである。私は口で、「共和党員は一網打尽にして撃ち殺すべきである」と言うことはできても、現実にそうできるわけのものではない。さてそこで、議論の建て方が様変わりしてくる。マッキノンは、前述の引用箇所や別の所でも、哲学者ばりの抽象的理屈を弄して、ポルノが害を惹起するのではなくて、ポルノ自体が害なのであると言う。ポルノは暴力である、とりわけ女性に対する集団的暴力である。そうだからこそ、マッキノンは繰り返し繰り返し、ポルノのことを、一行為として書いてきている。それは、「男性優位の行為」であり、女性差別的社会秩序の「精髄をなす社会的行為」であり、「一つの政治的実践であり」、「強制された性の一形態」であって、「思想というより行為というべきもの」、「性差別の一つの実践」等々であると言っている。

 話すことと行動することは別だとする古いそして確かに時にはややこしい区別は、こうした理論建てによって消し去られつつある。しかも単に理論としてというだけではない。1980年に、アメリカの雇用機会均等委員会は、女権論者の法理論家達に影響されて、職場での言論が、市民権法に照らして処罰しうるセクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)に当たるかどうか決めるための三条件を採択した。これらの条件のうちには、問題の発言が「威圧的、非友好的、又は不快な職場環境」を生み出すかどうかというのがあった。もしある発言が、誰かにとって不愉快な社会状況を生み出したら、もはやそれは単なる言葉でなく、(あたかもポルノが一つの抑圧行為であるのと同様)嫌がらせの行為であると、この委員会は言っているように思われた。

 だからここには、イメージや表現や言葉などが、実際上、加害や暴力の一形態となり得るという理論があった。この理論に注目して頂きたい。そのうわべの顔を忘れないで欲しい。じきにまた出くわすことになるからである。

 ある人達は、あらゆる反対の証拠があるにもかかわらず、そして世間のあらゆる嘲笑にもかかわらず、ある信念に固執することができる。それが称賛に値することもあれば、そうでないこともある。ナチにはユダヤ人絶滅政策なんて無かったという議論に命を懸けたある人が、かつて記した。「私は朝起きるとタイプライターに向かい、最高に凄い意味合いを含んでいる最も単純な事柄を書き留める。全ての歴史家がどのように間違っているか、学者やインテリや大学が皆いかに間違っているか、そして私が正しいということについて記す。」しばしば確信的な信仰者は超自然主義、つまり証拠がないということこそ、そのことの証明だという確信を持ち出す。奇跡には証拠がないというのは、最もよくある超自然的議論の一つであり、奇跡は奇跡だということを示すものに他ならない。ポルノは必ずや、女性に対する暴力を生み出すということについて証拠がないというのも、さらに巧妙な同工異曲の言い方であって、加害を覆い隠す男性優位社会の力を確証するものに他ならない。覆い隠されているからといって、害は害である。古典的な陰謀説として罷り通っている、ユダヤ人は世界経済を支配しているということに証拠がないというのも、いかに巧妙にユダヤ人組織がその痕跡を覆い隠しているかということを示しているに他ならない。他の一切が潰えたとしても、超自然主義は、打倒困難である。

現実に人達が傷つけられている。だから保護行動は道徳的絶対命令である。」人々の感情が害されたというのは、否定の仕様がない。しかし、人の感情を決して傷つけてはならないという運動の明白な弱点の一つは、ポルノ反対運動が常に覆い隠さなければならない弱点と同じであるが、それは人を傷つける言論や意見というものが、感情を害したという以外に、現実にどんな具体的、客観的な害を与えたかを全く示すことができないということである。さらにまた、言葉で「傷つけられた」と言えるには、どれくらい深刻に感情が害されなければならないのか、また人を傷つける言葉の被害者が現に本人が主張するほど酷く害されているかどうかを、どうやって述べればいいのかを定めることも、彼らにはこれまでなし得なかったのである。そもそも傷つける言葉とイライラさせる言葉をどうやって区別するのか。

