2008 10/12

落語名人会(41)死神

「人の振り見て我が振り直せ」

 (その6)朝日や毎日の記者たちがまったく分かっていなかったのと同様、死に神コラムを擁護した大半の日本の死刑反対派も、またわかってないと言わざるをえない。特に死に神コラムを擁護しながら「日本の死刑は土人の祭り」とか言って喜んでいた人々には失笑を禁じえない。

 もちろん私は21世紀の人間なので、誰かが土人だからといってそれだけでバカにしたりはしない。だが、土人が土人を土人とバカにしている姿には遠慮なく笑わせてもらう。こんなに滑稽なものはない。

 あなたは死に神コラムにはどちらかというと「寄ってたかって人間を殺しておいてふざけるんじゃない。お前のようなのがいるから死刑がなくならんのだ!」と言わなきゃならないところだったのだ。

 鳩山法相に対抗するため刑務官に「気の毒だ。」なんてリップサービスをするのも、またもってのほかで、どちらかというと「この人殺しめ、お前が地獄に堕ちろ!」と言わなきゃならなかったのだ。

 でもさ、当たり前だけどそんなことできないだろ? だからジレンマなのさ。あなたは、何だかよくわかんないけどヨーロッパ人の真似をしなければいけないということぐらいはわかっている感心な土人だよ。私がほめてやるとも。だがそれだけで満足してもらっては困る。このままでは日本の死刑廃止論議はこれ以上進まないからだ。

 自分が周囲よりも幾分ましな土人だというだけで満足な人以外は、そろそろ認めなければならない。その前提にある哲学を、どれ一つとして本当は理解もせず信じもしていないくせに、「EUをロールモデルとして日本も死刑を廃止しましょう。」だなんて物言いは、ちゃんちゃらおかしいのだ。

 予告した通りEUの文章に戻ろうか。もう一度読んでどう思う? ほとんど一行おきにヤハウェの神様が顔を覗かせているのが今ならわかるんじゃないかな。これまでの繰り返しになるから全部は言わないが、たとえば、

 人間は間違いを犯すものです。

 ってどういう意味だ? 死刑賛成派ってのは「私は決して過ちを犯さない。」というローマ法王かホメイニ師みたいな意見の持ち主ばかりなのか?

 そういう傾向の人が相対的に多そうだ、とはおそらく言えても、一般的にはここはそういう意味ではないよな。これは無意識に無謬のGODという存在を人間と対比しているから出てくるセリフだ。絶対の人命を絶つ仕事は神に任せるべきだという意味なのだ。

 屍を無罪とし、生還させることはできないのです。

 ってどういう意味だ? もしかしてEUの人間は、日本の死刑賛成派というのは「冤罪で死刑にしてしまっても生き返せばいいじゃん」という意見の持ち主だから、その誤りを訂正してやらなければならないと思っているのか?

 もちろん違うよなあ。これまた屍をも甦らせ、永遠の命を与えることのできるかのお方、GODが常に意識の片隅にはあるからこそ出てくるセリフなんだよ。

 理解してる? 信じてる? 本当に?

 もう一回言うが、ここを誤魔化したままではいつまで経っても、日本で(少なくとも自発的な)死刑廃止は実現しないぞ。自分を騙すことはできても、賛成派の意見は変えられない。一般に他人を騙すのは自分を騙すよりずっと難しいのだ。他人の言葉をオウム返ししているだけでそれが可能だと考えるのは、人をバカにしすぎている。

 そんな気持ちのままでいくら訴えても、ただ欧米のものをなんでも無批判に受け売りする出羽守としか受け取ってもらえないだろう。仕方がない。その通りだから。100%死刑廃止論者である私がまず真っ先にそう認めざるをえない。

「死に神」コラムで朝日新聞が「謝罪」 「自らの不明を恥じるしかありません」

 朝日新聞の夕刊1面コラム「素粒子」が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現し、全国犯罪被害者の会(あすの会)が同社に抗議していた問題で、朝日新聞社が同会に事実上「謝罪」となる回答をしたことがわかった。同会はこれを受け入れ、「死に神」問題は1か月あまりを経て一応の決着を迎えた。

 この問題は、2008年6月18日付朝日新聞(夕刊)1面のコラム「素粒子」で、死刑囚13人の死刑執行を命じた鳩山法相について、「永世死刑執行人 鳩山法相。『自信と責任』に胸を張り、2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」と書かれたことに端を発した。

「適切さを欠いた表現だったといわざるを得ない」

 全国犯罪被害者の会(あすの会)は6月25日に「犯罪被害者遺族の感情を逆撫でされる苦痛を受けた」などとして同社に抗議し、朝日新聞社は6月30日付で同会に「鳩山法相を中傷する意図はありませんでした。法相が『侮辱』『中傷』とお受け取りになったとしたら残念です」「ご批判を厳粛に受け止め、教訓として今後の報道に生かしていきます」などと回答した。

 これに対し、同会は回答を不服として7月7日に再度朝日新聞社に質問状を再び送付。同社からは7月14日にこの質問状に対し回答した。7月23日に同会は「真正面から質問に応えることを避けている」「犯罪被害者の質問に真摯に説明するか、謝罪すべき」などと同社に再々抗議していた。

 08年8月1日の回答で、朝日新聞社は「13人の死刑が多いといっているのではない」「件数が適正でないと言っているわけではない」と釈明。「犯罪被害者遺族をはじめ多くの方々からのご批判を踏まえたとき、適切さを欠いた表現だったといわざるを得ない」などとしたうえ、論説副主幹の「自らの不明を恥じるしかありません」というコメントを挙げ、「弊社としても同様に受け止めています」と事実上謝罪する内容になっている。

