2011 7/2

(本文とは無関係)

『悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳』★

 垂水雄二著。いやエロい意味ではなく。「ギニア豚」って何でしょう?

『虫歯になる人、ならない人』★★★

 西川義昌著、白石拓著。合言葉は「歯は臓器」。コンパクトでいい感じ。自分の将来の健康のためにも、小さい子供がいる人は子供のためにも、おすすめ。

『知覚は幻 ラマチャンドランが語る錯覚の脳科学』★

 V・S・ラマチャンドラン著、D・ロジャース=ラマチャンドラン著、北岡明佳監修、日経サイエンス編集部。薄くて大きく図が豊富。錯視・錯覚や関連する脳科学が好きだが、ラマチャンドランの本を読むのは面倒という人に最適。

『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』★★

 荒木飛呂彦著。映画にしか興味ない人には薦めないが、ジョジョ好きは必見。ホラー映画が見たくなった。

『プログラマが知るべき97のこと』★

 大勢の著者が見開き2ページで1テーマずつ語る。有益なエピソード多い。

『世界言語文化図鑑―世界の言語の起源と伝播』★

 バーナード・コムリー、スティーヴン・マシューズ、マリア・ポリンスキー編。見てるだけで面白い。こういうのも生物図鑑と同程度に、学校の図書室とかに常備されるようにならないものかね。

『エイズを弄ぶ人々 疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』★★★★

 セス・C・カリッチマン著。『抑圧された記憶の神話』以来の怖面白さ。忘却からの帰還のおかげで多少は知っていたが、聞きしに勝る悲惨さ。エイズ否定論に限らず、疑似科学あるいは陰謀論一般についての本としても大変有用。おすすめ。

『海賊の経済学 ―見えざるフックの秘密』★★★★

 ピーター・T・リーソン著。すごく面白い。shorebird先生のまとめが非常に正確なので、それ見て興味がある人はぜひ。

おまけ

 無法と経済活動。

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2011 2/19

(本文とは無関係)

 将来書こうと思っているテーマだったのだが、何年後になるかわからないので、概略だけでも先に書いておこうと思う。

 ほぼ以前Twitterでつぶやいたものを清書したのみである。

 過去の漢字廃止論の経緯などには全く関心がないため、ここで言う「ひらがなすいしょう論」は「漢字廃止論」と必ずしも同一ではなく、

  • 現在ネット上で広まっている漢字を廃止ないしは減少させてひらがなで日本語を表記すべきという主張

 ぐらいの意味と考えてもらいたい。たとえば今すぐ思い当たる範囲では、あべ・やすしさん等の。

 結論から先に言うと、私はこの主張をしている人達の善意を疑うことはないが、絶対うまくいかないだろうから止めてほしいと思っている。

 それは、仮に共産主義者が真剣に経済の平等と人々の幸福を願っていたとしても、現代において共産主義を支持するわけにはいかないのと同じことだ。

 共産主義との類似性を言うのは単なるネガティブキャンペーンではない。この概略では大幅に省略せざるを得ないが、本当のテーマは、

 という20世紀を代表する誤りの共通性の話だ。

 この三つに共通する誤りとは何かというと、あらかじめ決まっている正しい状態、別の言い方をすれば「答え」がどこかに存在し、正しいステップを踏むことによってそこにたどり着けるのだという発想だ。

 たとえば、共産主義では「正しいパンの価格」というものが存在する。それが実際に100円であるかそれとも200円であるかとか、現実的にそれがそうと確かめらるかどうか、といったこととは関係なく、それは確かに実在するのだ。

 これと同様に、ひらか゛なすいしょう論の考え方では、「正しい言葉」というものが存在する。その正しさの根拠がたとえ何であれ、たとえば「社会的弱者にも使いやすいようにするため」だとか、どんな素晴らしいあるいは素晴らしくない理由を考えていたとしてもとりあえず関係ない。

 とにかく「正しい言葉」――あるいは少なくとも今より正しい言葉――というものが存在すると思っている。そして現在の言葉が「正しくない」理由は、何か(自分たち以外の)人間が馬鹿だったり、邪悪だったりするからだと思っている。

 だがこうした前提は間違っている。最も重大な間違いは、言葉を意味を正確に伝達するための道具だと思っていることだ。「えっ違うの!?」と思うだろうが、全然違うのだ。

 一見ちょっと関係ない話をしよう。私が子供の頃に読んだSF小説*1 で、スパイだか超能力者だかが、すごい訓練をして、ちょっとの言葉でものすごく沢山の意味を正確に伝達できる「超高速言語」とやらを身につける、というくだりがあった。

 これ、どうしてSFなんだろうね?