 私の意見では、ラシュディー事件は、一つの転換点を表している。まさにこの地点から二つの方向のいずれかに進むことができる。しかし立ち止まっていることはできない。

 ホメイニの指令は二つの部分を持っている。それは、宣告、すなわち死の宣告であり、その犯罪は、すなわちイスラム教徒を傷つけたというものである。この指令に対してなされうる多くの反応のうち、二つが特に傑出している。一つは、こんな宣告なんか撥ねつけちまえ、というものであり、二つ目は、こんな犯罪なんか撥ねつけちまえ、である。

 もし犯罪の方を撥ねつけるとすれば、ラシュディーは何も悪いことをしなかったと言える。もし彼が別に何も悪いことをしなかったと言うならば、当然の帰結として、人を傷つけたとされる他の人達――例えば他のアメリカ人を傷つけたとされるアメリカの人達――もまた、何も悪いことはしていないと言わねばならぬ。ある人達はこの立場を取った。しかしこの人たちの中には、主だった西欧の宗教指導者達は入らなかった。パイプスは書いている。「如何なる指導的宗教人や宗教組織も、ラシュディーの困っている時に彼を支持しなかった。」アメリカ政府もまたこれには加わらなかった。大統領の声明は次の通りである。「この本が如何に忌まわしいものであるとはいえ、殺人を教唆し、殺人の実行者に褒美を与えるというのは、文化的行動の基準からして、極めて忌まわしいものである。」この発言の趣旨は、あまり頂けない。つまり、同書は〈忌まわしい〉、死刑の脅かしもまた〈忌まわしい〉、だが一つの忌まわしさはもう一つの忌まわしさを正当化するものではないと言っているようである。

 もう一つのやり方は、この宣告を野蛮で行き過ぎとして撥ねつけるが、犯罪そのものは撥ねつけないというやり方である。人の心を傷つけた人達は、多分追い出すか、公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、強制的に黙らせるかすべきであるが、しかし、死刑にするというのは、万引きで人の親指を切り落とすようなもので、これはあんまりであるというのである。これこそ大多数の西欧のインテリが選んだか、あるいは今選ぼうとしている道である。もしこの道に従うならば、我々はホメイニの判定を承認したことになり、ただ宣告の量刑についてのみ言い争うということになる。もしこの道に従うならば、我々は、原則的に言って、心を傷つけるようなものは抑圧されるべきであるということを受け入れることになり、それでは心を傷つけるものは何か(ポルノか、ロバートマップルソープの同性愛写真か、黒人に対する誹謗か、ダーウィンの進化論か、共産主義か)を巡って争うだけとなる。

おまけ

 大丈夫、これならエロくない!

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2007 11/15

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 というのは私の座右の銘のひとつ。例によって例の如く『表現の自由を脅かすもの』から関係ありそうなところを引用。

 それにしてもこの本も入手困難になってるみたいだな。『人間の測りまちがい』もそうだけど最近人に薦めたいよい本ほど入手困難になっている。

 最近進行している事柄の中にあるのは、人々の感情を害したくない、あるいは少なくとも社会的烙印を押されると特に傷つきやすいと見られるような人々の感情を害したくないという欲求に他ならないと理解しても良かろう。

 どうしてか、「自由な」とは「良い」という観念、自由知識体制は、物分かりの良さ、寛容性、自尊心、偏見や先入観の排除などを育むものであるという観念が出来上がっていた。そうした印象こそ人を誤らせる。自由科学というものは、好き勝手と共に規律をも要求し、このルールを放棄するか馬鹿にする人達にとっては、残酷ともなり得るというのが真実である。それは、寛容でもあるが、排除もし制限もする。それはクールな超然性に劣らず偏見をも成長させる。それはあなたの感情など意に介せず、真理発見の名において平気でそれを踏みにじる。正直に言ってしまえば、それは時として犯罪を助長させさえする。自尊心、物分かりの良さ、他者の信念に対する尊敬、偏見の放棄など、全て大変結構なことである。しかし、これらを優先的な社会目標にしてしまうと、人間の知識の平和的生産的発達とは相容れなくなる。知識の発達のためには、時には我々全てが苦しまなければならない。それどころかもっと悪いことには、我々は他者を苦しませねばならない。