 全国犯罪被害者の会はホームページで「これで、一連の素粒子『死に神』問題の決着をつけることになりました」とこれを受け入れるコメントを掲載している。

(J-CASTニュース :「死に神」コラムで朝日新聞が「謝罪」 「自らの不明を恥じるしかありません」)

 結局死に神コラム問題は結局朝日の謝罪という形で幕引きとなった。ここまで読んで来た人には明らかなことだろうが、私は死に神コラムを全く評価しない。

 この件を通して、死刑賛成派は「死刑反対派は穢れ意識を引きずった・差別的な・情に流される・遅れた人間であり、自分たちこそ正義の側にいるのだ。」という確信を強めただろう。

 それは誤りではあるが、そう誤解させる根拠がなくもないことは、これまで見たとおりだ。朝日は無駄にねじれを悪化させた。日本でもいずれは死刑が廃止されるだろうが、その日をきっと何年も遠ざけてしまったことだろう。

 何度でも言うが、今しなければならないのは、この根深いねじれとジレンマをよくよく理解し認めた上で「ではどうするのか」を考えることだ。

追記 2009/2/27

 法相が変わってずいぶん経ち、このタイトルのまま続けると意味が分からなくなるので、いったんシリーズ完結とさせて下さい。ちょうど現状の認識からこれからの展望に移るところできりもいいし。続きはいずれ別タイトルをつけて始めます。

おまけ

 異文化交流つながり。昔流行ったのは憶えてるが、これの面白さはいまだによくわからない。

by 木戸孝紀 tags:

2008 7/29

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))

「人類みな兄弟」

 生命の絶対的尊厳性は一神教文化に基づいた概念であり、日本人は誰も本当には信じていない。これと同じ事が万人平等の概念についても言える。

 一神教文化における万人平等は、よく知られているように神の下の平等だ。人間は千差万別かもしれないが、老いも若きも男も女も、無限大のGODの力の前には等しくゼロである。この究極の自己卑下と人命の絶対的尊厳性を両立させうるのも、またGODという究極の矛盾処理装置の御利益である。

 対して非一神教の日本文化で「万人の命の重さは平等である。」と言う場合、それは「人間は千差万別だけど、もめ事を防ぐために、老いも若きも男も女も、私の命の重さも100億LP、あなたの命の重さも100億LPきっかりとして計算する約束にしましょうね。」という程度の意味である。

 あくまで万人平等を(一神教文化の基準で)本当に信じているわけではない。それは争いを防ぐための便法であり、技巧的な決まりごとにすぎない。やや身近な事柄にたとえれば「混雑時には割り込みをせずに、来た順番に行列を作って待ちましょう」というような。

 便法に過ぎないから、それを厳格に適用しようとするのはドライであると感じる。誰に対しても平等に「割り込むな列に並べ」としか言わないのは、法相の表現を借りれば「ドライでカサカサした人たちの考え」である。

 そして、たとえば病人やお年寄りや赤ちゃん連れのお母さんに対しては「皆平等に列に並びなさい」という決まりなど蹴飛ばして、割り込ませてあげるのがウェットで人情味のある、あるべき社会の姿であるというわけだ。

 念の為に断っておくが、もちろん欧米人がお年寄りに席を譲らないと言っているわけではない。私の感触ではむしろ逆だろう。実際に個々人がどう行動するかでなく、どちらが大原則で、どちらがそこからの逸脱であるのかの関係が正反対であると言っているのだ。

 これを念頭においてもう一度法相発言を読み直してみよう。

 だが、大臣が「日本の生命観は自然と共生であり、日本人はウエット」という持論を話し出したあたりから、分からなくなってきた。「死刑廃止論はドライでかさかさした人たちの考え。人の命を奪ったんですよ。何人奪っても死刑がない、そんなドライな世の中に私は生きたくない」

(中略)

 ……分からない。すべての命に死刑囚は含まれないのか。後で元秘書に解釈してもらう。「大臣の立ち位置は死刑囚でなく、遺族。遺族が死刑を望んでいるならその望みを断ち切ることはできない、という意味でウエットなんです」

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 ほらね、全能神の無限の愛を援用しない日本文化の人間にとって、何人殺した殺人犯に対しても「でも生命の尊厳は絶対なんです。それが決まりです。」なんて杓子定規なことしか言わないのはドライ

 そして、たとえば赤ちゃんとお母さんが殺されて、嘆き悲しんでいる遺族がいたら、そんな決まりなんて蹴飛ばして情によって死刑にしたり、逆に犯人がうんと可哀想な境遇の老人だったりしたら情状酌量して減刑したり、と柔軟に対応するのがウェット

 わかるよなあ? いや、もうとぼけるのはやめにしようぜ。私がわざわざ説明しなくても最初からわかっていたはずだよ。だって法相の言う「ウェット」とか「ドライ」が本当に意味不明の寝言なら、それを受けた死刑反対派が決まって自分の方が「ウェット」だと主張し始めるのはおかしいじゃないか。

 言っている方も聞いている方も、それが表しているものを詳細に説明できるほど理解していなくても、やはり心の奥底で意味は通じている。同じ価値観を共有しているのだ。なぜなら同じ文化に属する人間だから。

「何人なら問題なし?」犯罪被害者の会が朝日新聞に再質問(読売新聞 – 07月07日 21:30)