 むしろ、それが当然になっていないとおかしいのではないのか? どうして人間の言語は、ひらがなすいしょうの人たちが主張するみたいに、それどころかもっと極端にこのSFみたいに、単純明快で効率よくなっていないのだろう?

 言語が意味内容を正確に伝えてマンモス猟を成功させるためのものだったら、厳しい自然選択の力によって、とっくにそうなっていないといけないはずではないか? 現実の言語の方がよっぽどSF的な存在ではないのか?

 現実に存在する偉大な詩や小説、それらを創ることができるような人間の能力は、いったいどうやって進化できた? これは怪現象としか言いようがないことだ。

 進化論の共同発見者として有名なアルフレッド・ラッセル・ウォレスのような人さえもこの問題には降参して、ついに人間の精神だけは進化によっては説明できず、神によって導かれたものだと考えるようになった。

 彼がそうしたのも無理もないことだ。実は、言語の進化については、今に至るまで中学高校の教科書に載せられるような定説は存在しないのだ。どうにかこうにか説明がつくと思われるようになってきたのさえ本当に最近のことなのだ。

 だから、残念ながらこれから何を言うにしても教科書嫁終了というわけにはいかないのだが、少なくとも、たとえば仮に未来から振り返った時、最終的に正しい説明の一部分として生き残っているであろう重要な指摘は、

  • 言語能力は人間の性淘汰上の適応指標形質として働いている

 ということだ。

 これは、言われてみれば全く当たり前のことだ。あなたはお見合いに臨んでいるとしよう。その人と一生添い遂げねばならないとする。子供が欲しかったら子作りもその人としなければならないとする。以下のうち誰を選ぶ?

  1. 美形で言葉が巧みだけど一文無しの人
  2. 金持ちで言葉が巧みだけど二目と見れぬ不細工
  3. 金持ちで美形だけど言葉が話せない*2

 これだけの想像でも、ほとんどの人が重要だということに同意するであろう経済力や外見に比べても、勝るとも劣らないぐらいに言語が重要だということは明らかだ。

 世界一モテる人間は世界一の金持ちビル・ゲイツでも世界一の権力を持つアメリカ大統領でもなく、一流のスポーツ選手や歌手だ。スポーツ選手がモテるのは当然として、言語や音楽を操るのがうまい人がなぜモテるのか?

 当然のことの確認から始めよう。スポーツが得意な人がモテるのは、言い換えれば、スポーツができる人を好ましいと思う性質が人間に進化してきたのは、それがダーウィン的な意味で優れていることを示す正確な信号だからだ。

 より早く走ったり、より正確に動いたり、より重い物を持ち上げたりといったことは、肉体的に本当に優れていないとできないことだからだ。そのような日常的な観点からは不当に大きなコストを負担できるということが、嘘やハッタリではなく実際に優れているということを証明することになる。

 そろそろ勘がいい人は、次にどういう話になるかわかるだろう。この観点では、言語を操ることはいわば精神のスポーツであり、現実に存在するすばらしい小説や詩や歌などは、いわば脳のオリンピック競技なのだ。

 これ以上詳しい説明は省略するが、この性淘汰の再評価によって、従来説明がつかなかった人間の能力、特に言語は、孔雀の羽が実在することが不思議でもなんでもないぐらいには、不思議でないものになってきた。

 重要な概念は【コスト】だ。日常生活より楽なことをやっていては、それはスポーツにならず意味がないように、負担がかかることこそが重要なのだ。

 言語が意味内容を伝えるためのものだと考えている時には、当然コストは少ない方がよいということになる。言語はできるだけ簡単でわかりやすいほうがよい。そう、ちょうど狩りや共同作業に必要十分なくらいに。

 しかし、コスト自体が重要だという観点からは、全く違う結論が出てくる。つまり、言語をもっと簡単でわかりやすく、誰でも使えるものにしようということは、言語がそもそも生まれ今のようなものになった原因でもある最も重要な機能を台無しにしてしまえという主張になるのだ。

 これもまた、言われてみれば当たり前のところがある。

 超有名な不朽の名作、ジョージ・オーウェル1984年』で、ニュースピークというものが出てくる。説明は省くが要するに、極端に簡略化された英語だ。エスペラント語を参考にしたのではないかとされている。

 ニュースピークがなぜこれ程までに人間性に対する冒涜と感じられるのか? 素晴らしい効率性と単純性に美しさを感じてウットリとなってもいいはずではないか? なぜそうではないのか?

