2011 6/5

ターミネーター2 エクストリーム・エディション (初回限定生産) [DVD]

 Minecraftをプレイしながら、BGMとしてテレビの『ターミネーター2』流していたら、最後の方のあるセリフだけが妙に意識に引っかかった。

 人間がなぜ泣くのかわかった、俺には涙を流せないが

 の、

  • 俺には涙を流せないが

 という部分だ。

  • 俺には涙を流せないが △

 は、どうしても日本語として何かおかしいように感じる。おかしくないように置き換えるなら、

  • 俺には涙を流すことはできないが ○

 だろうか。

  • 俺には涙は流せないが ○
  • 俺は涙を流せないが ○
  • 俺は涙は流せないが ○

 でも、微妙なニュアンスの違いはあっても、おかしくはない。

  • 俺には涙を流せないが △
  • 俺には人を殺せないが △
  • 俺には涙を流すことはできないが ○
  • 俺には人を殺すことはできないが ○

 という具合に、話題を変えても結果は変わらないので、意味的なものというよりは、文法的なもののように思われる。しかし、どうしてもきっちりした説明はできない。

 誰か日本語文法に詳しい人はいないだろうか? この日本語がおかしい理由、あるいはおかしくない理由を、ズバッと説明してほしい。気になって仕方がない。

追記

 早速だが、Twitterで言語学者の田川拓海先生から、

日本語文法の研究では「〜に(は)〜を 状態述語」という格パターン(組み合わせ)がダメだということは古くから指摘され、おおよそ事実として受け入れられています。とりあえず。

 というツイートをいただいたので、私の感覚がおかしいだけというわけではないようだ。

おまけ

 おかしい日本語つながり。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2010 9/21

(本文とは無関係)

 私は「句読点」という言葉を見るたびに一瞬混乱する。どちらが「句点」で、どちらが「読点」だったか?

 混乱するといっても、もちろん間違えるという意味ではない。筆記式のテストであっても早押しクイズであっても、絶対に正解はする。

 しかし、正解にたどり着くまでに、不当に長い時間がかかっているように感じるのだ。句読点が憶えにくいのはなぜか?

 歴史的経緯で意味と内容が食い違ってしまって憶えにくくなっている言葉は、しばしばあるが、この場合には当てはまらない。句点は句の区切りの点だから句点で、読点は読む時の区切りの点だから読点だ。意味的におかしなところは何もない。

 問題はおそらく空間的な配置の方だ。文の中で句点と読点が並ぶ場合、言うまでもなく句点は必ず最後に来るので、

  • 【、】【。】

 の順番になる。しかし、句読点という語では、

  • 【句】【読】点

 と逆の並びになっている。この位置的な逆転を脳内で元に戻すために、余計なプロセスが要求され、それが一瞬の混乱の原因となっているのではないか。

 仮説が正しければ、この混乱を解消する方法は簡単だ。「句読点」の代わりに「読句点(とうくてん)」という言葉を使い、語句上の位置を空間的な配置に合わせてしまえばいい。

 読句点、読句点。うん、覿面に憶えやすくなった気がするぞ。ググったらすでに3年以上前に同じことを提唱されている方もいたので、私だけというわけでもなさそうだ。今後、実践しよう。

おまけ

 逆順→逆再生(下ネタ注意!)

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2010 6/5

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

 『健康帝国ナチス』に出てくる言葉。ヘルベルト・メルテンがどういう人かも、どういう文脈で言ったのかも知らないのだが、なかなかうまい言葉だと思う。ちょっと前に読んだ『平気でうそをつく人たち』とも共通する話。

 要は「悪」と一口に言ってもいろいろあって、なにも北斗の拳のモヒカンがやるようなヒャッハー的わかりやすい悪ばかりではなく、もっと微妙・巧妙でしかもありふれた悪があるということ。

 『平気でうそをつく人たち』の内容をうまいことまとめているところがあったので引用させてもらう。

  • 邪悪な人たちは、自身の罪悪を認めない。
  • 多くの場合、堅実な市民として生活している。
  • 彼らの犯罪は隠微であり表に現れない。
  • 自分自身には欠点がないと思い込んでいる。
  • 自分自身の罪悪感に耐えることを徹底的に拒否する。
  • 自分の行為を隠蔽するために他人に罪を転嫁する、スケープゴートにする。
  • 世の中の人と衝突すると、必ず他人が間違っているために問題が起こると考える。
  • 自分自身の欠陥を直視する代わりに、他人を攻撃する。
  • 自分自身の中の病を破壊する代わりに、他人を破壊しようとする。
  • 道徳的清廉性を維持するために絶えず努力する。
  • 他人が自分をどう思うかという点に鋭い感覚を持っている。
  • 善人であろうとはしないが、善人であると見られることを強烈に望んでいる。
  • 自身の邪悪性を認識していないのではなく、その意識に耐えようとしない。
  • 邪悪な人の悪行は罪の意識から逃れようとして行われる。
  • 社会的な対面や世間体を獲得するために人並み以上に奮闘し努力する。
  • 地位や威信を得るためには熱意を持って困難に取り組むこともある。
  • 自身の良心の苦痛、自身の罪の深さを認識する苦痛を耐えることができない。
  • 自分の正体を照らす光を嫌う。
  • 自分中心的な行為が他人にどのような影響を及ぼすのか考えない。

(【読書会】『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック) 第48回桂冠塾: 市民はたさん の 普通の感覚?)