 計13人の死刑執行を命令した鳩山法相を「死に神」と表現した朝日新聞夕刊1面の素粒子欄を巡り、全国犯罪被害者の会(東京)は7日、「何人なら問題ないと考えているのか」などとする再質問を文書で同社に送った。
 「死に神」と表現した理由について、同社は同会の公開質問に対し、文書で、13人の死刑執行を命じたことなどを挙げて回答。同会はこれに不満を示し、再質問した。

(〔死に神〕問題で、「何人なら問題なし?」 – 来栖宥子★午後のアダージォ)

 死刑執行の件数を巡り朝日新聞夕刊1面コラム「素粒子」(6月18日)が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で、全国犯罪被害者の会(あすの会)は7日、朝日新聞社に「質問に正面から答えていない」として、6月25日に続き再度の回答を求める文書を送った。前回は「被害者遺族が死刑を望むことすら悪いというメッセージを国民に与えかねない」と抗議。これに対し同社は「犯罪被害者遺族の気持ちに思いが至らなかった」と回答していた。

(<犯罪被害者の会>朝日新聞に再質問 「死に神」問題で 7月7日19時5分配信 毎日新聞)

 ほら、こういうやりとり見てどう思うよ? 死刑に批判的な朝日の方が人命を数で秤量し、人情に配慮している。そして死刑に賛成のあすの会がむしろ人命と法の絶対性を訴え、数の問題ではないと言っている。

 概ね同等の政治経済レベルにありながら、EUの死刑廃止と日本の死刑存置を分けているのは、まさにその逆の哲学だというのに。なんというねじれた状況。頭が痛くなってくる。朝日が本気で死刑に反対なら「遺族の気持ちなんか関係ありません。当然1人でも駄目です。」と即答できなきゃいけないところだ。

 どうしても聞きたかったことがある。裁判員になって死刑判決にかかわるのは嫌だという理由で、裁判員になることを拒否できるのか。

 答えは意外にもイエスだった。「それはなんとか認める方向に持っていこうとしている。どうしても苦痛が大きいのであれば配慮されるようになると思う」

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 これもまた同じ。自他共に認める非常に日本文化的な為政者である鳩山法相が、民草の「死の穢れになるべく触れたくない、人に押しつけて自分は見て見ぬふりがしたい。」という気持ちを理解し、配慮しないはずがないのだ。

 これを意外と感じた毎日の記者もまた、よくわかっていない。本当なら「せめて公開性を担保するために裁判員には積極的に関わらせるようにして下さいよ。」とでも言わなきゃならないところなのだ。(つづく)

おまけ

..  億円|
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 20,000├               グラフで比較するとそれほど差はない
      |                
      |
 10,000├
      |
      |
      └──━───━──
         wii     PS3

by 木戸孝紀 tags:

2008 7/27

HELLSING 9 (9) (ヤングキングコミックス)

「ウェットとドライ」

 だが、大臣が「日本の生命観は自然と共生であり、日本人はウエット」という持論を話し出したあたりから、分からなくなってきた。「死刑廃止論はドライでかさかさした人たちの考え。人の命を奪ったんですよ。何人奪っても死刑がない、そんなドライな世の中に私は生きたくない」

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 さて、鳩山法相の言うウエットドライは普通の用語では何のことだと思う? たぶん言っている本人もよくわかっていないことだが、これは多神教一神教のことだ。

 大臣は、日本人は木や石などすべてのものに神をみるアニミズム(汎神論者)と考えている。「すべての命を大事にする文明だ。すべてと共生するアニミズムこそ、洞爺湖サミット最大の課題である地球環境を救う唯一の道だ」

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 法相がアニミズムをウェットな考え方と見なしていることは明らかだろう。アニミズム(汎神論)と多神教は今の文脈ではほとんど同じである。どちらも一神教とは対置されるべきものなので今回はまとめて非一神教と呼ぶ。一神教の生命観は非一神教とは大きく異なり、その一神教的生命観がEUが示していたような

  • すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵である
  • 生命の絶対的尊重というこの基本ルール
  • 最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利

 というような死刑全廃の論理を構成している。唯一の全能神を信じていない非一神教徒である日本人は、一神教文化の基準でいう人命の尊さを本当には信じていない。信じているつもりでも本心では疑っているか、間違った意味で信じている。これが今回の眼目だ。

 ちなみに、大臣にそっくりなこと言ってる人たちが欧米にもいるな? 彼らは要するに「地球全体をもっと日本みたいに(捕鯨という一点を除いて)しなければならない」と考えている人たちであって、私は要するに「お願いだからどうかそんな怖ろしいことはやめてくれ」と言っているのだ。これはガイア教シリーズの本流だからそちらに譲る。

「人命は地球より重い」

 日本で死刑反対派が、

  • 人間の生命には絶対的尊厳があるのだから死刑は悪だ。

 と訴えると、賛成派からは、

  • わかった。じゃあ殺人罪以外での死刑は廃止しよう。その代わり1人以上を意図的に殺害したら、正当防衛などの理由がない限り必ず死刑だよね? だって人間の生命の尊厳は絶対なんだから。それ以外の罰で済ますのは悪だよね?