 なぜ、この感覚が英語を母語としない人にまで広く共有されうるのか? 英語話者のみがそう感じるのであれば、たとえば「自分たちと違う言葉を話す人に対する警戒感」など従来から認識されている理由だけで説明がつけられるかもしれないが、明らかにそうではない。

 私が初めて『1984年』を読んだ時、それが不思議で不思議で仕方なかったが、今はもう不思議とは思わない。そもそも、それが当たり前だったのだ。おそらく何十万年も前からずっと。

 たとえネアンデルタール人であれ、クロマニヨン人であれ、北京原人であれ、人類が簡単すぎる言語にアンチヒューマニズムを感じなかったことなど、おそらく一度もないのだ。

 コスト。途方もなく複雑で絶えず変化する言語を流暢に操るという活動にかかる途轍もなく無駄なコストが、優れた者あるいは自分たちの仲間を見分け、劣った者あるいはよそ者を排除する、という機能を実現可能にしている。

 つまり、意外と思う人もいるかも知れないが「言語の難しさが、差別や排除に繋がっている」という一部のひらか゛なすいしょう論者の発想は、実は的外れではない。めちゃくちゃ正しい。

 むしろ、問題はそれが正しすぎるということだと言ってもよい。そう正しすぎる。言語は元々そのためのものなのだ。*3

 つまり、ひらか゛なすいしょう論の主張は、肉体的なことに置き換えれば、

  • みんな! スポーツなんて無駄なことは廃止して代わりに鍬を振るうようにすれば、腹も減らず怪我もしないし、余分の食料も増えてみんなハッピーだよ!

 と言っているようなものだということだ。

 当たり前だが、その主張がいかにもっともらしくとも、一夜にして人々がスポーツに魅力を感じなくなったりしない。突然スポーツ選手がモテなくなったりしないし、イチローがバットを鍬に持ち替えたりもしない。

 仮にみんながみんな本当にそうすればハッピーかもしれないが、無論その仮定が成り立つことはない。仮にみんながみんな私利私欲を持たず公平に働けば共産主義だってうまくいくかもしれないが、現実には成り立たないのと同じことだ。

 ファミコン直撃世代の私は、ひらがなが読みにくいというひらか゛なすいしょう論に対してよくなされている反論には全く同意しない。当然のことながら、慣れたらむしろ読みやすいだろう。

 現在ネットでひらか゛なすいしょう論が多少なりとも追随者を産む程人気がある(≒格好いい)のは、まさにそれが、ほとんど誰もやってない珍しい(≒書くにも読むにもコストのかかる)ことだからだ。多くの人がするようになり、慣れてしまったら、それは誰でもより簡単にできることに過ぎなくなってしまう。

 おそらく現在ひらか゛なすいしょう論者は「ひらがなが読みにくい」と言ってくる人々を憎んでいるだろうが、そう言ってくれる人がいなくなったらおしまいなのだと思えば、もう少し仲良くできるのではないだろうか。

 大勢がやるようになっても人気を保とうとするならば、もちろん漢字も見事に使い最高に複雑で優雅で難しい表現で主張するしかないだろう。しかし、それはもちろん、もはやひらか゛なすいしょう論ではない。

 結局自己否定的なのだ。

 エドワード・オズボーン・ウィルソンは何かの本で「マルクスは理論を適用する種を間違えたのだ」*4というようなことを言っていた。

 人間性がおそらく数十万年・数百万年かけて形成されたもので一夜どころか一世代でも到底変化させられないものである以上、このジレンマを逃れて自発的に受け入れさせる方法は私には思いつかない。人類を滅亡させるほうがまだ簡単だろう。

 無理にでも受け入れさせたかったら強権をもってするしかない。それこそ本当に『1984年』のように。それを真剣に望む人はいないと思いたい。

 差別や排除に対する問題意識から主張している、私の考えるレベルの高いひらか゛なすいしょう論者の方々に言いたいのは「あなたを尊敬するが、だからこそその望みのない道にリソースを割くのはやめて、他を当たってほしい」というものだ。