現実に人達が傷つけられている。だから保護行動は道徳的絶対命令である。」人々の感情が害されたというのは、否定の仕様がない。しかし、人の感情を決して傷つけてはならないという運動の明白な弱点の一つは、ポルノ反対運動が常に覆い隠さなければならない弱点と同じであるが、それは人を傷つける言論や意見というものが、感情を害したという以外に、現実にどんな具体的、客観的な害を与えたかを全く示すことができないということである。さらにまた、言葉で「傷つけられた」と言えるには、どれくらい深刻に感情が害されなければならないのか、また人を傷つける言葉の被害者が現に本人が主張するほど酷く害されているかどうかを、どうやって述べればいいのかを定めることも、彼らにはこれまでなし得なかったのである。そもそも傷つける言葉とイライラさせる言葉をどうやって区別するのか。

 こう言って迫られると、人道主義者達は、頑迷な考えや悪しき考えは、酷く不快なものである、人々の自尊心を害する、一種の虐待である、等々の修辞的な言い回しに後退する。有害な言葉を〈嫌な〉とか〈耳障り〉とか言うことさえ、言葉の与える害を軽視するものだと彼らは論じる。「〈嫌な〉とは、傷害または犯罪が表面的なものに止まり、心の広い(〈自由で思いやりのある〉)人だったら受け入れないまでも許容しうるということを示唆している」とスタンレー・フィシュは書いている。「言論の効果が、良きにつけ悪しきにつけ、芯にまで達し得るという考えは、全然持たれていない。全てが無重力の言葉の上でのやり取りといったレベルに止まっている。ある種の言論が、人をずたずたにするような害を与えるといった考えは皆無である。」暴力の隠喩(「ずたずたにする」)への後退に注意していただきたい。また回りくどい言い方にも注意して欲しい。確かに、「ある種の」言葉は「芯にまで達し」得る。しかし、全体としての問題は、どんな種類の、どんな言葉が、そしてどうやってそれを告げるのか、どれくらい深く芯にまで、というのはうんと深くか、などである。気に障る程度を測るメーターがあれば、問題を解決することができるだろうが、そんなものはないので、「現実に人達が傷つけられている」という苦情は、誰が傷つけられているのか、何時、どんなに酷く、あるいはどれくらい沢山というのは、うんと沢山か、などについて何も語ってくれない。そうしたメーターが存在したとしても、それでも問題は残る。「芯にまで達する」ような真実の言葉は、ではどうなのか。「芯にまで達する」ような役に立つしかし厳しい批判は、どうなのか。生物の先生がダーウィンは正しいと公言したあとで、創造論者がわっと泣き崩れて大学を退学すると想像してみよう。それは「ずたずたに切り裂くこと」なのか。それは、止めさせるべきことなのか。

おまけ

 みんなのうたの傑作と言うと必ず話題に上るもののひとつ。私もこれは好きだった。

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2007 9/30

影響力の武器[第二版]

 すでに書く時期を逸した感があるが、斧とか鉈とかで高校生が人殺したとか殺さないとかでアニメひぐらしが放送自粛したとかしないとか*1いう話。

 「ひぐらしは斧で敵を殺していくゲーム」とかTVで放送されて竜騎士さんがヘコんでたのは確かなようだけど、まあそれはひどい。うちのひぐロワと間違えてねえか? というジョークはおいといて、確かにひどい。

 しかし、昔筒井康隆の断筆宣言に興味を持って表現の問題についていろいろ調べ、悪書追放運動に関して手塚治虫が受けたバッシングの話も思い出してしまう私の感覚から言って、現在はそんなに悲観すべき事態でも、大騒ぎすべき事態でもないと思う。