 という反論が返ってくる。反対派が、

  • 冤罪で死刑にしてしまったら取り返しがつかない。せめて終身刑にすべきだ。

 と訴えると、賛成派からは、

  • 冤罪で終身刑にされても取り返しはつかないだろ。冤罪がない方がいいなんてことは当たり前で誰も反対してない。話を逸らすな。

 という反論が返ってくる。そして反対派はこれにまともな再反論が返せない。これは生命の尊厳の絶対性の意味を(一神教文化基準で)正しく理解できていないからだ。

 日本人にとって「人命は地球より重い」という言葉は、テロに屈する時や少年犯罪についてコメントを求められたときに使い勝手のよい、単なるスローガンに過ぎない。内心誰も信じていない。死刑反対派であってもそうだ。

よく「命は地球より重い」「命に代えてでも」「命の大切さ」などというが、空虚な言葉だ。命そのものでもって、なにかを成すことはできない。生け贄は嫌い。

(渡辺さんと死刑のマル激をきく – 来世牧童になるために)

 その通りだ。皆、空虚な空しい言葉だとしか思っていない。

 だが一神教文化においては違う。一神教文化において人間の生命の尊さは∞である。人間の生命はGODから直接与えられたものだ。全知全能の唯一神と比べると全く何の価値もないが、その全知全能の神から与えられたが故に、他のものとは比較できない絶対無限の価値がある命である。

 人間以外の全ては、大空も・大地も・人間以外の全ての生き物も、人間が支配し使うためだけに作られ神から与えられたものだ。(だから他の生き物を食う時にはGODに祈る。)1人の人間の命はまったく文字通りの意味で、人間を除いた残りの地球全部よりも重いのだ、それも無限に。

 だからこそ、人間の生命を絶つことは神の領域に属する権利であり、いかなる人間も政府も手を触れてはならないという考え方が、空虚な言葉に留まらない重みを持つことができる。

 もちろん日本人も人命は尊いと考えている。当然だ。さすがに自分たちの命が(少なくとも実際上)一番大切ではないという教えをわざわざ作り出すほどの間抜けは我がホモ・サピエンスの中にはおらん。しかし、非一神教の生命の尊さは一神教のそれとは性質が大きく異なる。

 たとえば日本では未成年による殺人事件が起きる度に校長先生が「命の尊さを学びましょう。」と言うが、それはもうちょっと正確に言うと、「人の命には、たとえば100億ライフポイント(以下LPと表記する)という、とても大きい尊さがあるのですよ。」という程度の意味である。

 牛は500LPぐらいあるかもしれない。ネズミは3LPでサンマは1LPぐらいかな。米粒は0.0001LPぐらいで、大腸菌は数億分の1LPぐらいだろうか。もちろん人間とは大きく異なるが、比較可能な命の重さである。(だから他の生き物を食うときはその魂に祈る。来世はそいつに生まれ変わるかもしれないのだし。)そして地球はその全ての足しあわせなので、当然1人の人間よりも最低67億倍以上大きい。

 「人命は地球より重い」などというのは、よくて空しい言葉、悪くすれば思い上がった傲慢な考えである。このような非一神教的な倫理では、いくら誰もが尊い100億LPの命だからといって、他の人間を殺した殺人者の命の価値は、100億引く100億でゼロとなり、複数人殺害した殺人犯のそれはマイナス数百億LPということになる。

 対して一神教的な倫理では、人命は無限大の大きさだ。∞同士の足し算引き算に意味はない。少なくとも有限の数同士の足し算引き算と同じような意味は。たとえば、全ての自然数(∞個)から全ての偶数(∞個)と全ての3の倍数(∞個)と全ての5の倍数(∞個)を取り除いた残りはやはり∞個である。

 従って、たとえ何人・何十人殺した殺人犯であろうとも、その命の価値はやはり∞のままであり、やはり(より上位の無限大であるGOD以外の)何人もそれを奪う正当性は持たないということになる。たとえ神の名が、もはや法律の条文に現れることがなくても、これが一神教文化の死刑全廃を裏打ちする哲学である。

 日本文化の下にいる死刑反対派はこの大前提を持っていないので、賛成派の反論に自信を持って答えることができない。これは何らかの議論や調査の結果として出てくるものではない。持っているか、持っていないかだ。持っていないものは出せないのである。(つづく)

おまけ

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2008 7/24

ドラゴンクエスト―ダイの大冒険 (33) (ジャンプ・コミックス)

「地獄の劫火」

 「だって正義のために死んでもらっているわけでしょ。他人を無残に殺して生き延びていてはいけない、というのが日本の法律であり、世論だ」。熱弁は続く。「遺族は極刑を望んでいる。大部分は1日も早い死刑執行を願っている。一生忘れることのできない傷であっても、正義の実現により、墓前に報告できる。うちの家族を殺したから報いを受けたんだよ、と。そういう気持ちになろうとしているときに、死に神が連れて行ったと言われたら、どう思うか

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 再び鳩山法相に戻って、さてどう思う? 「報復感情(・A・)イクナイ!」? はいはい、よくできました、えらいえらい。でも私が目を向けたいのはそこじゃなくて、今あなたが当たり前だと思ってスルーしてしまったところだ。この台詞は「死に神に連れて行かれると、報いを受けたことにはならない」という前提が自明のものとしてあらかじめ共有されていなければ、そもそも意味を成さないということに着目してほしい。

 死に神は今風に言えばゾンビみたいなもので(そういや黄泉の国のイザナミは見た目もゾンビだな)、近づく人間を襲って喰らったり感染したりするが、そこには「死とはそういうものだから」以上の理屈はない。何か理論や根拠があって、たとえば罰を与えようと思ってそうするわけではない。たとえ法相と違って死刑反対派であっても日本人はこの前提を共有できる。だからスルーした。