 逆にレベルの低いひらか゛なすいしょう論者には、「自分が魅力を感じないもの・自分が理解できないものは、この世からなくしてしまった方が世のため人のためだ」という最も危険なタイプの正当化の誘惑に弱い人が混じっているように見える。

 最低なのは単に「合法的」に表現できる唯一の対中エスノセントリズム(自文化中心主義)として漢字廃止を主張し、「やまとことばはうつくしいでしょう?」とかなんとか言ってる奴。

 こうしたレベルの低い人々に対する反論は、ここでわざわざするまでもないと思う。

 本来この数十倍・数百倍の字数が必要な話なので、納得いかないことも多いと思うが、そもそも今この問題に割くリソースがないということがこの概略を書いた動機なので、質問にもよほど面白いor有益と思うものでなければ答えられない。

 代わりと言っては何だが、重要な参考文献をいくつかあげておくので、興味がある人はまずそれらに当たってもらいたい。この問題とは関係なくおすすめできるものばかりである。

*1:後で調べたらロバート・A・ハインライン『超能力部隊』だった。
*2:たかだかここ数千年・数百年の発明に過ぎない手話や筆談は存在しないものとする。
*3:もちろんそのためだけのものではないが。
*4:アリなら共産主義がうまくいっただろうという意味。

参考文献

おまけ

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2010 12/23

(本文とは無関係)

 忙しくて長いの書く時間がないので没ネタ発掘計画その一。

 そんなふうに考えていた時期が私にもあった。つまり、

 「差別語」の言い換えなどというのは、事なかれ主義によって無駄なコストを増やしているだけであり、差別の解消には全く繋がらない。事なかれ主義からではなく真に差別に反対する心ある人ならば、できる限りそのような言い換えには反対すべきだ。

 と思っていた時期が確かにあった。

 だが、後になって私の中ではこの考え方はかなり修正され、事実上否定されている。

 確かに差別語問題は、無駄で無意味なイタチごっこのエピソードに充ち満ちているように見える。

 いや、見えるだけでなく、実際に無駄で無意味なイタチごっこ以外のなにものでもないとしか思えない。言い換え・書き換えには実際に大きなコストがかかっているように思われる。

 単に手間暇がかかるだけではなく、過去の情報を検索したり理解したりすることが難しくなるというコストもかかる。

 生物の学名に「死んだ」言語であるラテン語が使われ続け、一度ついた学名は、意味内容がどんなに間違っていても絶対に変えないのは、主にそのためだ。

 最近の話で言えば、従来「痴呆症」と呼ばれていた症状は「認知症」と呼ばれるようになった。なんとも意味不明極まるアホな命名に思える。

 このまま*1ほんの数十年もすれば、「認知」という言葉の価値が、認知症の実体に引き寄せられて下がっていき「認知症」なんて言葉はマイナスの印象が強すぎて我慢できなくなる時期が必ずやってくる。

「やーいニンチニンチー」
「これ! ニンチなんて言葉を使っちゃいけません!」
「えー? なんでー?」
「いけませんと言ったらいけません!」

 などという光景が現出するようになり、また別の言葉に言い換えがなされるだろう。そして再び、間違いなくコストがかさむだろう。

 こうなると、やっぱり言い換えなんて止めさせるべきなのでは、という感想が強くなるかもしれない。

 だが、確認しておきたいのは、こうした変遷はいわゆる差別語に限らず、言語の全領域で常に起きていることであって、それを止めることは、時間を止めることができないとの同じぐらい、まったく不可能な話だということだ。

 わかりやすさのために誰にでも関わりのある例を出そう。

 日本語におけるトイレの一番古い言い方は「厠(かわや)」だそうだ。語源が「川屋」なのか「側屋」なのかはともかく、どちらにしろ最古の時点ですでに婉曲表現であることに注意されたし。

 その後「厠」から「はばかり」「手水(ちょうず)」になり、もっと後になると「お手洗い」「化粧室」「ご不浄」になり、現代は英語などの外来語を使って「トイレ」「バスルーム」「WC」などと呼ばれている。