 マスコミがこんな風に気軽に叩くことさえも、逆説的に言って、もはや単純なアニメ・コミック・ゲーム叩きなど誰も真面目には受け取らなくなったことの証明なのではないかと思える。血液型性格診断や星占いのようなものだ。

 「アニメなんぞより報道の方を自粛しろよ!」という反発が起きる気持ちはわかる。なんと言っても報道が本当に似たような事件の連鎖を引き起こすことは、昔からかなり明らかな事*2なのだし。

 しかし実際問題としては本当のことを言えばいいってもんでもないだろう。「山田部長(仮名)がケチなのはなんでだろうね?」という話題に対して「A型だからじゃないですかー?」と返せば「HAHAHA!!」で済みそうなのに対して、「浮気がばれて離婚したばっかで慰謝料と養育費で首がまわんないんじゃないですかー?」と言っちゃったら始末に困るのと似たようなものだ。

 こういう問題に対して魔法のような解決策はない。全ての表現は本質的に挑発であり逆風に対して自粛しないことはそれ自体が一つの価値なのだ、という新しい道徳を少しずつ広めていくしかないだろうし、それは別に改めて言うまでもなく現実に進みつつあることだろう。

*1:実はアニメひぐらしはまったく観てないので本当にどうなったかは知らないのだが。
*2:上の『影響力の武器』を参考文献にオススメ。

おまけ

 今の「みんなのうた」にもいい曲あるんだなぁ。え? 違うの?

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2006 11/8

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 前回の記事の時に発見したエントリ

結論から言えば、やはりそこには「絶対的」なものがあって、そこから外れるものは認めない(というか見えない)のだろうと思う。

彼らの言う「話し合い」とは、彼らの許容範囲内での「話し合い」であって、それ以外のものは「意見」ではないのであろう。「意見ではない」とは、自分と異なる意見を認めないということではなくて、「意見ですらない」という意味。じゃあ何かといえば、具体的に言えば「別の意図を隠すまやかし」、「権力者に騙されている可哀想な人」あるいは「狂人」のたわごとということ。

かつての共産圏の国、又は今でも一部の国で、体制に都合の悪い人間を「裏切り者」とか「資本主義国のスパイ」とみなしたり、「再教育」したり「精神病院」に収容したりしたのは、実質的に逮捕監禁しているのをごまかすための名目というだけではなかろうと思う。絶対的に正しいイデオロギーに従わない・落ちこぼれるというのは、「有り得ないこと」であり、それにもかかわらず、そういう人間が存在する理由が、「敵国に通じている」とか「教育が足りない」とか「頭がおかしい」という結論に行き着くのは必然ではなかろうか。(このへん詳しく解説してある本を探しているんだけどなかなか見つからない)

(国家鮟鱇 – リベラルの攻撃性)

 tonmanaanglerさんがお探しの本ですが、私がことあるごとにお薦めしている、ジョナサン=ローチ著『表現の自由を脅すもの』がまさしくそれなんですね。第4章「ファンダメンタリストからの脅威」からいくつか相当しそうな箇所を引用しましょう。

 ファンダメンタリズム(原理主義)といっても、宗教運動ではなく、知的スタイルを表すのだが、それは、あなたも間違うことがあり得るということを真面目に受け取ることを断固拒否する態度である。

 あまりにもかけ離れた突拍子もない信念を持っているイスラムの国家主義的ファンダメンタリストに出会うのと、信念は似通っているが、その信じ方が異なっているという誰かに出会うのとでは、雲泥の差がある。そこをどう考えたらいいのか。進化を聖なる教義とし、『種の起源』を聖典とするダーウィン主義の信奉家のグループを発見したとして見たまえ。彼らの実践を、科学でないと無視し得ても、その信じるところは誤りだと一蹴し得ないであろう。