 だがしかし、それはちっとも当たり前のことではない。全く当たり前のことではないのだ。死神に連れていかれた者は、そうではない。死神に連れて行かれた者には、報いがある。それも、必ず。全知全能のGODが主宰する最後の審判だ。そこで全ての人間は善人と悪人に分けられる。善人は永遠の命を与えられ、悪人は永劫に地獄の火に焼かれる。

 もちろん日本にも地獄はある。しかし、日本の地獄は全然ぬるい。あくまで次の生まれ変わりまでの一時的な反省のための場所に過ぎない。所詮六道の1つで、人間界や天界とすら、変わらないとまでは言わないが、併置されうる程度の存在だ。*1

 これは一神教の地獄とは全く違う。現実の刑罰にたとえるなら、「市中引き回しの上打ち首獄門」と「自宅謹慎一週間」ぐらいの天地の差がある。おまけにヒンドゥー教のように功徳を積めば来世で高いカーストに、罪を重ねれば低いカーストに生まれるというような決まりすらない。「死ねばみな仏」であり生前の善悪は全て「水に流される」

 このような宗教感覚を前提とする日本文化では、凶悪犯罪者が刑務所で天寿を全うすればその罪は宇宙のいつどこでも償われず「殺り得」ということになってしまう。避けられない結論である。しかし、逆に言えば別の宗教感覚では避けうるかもしれないということだ。

 一神教文化における、殺人者に対する現世での寛容は、その犯罪者が無実でなく悔い改めもしていないなら、死後必ずや全知全能の神によって正しく裁かれ永劫に地獄の火で焼かれるのだという確信と表裏一体である。

 死刑があれば死刑となるべき凶悪犯罪者を、税金を使って一生刑務所で養い、衣食住になんの不自由もなく安楽に生活させて天寿を全うさせてやることをさしたる葛藤なく*2許容できる、EUの死刑廃止国の国民は、家族を殺されても少しも恨みに思わない仏様のような人間ばかりというわけではないのだ。*3

 これはまさしく妄想ではない宗教の御利益と言っていいところだろう。たとえば国家が死刑囚にガソリンをかけて焼き殺したらそれは「残酷な刑罰」とされ、許されないだろう。当たり前である。しかし神ならもっと残酷でも許される。なぜなら神だから。

 「個人よりも国家よりも当然道徳的であるべき神が国家より残酷な刑罰を加えても非難されないのは矛盾ではないか?」と、ドーキンスの兄貴のようなガチガチの無神論者なら言うかもしれない。(うろおぼえだが『神は妄想である』でそれに近いことを言っていた気がする。)

 しかし、兄貴が知らないか、たぶん知っていても不都合だから言わないことは、(無茶を承知で思いっきり要約すれば)そもそも一神教というのは社会のあらゆる矛盾をGODという無限遠の一点に集中させて一括管理する仕組みであり、神は矛盾してこそ価値があるのだということだ。矛盾していない神はゴミのないゴミ処理場と同じぐらい存在意義がない。

 私は今日の日本で復讐感情が野放しになっていることは、単純に日本の宗教者の怠慢であるとしか思っていない。坊主は何をしている? 坊主で連想してググったら「日本の政党で死刑制度廃止を公言しているのは公明党だけである。」らしい。曲がりなりにも仏教政党なだけのことはあるか、とちょっとだけ見直した。

 鳩山家の宗教は神道だ。だが、大臣は真言密教の鹿児島最福寺の総代でもある。居間には池口恵観大阿闍梨から贈られた不動明王の像が鎮座していた。「不動明王は地獄に落ちた人を救うそうです。執行した後は不動明王にお参りしてます」という。大臣は、ひょっとして地獄に落ちるかも、と怖いのだろうか。

 「失礼だな、私自身は地獄に落ちるとは全然思っていない。死刑囚は天国に行かず地獄に落ちるだろうから(死刑囚を)導いてくれ、ということだ」とむっとした。

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 さて翻ってまた鳩山法相。今回日本の多くの死刑反対論者は鳩山発言をひたすら嘲笑している。確かに法相は私から見ても笑われても仕方ないと思うが、この部分は本気でEU並の死刑全廃を目指しているなら、別に賛成しなくても、少なくとも

そりゃないな、と思ったのがこれ。(中略)そうか、死刑囚は地獄に落ちるのか。

(鳩山法相の死生観 – 週刊日記)

 みたいに鼻で笑って済ますことなど絶対にできんはずなのだ。やはりジレンマは深刻だ。ちっとやそっとで解消できるねじれではないのである。(つづく)

*1:ちなみに対置されるのは解脱。
*2:少なくとも死刑復活を主張したくならないぐらいには。
*3:そうだったら話は簡単で私は楽なのだが。

おまけ

 ┗(^o^ )┓三 公明党というとこれしか選択肢が……。

by 木戸孝紀 tags:

2008 7/23

BLEACH (1)

 前回で日本の死刑の完成型を見たので、今度は死刑廃止の完成型を見てみようか。

 私を含む大概の死刑廃止論者がロールモデルと考えているのは、すでに死刑を全廃しているEUだが、さすがと言おうか、以下の文章は死刑反対の論理をうまく要約していると言ってよい。

欧州連合は世界中で死刑制度が廃止されることを求めています

欧州連合(EU)は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人に当てはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。

このように、死刑は最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利を侵害する極めて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのです。

人権的観点からの理由に加えて、死刑には無実の人の生命を奪ってしまう危険が内包されています。私たちの住む世界は不完全だからです。人間は間違いを犯すものです。裁判の当事者である検察官や裁判官、陪審員であっても、既決囚を赦免することのできる政治家であっても、絶対に間違いを犯さないという保証はありません。にもかかわらず、死刑はいったん執行されれば取り返しがつきません。屍を無罪とし、生還させることはできないのです。