 当然ながら、う○こはもう何億年も前からウン○だ。基本的に全く変わっていない。なので、言葉の方が変わってこざるをえなかった。言葉というのはそういうものなのだ。

 さらに、トイレを「化粧室」と呼ぶことが定着してくると、今度は「化粧」という言葉の価値が○ンコに引きずられて下がってくる。

 その結果(だけではないが)、コマーシャルなどでは、最近は化粧のことをまず化粧とは言わず、メイクと言ったりコスメと言ったりするようになっている。*2

 一時が万事で、言葉は人間の意識(や広告費その他諸々)をめぐって激しく淘汰しあう関係にあり結果として進化していく。

  • 「いわゆる“差別語”の言い換えは差別の実態を何も変えない」

 と、かつての私を含む言い換えの批判者は言うだろう。そうかもしれない。私も、今でも多分そうだと思っている。*3

 しかし、仮に「痴呆症」を「認知症」と言い換えることを禁止するなら、「化粧」を「コスメ」と言い換えることも同様に禁止しなければ*4痴呆の話題は、現在すでにそうである以上に化粧(その他諸々)の話題に押しのけられてしまうことになるだろう。

 そして痴呆老人やその周辺の社会の実態は(少なくとも相対的な意味で)今まで以上に悪化していくことになるだろう。

 本当にただ何も変えないでいるためには「差別語」の批判や言い換えのような地味で無意味に思える活動も常に続けられなければならず、それをしなければ今以上に悪くなる。

 つまり、これはイタチごっこというよりは、赤の女王――同じ場所に留まり続けるには走り続けていなければならない――にたとえられるべき状況だということである。

*1:近年の科学の発展を考えると、アルツハイマー病や痴呆症一般に劇的な治療法が見つかって、問題の前提そのものが変わってしまう可能性もあるが、それはないものとしよう。
*2:コマーシャルというのは消費者に要るモノ要らないモノを問わず、少しでも高く買わせるために、もっとも厳しく言葉の新鮮さ・格好良さを競わなければならない舞台だから、そこでは最先端のミームが競っている傾向があるのだ。
*3:効果があるとしても、新しい物事は単に新しいというだけで注目され・注意を払われるから、その分うまくいく(ことがある)というだけだろう。これにはなんとか効果という名前がついていたと思うが思い出せない。
*4:もちろんそれは絶対に不可能だ、ビッグブラザーになってニュースピークを制定するぐらいの覚悟でなければ。

おまけ

 空耳の定着する過程って典型的なミーム淘汰だと思う。

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2010 11/27

英語耳[改訂・新CD版] 発音ができるとリスニングができる

 『英語上達完全マップ』にはなかった内容で、かつやっておいた方が良さそうだと思った分野は、発音の復習。

 作者の語りや最後の歌の部分は無視して、2章から5章のみの利用。確かに発音も聞き分けも結構できるようになってきたように思える。

 余談だが、舌の位置を意識しながらやっていると、音声言語は耳で聞き取ることのできる舌・唇・喉のジェスチャーであるという説が、ますます納得できるような気分になってくる。

おまけ

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2010 11/7

言葉は身振りから進化した―進化心理学が探る言語の起源 (シリーズ認知と文化 7)

 言語の起源については大昔から、神話的なものから、こんなのみたいに多少は実証的なものまで、いろいろな説があったわけだが、それが「音声」言語であることは、比較的近代になるまで自明のことと思われていた。

 しかし最近は、音声言語より先に手話のようなジェスチャー言語が先にあったのではないかと思われている。この説はわりとよく聞いていて正しそうだと思っていたが、これ一本に絞った本は初めて。

 声と言語は同じではない。むしろまったく異なる別個のものだ。たとえば笑い声・泣き声・うなり声・悲鳴を、それぞれ全く正常に出していたとしても、発する音声がそれだけだったとしたら、その人はしゃべっているとは普通言わない。

 対して、手話は音声でこそないが、あらゆる意味で完全な言語の特徴を持ち、その役割を果たすことができる。

 類人猿を訓練しても、喉の構造などのせいもあって、音声言葉をしゃべらせることは全然できないが、ジェスチャーや記号を使って「言語的」なやりとりをさせることは、わりとできる。

 模倣したり統語したり解釈したりする言語的な能力は、顔や身体のジェスチャーに対してまず発達し、それが後に声、すなわち耳で聞き取ることができる舌と喉のジェスチャーに流用されるようになったのでないか。