 こちこちのファンダメンタリストにとっては、世の中には一つの明白な真理と、多くの嘘つきが存在する。向こう側は、間違っているだけでなく、嘘をついているのである。だから中絶反対のファンダメンタリストからすれば、中絶支持者はただの殺人ではなく謀殺に賛成するものである。生命選択論者は、人間であることを知りながら計画的に殺すことを許容しようとするものである。(中略)生命選択論者であるファンダメンタリスト達は、生命尊重を称える彼らの反対者に対して、彼らは本当は胎児が人間だなんて信じていないんだ、信じるわけがないとしばしば主張する。それどころか、胎児に対する関心と言っているが、それは仮面であり、計略であって、本当のところ中絶反対論者の闘いは、女性の権利の撤回、出産を目的にしない性行為の禁圧のためだと主張するのである。ワシントンの多くの保守主義者を含めて、アメリカの政治的右翼のファンダメンタリスト達は、自由主義者である彼らの反対者達は故意に国を害そうとしているから、反逆者、でなければせいぜい非愛国者であると主張する。政治的左翼のファンダメンタリスト達は、彼らの敵である保守主義者達は意図的に貧者を飢えさせ、地球を吹っ飛ばそうとしていると主張する。真理が明らかなのにそれが見えないとすれば、それは気が変か、バカか、騙そうとしてやっているかである。

(反対意見の者に対してソビエトが、精神医学を用いるのは、確信的ファンダメンタリストから見れば明白な真理が分からない人は、馬鹿か性悪でなければ、気が変であるに決まっているので、そんなに風変わりなことではなかろう。)

 つまりこの場合のポイントはリベラルであるとか保守であるとかの思想というよりも、その思想の実践法(あるいはメタ思想とでも言おうか)であって、どんな立場であっても絶対的なものの考え方をすることはできるし、それに基づいて行う議論は健全ではないということですね。

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2006 9/18

表現の自由を脅すもの

 問題そのものは上のエントリに詳しいようにあまり本質的なものではなさそうだ。

 だがそれだけに、かつて原理主義的な知の頂点に立つ無謬の象徴だったローマ法王が、いまや「他人の宗教を侮辱するな」という原理主義者からの人道主義的非難にいとも簡単に屈してしまっているということが現代の思想状況の象徴にも見える。

 原理主義の脅威などという言い方がされることもあるが、それは原理主義者の一部に多いテロリストの脅威である過ぎず、思想上の脅威というに値するのはあくまで人道主義の方なのだろうな。

 それにしてもローマ法王がどちらかというと自由主義的原則に照らして擁護される側に回っているというのは一種の皮肉とも言えるのかも。

 これだけではどういう文脈で言っているのか伝わらなさそうなので『表現の自由を脅かすもの』序盤からの引用を下に載せておく。

 本書は、真理を虚偽からふるい分ける自由社会体制、つまり、我々の最も偉大にして最も成功した政治体制に関するものであり、またその体制の政敵、といっても旧い敵である旧式の権威主義者達のみならず、比較的新しい敵、つまり平等主義者や人道主義者達をも取り扱っている。

(中略)

 本書の中心テーマをなす問題とは何か。それは、意見の相違を表出しかつ解決するための社会の原則とは如何なるものであるべきかということである。別の言い方をすれば、誰が正しいか(つまり真の知識を持っているか)、誰が間違っているか(つまり単なる意見を持つに過ぎないか)を決める正しいやり方とは如何なるものであるか、ということである。

(中略)

 真の信念を「常軌を逸した」信念からどうやってより分けるかという中心問題に対して、五つの回答、五つの意志決定原則がある。原則というに止まらず、現在最も重要な代表選手とでも言った方が良かろう。

  1. ファンダメンタリスト(原理主義)的原則―真理を知る人々が、誰が正しいかを決めるべきである。
  2. 単純平等主義的原則―あらゆる真摯な人々の信念は平等に尊重されるべきである。
  3. 急進平等主義的原則―単純平等主義的原則に似ているが、歴史の中で抑圧されてきた階級や集団に属する人々の信念に特別の考慮が払われる。
  4. 人道主義的原則―前述のどれでも良いが、ただし人を傷つけないことを第一にするという条件が付く。
  5. 自由主義的原則―公然たる批判を通してお互いにチェックし合うことが、誰が正しいかを決める唯一の正当な方法である。