(欧州連合 – EUと死刑)

 私のような死刑廃止論者は皆このような哲学を正しいと信じている……わけねーだろが! 日本人はたとえ死刑全廃に賛成する論者であっても、このような哲学を誰も本当に(一神教文化の基準で)は信じていない。もちろん私もだ。信じているという人は、十中八九なんとなく信じているような気になっているだけだ。

 ここを誤魔化したままでは日本の死刑廃止議論は絶対に今より先へは進めない。それを自覚した上で「ではどうするのか」を考えるのが、いま必要とされていることだ。このEUの文書は後でまた戻ってきて詳細に取り上げるので、その時までによ〜く読み込んでおいてね。強調したところを参考に、とりわけ行間を。

「気の毒な神?」

 死神と死に神がいかに異なった存在であるか実例で見よう。まず死刑賛成派の産経新聞の記事の一部。

 話は飛躍しますが、人類で最初に生まれ、同時に最初に死んだ人の名を「ヤマ」といいます。インドの神話によれば、ヤマは死者の国(天界)への道を最初に見つけたことによって天界の王となります。が、時代が下るとヤマは、かわいそうなことに「死に神」とみられるようになりますが、一方ではヤマは、死者の生前の行為を審判する思想とも結びついていきます。

(【語誌ップ拾遺帳】死に神 7月12日15時46分配信 産経新聞)

 飛躍しすぎだろというのはひとまず置いて、これに対して、「死神」とみられるようになったヤマはかわいそうなの?閻魔さまは死に神とは違うの? というコメントがなされていて、その人はキリスト教徒だというのは大変示唆的であると思う。

 一神教文化に属する人間から見ると、ここには産経が痛いとか馬鹿とかいう以前の問題がある。死神は「かわいそう」ではありえない。死神はGODの一側面であり、唯一神が「かわいそう」だというのはまったくもって意味不明である。

 だが、日本文化に属する人間にとってこの部分は、別に賛成しなくても興味がなくても、少なくとも意味不明ではない。ちょっと考えればすぐわかる。ヤマは死の穢れを司る役を押しつけられて死に神にされたから「かわいそう」なのだ。「死神」が「かわいそう」でありうるのは日本文化的・多神教的な前提下においてのみである。

 今度は死刑反対派としてよく見るブログのエントリ。

 その一方で、法を守り、国民に期待され、ストレスに耐えて命令に従い、死刑に関わる業務を遂行する人たちがいる。彼らは(こういう言い方はしたくないが)死神の道具だ。

 私は命令に従い死刑に関わる業務を遂行している人たちを批判しない。むしろ気の毒に思っている。私なら(戦争でも起きればともかく平時に)「意図的に確実に人の命を絶つ」仕事はできない。社会のため、正義のためと信じて辛い仕事をしている人は立派である。

(死神の力 – 玄倉川の岸辺)

 一神教的な文化における死刑存廃議論において、賛成・反対に関わらず「執行者が気の毒だ」という意見はありえない。

 神の名の下に死刑の執行を許すなら、命令を下す大臣も手を下す執行者も神の代理人であるから、当然「気の毒」などではない。神の名の下に死刑の執行を禁ずるなら、命令を下す大臣も手を下す執行者も、神を僭称する輩であるから、たとえば「許されざる殺人者」などではではありえても、やはり「気の毒」ではありえない。

 死刑執行者が「気の毒」でありうるのは、人々の穢れを押しつけられ、あたかも存在しないかのごとく振る舞わなければならないことを自明の前提とする、日本文化においてのみである。

 執行者が「気の毒」であることを認める日本の死刑反対派は、賛成派の鳩山法相や産経新聞と、死刑の是非という論点ではもちろん対立するけれども、文化的前提は共有している。蝸牛角上の争いとまでは言わないが、より大きな視点では同じ側にいる人間である。

 そろそろジレンマの深刻さを実感してもらえるだろうか。そう、困ったことにこの「より大きな視点」で正反対側にいるのが、まさしく冒頭でEUが示しているような死刑全廃を支える一神教的倫理なのだ。(つづく)

おまけ

 東方続きだけど閻魔がかわいそうというとこれしか選択肢が……。

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2008 7/21

DEATH NOTE デスノート(1)

 永世名人 羽生新名人。勝利
目前、極限までの緊張と集中力
からか、駒を持つ手が震え出す
凄み。またの名、将棋の神様。
  × ×
 永世死刑執行人 鳩山法相。
「自信と責任」に胸を張り、2
カ月間隔でゴーサイン出して新
記録達成。またの名、死に神。
  × ×
 永世官製談合人 品川局長。
官僚の、税金による、天下りの
ためのを繰り返して出世栄達。
またの名、国民軽侮の疫病神。

(6/18 朝日新聞 素粒子)

「全知全能の死神」

(Wikipediaより)

 この朝日新聞の死神コラムは四方八方で議論を巻き起こしはしたが、大概はめいめいが自分の解釈を一方的に開陳するだけで、ほとんど実がない。そうなる最大の原因は「死神」とは何であるかについての見解が、話者ごとにてんでバラバラで、全く一致を見ないことである。

 一致を見ないのも当然だ。そもそも死神は日本には存在しない概念である。厳密に言えば日本の死神はイザナミだが、よもや死神コラムの「死に神」がイザナミのことだという前提でしゃべっている者は1人もおるまいし、古典落語の死神もまた、明治期以後に輸入されたネタに過ぎず、宗教的存在とは言いがたい。