 キーワードは「嘘」と「正当化」だろうか。頭――身体の首から上という意味ではなく理性の意――がおかしいわけではないから、自分が嘘をついていることはちゃんとわかっている。

 しかし、「俺が善意で嘘をついてやってるのに信じようとしないなんて、なんという心のねじ曲がった奴だ許せない!」みたいな独特の正当化をする。

 ネット世界ではしょっちゅう見かける話だし、今の首相――とか書いてるうちに前首相になってしまいそうだが――なんかもそれかもしれない。ひとつ頭に置いておくといいのではないか。

おまけ

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2010 2/19

(本文とは無関係)

 強者の論理っぽくてあまり好きな言葉ではないのだが、こう表現するしかない経験をした。

 具体的に言うと、容易には取り戻せないアナログ情報をオペレーションミスでロストした。

 ……と思ったら、後になって昔自分で別のところにスペアを保存していたのを発見したのだ。

 ものすごく下らないことだけど、とてもうれしい。

おまけ

 地獄から天国。第4回MMD杯本選はレベル高すぎて困る。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2009 8/20

パンセ (中公文庫)

 人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これを押し潰すのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりも一層高貴であるだろう。なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれらについては何も知らない。

 それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。それゆえ、われわれはよく考えるように努めよう。そこに道徳の根源がある。

パスカルパンセ』)

 考える葦――私が私の尊厳を求めるべきは、空間に関してではなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても私は私以上に大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって、私は宇宙を包む。

(パスカル『パンセ』)

 時間ないので『紙』のゴミ箱から没ネタ救済キャンペーン実行中。あーやっぱりパンセはいいよパンセ。

おまけ

 パンダもいいよパンダ。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2007 12/25

(本文とは無関係)

 手本、つまり手引き書のことをマニュアル(manual)と言いますな。手動操作のことをマニュアル操作とも言います。手の爪に塗る化粧品をマニキュアと言いますが、もしかしたら「マニ」の部分が「手」という意味なのかいなと考えざるを得ませんな。

 実は本当にそうで、ラテン語の「手」manusに由来するらしい。

 足の爪に塗る化粧品はペディキュアだから、「ペディ」はたぶん「足」だろう。「足で操作する」に当たる言葉はあるのかな。あるとしたら……ペデュアル? なんだそれ?

 う〜ん、ペデュアル……ペデュアル……あ、「ペダル」か。

 語源の話はなかなかに面白いものだ。記憶が混乱してなければグールドのエッセイからの受け売りだけど、なんの脈絡もなく思い出したのでメモ代わりに。

おまけ

 足というか足腰が。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2007 12/23

神と科学は共存できるか?

 『神と科学は共存できるか? 』と『神は妄想である』の話も書きたいのだけどまだ書けてない。

 本全体の主題とは関係なく、この「ミシガンのネズミ」という言葉は、これまでネット上の論争などを見ていてたまに言いたいと思っていた概念を簡潔に言い表す言葉として使えそうだからメモっておく。

 広範な一般化はつねに、その境界に例外や「しかしながら」という微妙な領域を――主要な問題点の説得力を無効にすることなく、また傷つけることさえなく――含むものである(私の仕事である自然史ではこの現象を、誰かが一般的な進化原理について主張すると、必ず部屋の後ろから甲高い声で異議を唱える分類の細部の専門家に敬意を表して、「ミシガン産のネズミ」とよく呼んでいる――「なるほど……しかし、ミシガンにはこんなネズミがいて……」)。

 専門家の間では、例外や「しかしながら」に注意が向くことは適切である。例外や「しかしながら」は、学問を刺激して最高水準にまで高める興味深い細部なのだから。(たとえば、進化理論の私の同僚たちはいま、ある限定された程度のラマルク的な進化がバクテリアの一定の現象においては起こっているのかどうかをめぐって、極めて健全な論争に関わっている。しかしながら、この問題がどれほど魅力的で強烈であっても、進化の事柄の一般的な成り行きではダーウィン的なプロセスが支配的だという、証拠がよくそろった結論に変更をもたらすものではない)。しかし、専門家が境界におけるぐちゃぐちゃしたことに強い注目を適切に向けることが、中心的な原理への同等に有効な広いスケールの注目に異議を唱えたり、それを脱線させたりするものであってはならない。

おまけ

 ネズミ繋がり。なんで消されないんだろうこれ。

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する

2007 10/24

(本文とは無関係)

 投げっぱなしエントリ。一世を風靡したさいたまAAの魅力は一体どこにあったんだろう?

 AAの魅力もあったかもしれないが、それよりは音韻的なものだったような気がしている。「sa i ta ma」。

 当時からいろいろな県名や全く関係ない言葉に置き換える試みがあったが、それらを見ながら面白さを保存するものの共通点を突き詰めていくと、どうも母音の並びに関係ありそうだという結論に達した。

a i a a

 県名に関係なくてもたとえば海原海原〜なら通じる。山岡山岡〜ではだめだ。

 オウム選挙ソングのasahara連呼がインパクトあったり、地名のakihabara が異様に格好いいのとなにか関係があるか? 単純にa 音は強いのか? もっと一般的な法則はあるのか。何かに応用効かないか?

 それともコピーライターとかの職業の人には常識の範疇のことなのだろうか?

おまけ

by 木戸孝紀 tags: ブックマークに追加する