 やはり、ここまでの考え方は正しそうに思える。

 また、ジェスチャー(手や足)から音声(舌や喉)に移ったことによって、言語から解放された手足が複雑な道具を作ることなどに利用できるようになったのではないか。

 つまり、初期の言語は道具や技術の発達をむしろ抑制しており、これが外れたことが、いわゆる飛躍的大前進に関係しているのではないか、というような話も出てきた。

 これは初めて聞いたが、大胆な発想の転換で面白い話だと思う。正しいかどうかはよくわからない。確かに手話で手作業を教えるのは難しそうだから、あってもおかしくはなさそうだ。

 ただし、自分はそもそも飛躍的大前進という考え方そのものが錯覚で、実際は漸進的なものだったという説の方がありそうだと思っているが。

 二足歩行への移行に関してアクア説支持に傾いているみたいなのだけが非常にアレだが、まあそこが本筋じゃないのでいいか。全体としては面白かった。

おまけ

 手話つながり。

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2010 3/14

エスペラント―異端の言語 (岩波新書)

 将来書こうと思っている「ひらがな すいしょう」問題*1の下地作りのため適当に選んで読んだだけ。

 ……なのだが、正直むかつく。文章を読んでここまで腹が立ったのは何年ぶりか。一言は表出しておかないと収まらぬ。

 いまググった中では、一番近い感想はこれ。

*1:「ひらがな すいしょう」問題自体に入るには、まだいくつかの前置きが必須なので、現時点では何も言わない。

おまけ

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2009 12/3

(本文とは無関係)

 とか言ってたが、本当になった。

 私のATOKはお金と期間をかけてガチガチにカスタマイズされているので、すぐに乗り換える気にはならない*1が、将来的にはATOKもほぼ確実に駆逐されてしまいそうな予感がする。

 とりあえず現在の素の状態でも、MS-IMEよりは万倍いい。MS-IMEを使っていて、ATOKを買うのを渋っている人はぜひとも導入すべき。

 web上の情報から候補を作っているためか「ただしい」と入力したところで「ただしイケメンに限る」が第1候補としてサジェストされるとか、かなりカオスなことも起きる。一般の人までこれを使うようになると、言語環境的にも面白いことになりそうだ。

*1:辞書と統合されていたり、独自入力方式のためにローマ字→かなの変換をカスタマイズしていたりするところが代替できていないから。

おまけ

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2009 12/2

歴史 上   岩波文庫 青 405-1

 有名すぎる本だけど、このエピソードがなんか無性に好き。

 プサンメティコスはいろいろ詮索してみたが、人類最古の民族を知る手段を発見できず、とうとう次のような方法を案出した。生れ立ての赤子を全く手当り次第に二人選び出し、それを一人の羊飼にわたして羊の群と一緒に育てるように言いつけ、その際子供の前では一言も言葉を話してはならぬ、子供はほかに人のいない小屋に二人だけでねかしておき、然るべき時々に山羊を連れていって十分に乳を飲ませ、そのほかの世話もするようにと厳命しておいたのである。プサンメティコスがこんな手筈を整え、こんな命令を出したのも、赤子が意味のない喃語を語る時期を脱したとき、最初にどんな言葉を発するかを知りたいと思ったからにほかならなかった。この計画は王の思いどおりにいって、羊飼は言いつけられたとおりを行なって二年たったある日のこと、小屋の戸を開けて中へ入ると、二人の子供は手を延べて彼のところへ駈けより「ベコス」といった。はじめ羊飼はそれをきいても、そのことを誰にも語らなかった。しかし赤子の小屋へゆき世話をするごとにこの言葉を聞くのが度重なって、羊飼はとうとうそれを王に報告し、王の命令によって赤子を王の前に連れていった。王も自分の耳でその言葉を聞くと、「ベコス」という言葉を使うのは何国人であるかを調べさせた。そして詮索の結果、プリュギア人がパンのことをベコスということが判ったのである。
 エジプト人もその実験の結果から判断して、とうとう今までの主張を譲歩して、自分たちよりもプリュギア人の方が古い民族であることを認めるようになったのである。

(ヘロドトス『歴史』上巻 P161-162)

 なんというか、人間と社会の、昔と変わってしまった部分と変わらない部分が、絶妙に混ざり合ってる感じが好き。

おまけ

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