 つまり死神概念は西欧のものだ……と思ったらはい残念、それも違う。意外と思うかもしれないが、西欧には死神は「いない」

こうした一般的に想像される禍々しい死神の姿は 一種のアレゴリーであり、死を擬人化したものである。神話や宗教・作品によってその姿は大きく変わる。時には白骨とは違った趣向の不気味なデザインとなる事もある。

(中略)

キリスト教などの一神教においては神は唯一神以外になく、実際に死をつかさどるのは天使である。このためキリスト教では「死神」は存在せず、代わりに「悪魔」が存在する。また、直接死神とは書かれていないが、黙示録において「第4の封印」を開けた時、「剣と飢餓を持って蒼ざめた馬に乗った”死”という者」がやって来ると記載されている。この者が神によって遣わされているという点は特筆すべきである。

(死神 – Wikipedia)

 わかるか? 欧米一神教的文化においては、実際に「いる」のは、全宇宙の創造主であり、最後の審判の主宰者であり、イエスや聖霊と三位一体であり、アルファでありオメガである、全知全能の父なる神、唯一神YHWH、いわゆるGODのみだ。

 あらゆる超自然・あらゆる超理性・あらゆる神秘の存在は、GODに連なるものあり、仮にそうでない超自然の存在があったとしたら、たとえどんなに神秘的であっても(むしろあればあるほど)それは幻であり、人々を正しい信仰から遠ざける邪教である。

 つまり大鎌を持ったローブに白骨の死神は単なる絵的な「たとえ」だ。そんなものはいない。後頭部がハゲてるチャンスの女神がヤハウェの隣に侍っていたりしないのと同じだ。万が一、本気で「いる」と思っているやつがいたら異端者であり、火焙りだ。

 さて『素粒子』の「死に神」がGODのことだ、もしくはその遣いである天使のことだ、という前提で議論している人はいるか? イザナミだという前提で議論している人がいないのと同様、誰もいないはずだ。今回「死神」についての議論を戦わせた日本人たちは、世界中どこにもいない「死神」がどんな存在であるかについて議論していたわけだ。

「死の穢れの神」

 元々どこにもいない「死神」についてのイメージが、てんでバラバラになるのは当然である。しかし、全員が濃淡はあれど日本文化を共有している以上、バラバラである中にも最大公約数があり、それは日本文化に沿った独自の死神概念とならざるをえない。どこからともなく現れて、人間をどこへともなく連れ去り獲って喰らう、死の穢れの神としての「死に神」*1である。

 鳩山法相・死に神コラムを書いた朝日の記者・コラムに抗議したあすの会・死刑反対派・死刑賛成派、それぞれ立場も思惑も違えど、ほとんど全ての日本人にとっての「死神」は、死神ではなく(GODでもアズラーイールでもなく、自覚はなくともまだしもイザナミの方に近い)この死に神の方だ。

 さて、死に神コラムを受けた鳩山法相はまずどう反応したか。

 「批判、中傷は慣れとる」。だから「死に神」と書かれたときの最初の反応は「ふーん、よく言うわ」だった。だが「待てよ、これはいかんわ、絶対いかん」と思い直したという。

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))(太線強調は私による。以後も同様。)

 鳩山法相は自他共に認める非常に日本文化的な人間だ。もともと日本にない概念である「死神」という言葉をぶつけられた時、「死」という字面から何となくマイナスイメージで、批判されているんだなというぐらいはわかったものの、最初はよく意味がわからなかった。

 しかし、鳩山法相も現代日本人であるので、やはり“穢れ”概念に慣れ親しむと同時に、それを良くないと考えるような教育を受けている。少し考えた結果、素粒子が言っているのは死神ではなく死に神であるということを、(私の考えでは正しく)洞察した。だからこうなる。

「(死刑囚にも)人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。彼らは死に神に連れて行かれたのか」とマイクが置かれた台をたたいて声を荒らげた。

 さらに「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあると思う。軽率な文章が世の中を悪くしていると思う」と語った。

(「死に神」表現に猛抗議 死刑執行で鳩山法相)

 ここで元のコラムに出てこない「執行された人への侮辱」を持ち出していることを「自分が堂々と批判を受けるフリをしながら、実際にはより弱い立場の人間を盾にして自分への批判をかわそうとしている」とだけ(もちろんその要素はある)解釈するのはよくない。

 日本文化における矛盾、この場合の死の穢れの片づけ方は「他人に押しつけてその人間を差別し、自分は関係ないと見て見ぬふりをする」ことだと最初に言ったが、この場合の他人というのは当然、より目下の弱い立場の人間になる。

 つまり主権者である民草が、公僕である大臣に穢れを押しつけ、大臣が部下である刑務官に穢れを押しつける。殺人者の死刑という、穢れ中の穢れの発生源に直接手を触れざるをえない末端の刑務官が全てをひっかぶり、民草は死刑など存在しないかのごとくそれを見て見ぬふりをすることで、全てが丸く収まる。これが日本文化的現代版死刑の完成系だ。

 だから死に神コラムによって、自分が民草から穢れを押しつけられて差別されているということに気づいた法相は、同時に自分は刑務官にその穢れを押しつけて差別しなければならないと気づいた。法相の心の内なる伝統文化はそうせよと教える。だが、外からの教育の命じるところによればそのような穢れの押し付け合いは、してはならない悪いことだ。