 本書の言わんとするところは、この最後の原則が、唯一受容されうるものであるにも関わらず、今や他の諸原則に敗退しそうになっており、そうした展開は、危険極まりないものだということである。科学は抑圧であり、批判は暴力であるといった考え方が力を得、討論や調査を中央から取り締まることが、まともなやり方だという考えに戻りつつある――ただし今回は、人道主義的仮面を付けて。アメリカ、フランス、オーストリア、オーストラリア、その他のところで、人に害を与えるような誤った意見を持つ人々は社会の利益のために罰せられるべきであるいう「異端裁判」の古い原則が返り咲きつつある。そしてそうした人々を監獄にぶち込むことができないならば、職を失わせる、組織的な非難中傷運動の矢面に立たせる、謝らせる、意見を撤回させるようにすべきである。政府で罰せられないならば、私的機関や圧力団体、つまり思想監視の自警団がそれをやるべきであるという。

 ローマ・カトリックの異端裁判が、ガリレオを捕まえて裁判に掛けてからもう三世紀半にもなるのに、新たな批判封じ込めイデオロギーや、それを実施しようという公私にわたる運動について執筆しているというのは、おかしなことである。何が起こっているのか。そして何故今起こっているのか。

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2006 7/24

表現の自由を脅すもの

 サルマン・ラシュディの悪魔の詩事件と、この翻訳者殺害事件は、私がおよそこの手の問題に関係する本の中でもっとも強く薦める『表現の自由を脅かすもの』にも特筆すべきものとして扱われていた。残念だ。

 2月のムハンマド風刺画事件の時も、私が知る限り日本のマスコミは皆「人の心を傷つけるのはよくない」的な触らぬ神に祟りなしの姿勢を貫いた。

 表現の自由が保証されることなしに存続できないマスコミからしてそんな体たらくでは、五十嵐一氏も報われまいと思ったのを憶えている。

 風刺画事件関して表現の自由とからんだまっとうな議論に行き当たったのもムハンマドの風刺画(1)フランスのメディアはなぜ火中の栗を拾うのかぐらしかなかった。*1

 表現の自由の概念が持つ意味について理解している人は少なく、多くは「表現の自由」とは「政府が報道を規制すると大本営発表になっちゃうからだめだよ!」ぐらいのものだとしか思っていないのではないかと思われた。

 中国にも共産党が気を悪くしないような表現の自由はあるし、北朝鮮にだって金正日将軍の心を傷つけないような表現の自由はある。誰も傷つかないような表現は誰も弾圧しようとは思わないのだから、最初から自由を保障する意味などない。

 「表現の自由」とはまさに「(誰かが)許されるべきではないと思うような表現の自由」に他ならない。

 ではそもそも「許されるべきではないと思うような表現」を保障しなければならないのはなぜかという疑問を持てる人には『表現の自由を脅かすもの』を読んでもらいたい。さすがに1エントリに書ききれるようなものではない。

 しかしあえてひとつだけ言うならば“人の心を傷つけてはいけない”という一見文句のつけようのない原則がうまくいかないのは、人の心が基本的に善良なるものであるという性善説に基づいているからだ。これは全然正しくない。

 むしろ人は間違ったことよりも真実の方に心が傷つけられる事が多い。たとえば魂の救済を説く宗教家と魂などないという大脳生理学者が対立したする。どちらの意見が人の心を傷つけるものか、どちらが処罰されるべきか、誰がどうやって決めるというのか。

 それを自分(たち)以外の誰かに任せて安心して眠れる人間はいない。結局“人の心を傷つけてはいけない”と強調すると「みんな」*2に気持ちの良い嘘が力づくでまかり通る社会にならざるをえないのだ。

*1:もちろん探せばもっとあったのだろうが。
*2:という名の多数派あるいは権力者。

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