 誰も言ってない「執行された人への侮辱」を自分で持ち出しておいて、自分でそれを非難するというマッチポンプ的な混乱した言動に見えるけれども、法相の発言は現代日本の抱えるジレンマをわりと率直に表明しているのだ。(つづく)

*1:今後欧米文化的”Death”の訳語として「死神」を使い、日本文化的独自解釈の死の穢れの神を「死に神」として使い分けることにする。

おまけ

 三途の川の渡し守である小野塚小町が大鎌持ってるのは東西イメージのちゃんぽんなわけですな。

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2008 7/20

死神くん (1) (集英社文庫―コミック版)

予習用資料と前置き

 宮崎勤の死刑執行や朝日新聞の死に神コラムをきっかけに再燃している死刑問題。ガイア教シリーズの途中なので、これに中途半端に触れると「なんでも宗教で片づけようとすんなよ」とか誤読されるのが嫌で黙っていようと思ったのだが、そうもいかない気がしてきた。むしろこっちでしっかり説明しておいて、向こうから参考リンクとするのが全体としてよい形になりそうだ。

 ガイア教の天使クジラと表裏一体をなすシリーズと思って読んでもらいたい。ただしこちらはそこまで長くはならない。(4,5エントリ分を予定している。)ちなみに、こちらではネタバレしても別につまらなくなることはないので最初に言っておくが、私は死刑は即時全廃すべきと考える完全な死刑反対派である。

「二つの文化」

 この世に犯罪などというものがなかりせば、死刑どころか刑罰などというものについて議論する必要もあるまいに、残念ながら犯罪は常に存在する。いまだかつて犯罪なしですませえた社会もなければ刑罰なしですませえた社会も存在しない。今後も予想しうる未来にわたって決して存在しないだろう。

 殺人や処刑には強烈な生理的嫌悪感が存在する。平時はもちろん、生きるか死ぬかの戦時下においてでさえそうなのだ。(参考)なぜそうなのかは今回の主題から外れすぎるので問わないが、これはホモ・サピエンスである限り誰も逃れえない。全人類共通である。殺人犯の死刑は社会の矛盾の最たるものだ。

 矛盾のない社会は存在せず、矛盾を矛盾のままに持ち続けることも実際上不可能であるから、社会はこの常に生じてくる矛盾を常にどうにかして片づけ続ける必要がある。これもまた人類共通である。

 ただし、その矛盾を片づける方法は人類共通ではない。大きく分けて二つの方法がある。

  • より高次の善、すなわち神もしくはその意志を執行する法の名の下に正当化する
  • 他人に押しつけてその人間を差別し、自分は関係ないと見て見ぬふりをする

 のいずれかである。欧米キリスト教文化は前者の代表選手であり、日本文化は後者の代表選手である。世界には欧米と日本しか存在しないわけではないが、日本人は大概そうとしか思っていないし、今のところ他のどこかでまったく違う第三の道が知られているわけでもないので今回はとりあえずこれで十分としておく。文句があれば聞く。

「死の穢れ」

 日本文化では死は“穢れ”である。死に関わるもの全てが穢れる。無辜の民を殺害した犯罪者なら言うに及ばず、死刑を執行する刑務官もそう、執行の命令書にサインする大臣もそう、もちろん被害者もその遺族もそうだ。死の穢れが感染しないように遠巻きにして、「これは道真公の祟りでっしゃろか?」「いやいや前世でなんぞあくどいことでもされはったんでしょう」とか横目で見ながらヒソヒソ噂話でもするのが、凶悪犯罪の被害者・遺族に対する「正しい」扱いかたである。

 このような文化は現在でも、マスメディアやネットを使って行われるようになっただけで、まったく変わっていない。社会の精神構造は技術の進歩に比べて非常にゆっくりとしか変化しないのだ。ようやく最近になって、さすがにそれでは被害者に対して酷すぎるのではないかということに気づいて、被害者保護の動きが盛り上がってきてはいる(いいことだ)が。

 ではこの文化において民草*1は死刑に対してはどのような態度を取るべきか。死刑執行などというものは見て見ぬ振りをして、あたかも存在しないかのごとく振る舞うのが「正しい」あり方である。なぜならそれは穢れだから。犬猫を殺すことですら、その穢れをおおっぴらにするのは村八分に値する言語道断な行為なのである。(参考)たとえどんな凶悪犯であったとしても人間ならば尚更だ。

 だから今回よく聞かれる死刑廃止派の「お前ら死刑存置派も本当は死刑が正義だなんて思っていないから、内心後ろ暗いところがあるから隠したがるんだろう」というタイプの批判は間違いだ。自分が批判している相手のことが分かっていない。

 たとえ死刑に賛成であっても、100%死刑が正義と考えていても、依然としてそれは穢れなので、やはり隠すのが正しいのである。新聞で揶揄するなどというのはもちろんのこと、官報に単なる執行の事実が掲載され、ニュースで報道されることですら「本当は」ルール違反なのだ。

 「ちょっと待てそれは民主主義社会のルールと相容れないじゃないか!」と思うだろう。(いや、思わないようでは困る。思ってくれ!)もちろんその通り。相容れないのである。近代的な民主主義や人権の概念はキリスト教文化に多くを負っているのだから、日本文化から来るルールが民主主義社会のルールと相容れないのは当然である。

 ただし、ここを誤解してはいけないのだが、欧米キリスト教文化から来るルールなら民主主義社会のルールと矛盾しないのかというとそういうわけでもない。そもそも近現代の文明生活はどのホモ・サピエンスにとっても自然には達成できない「異常な」活動なのだ。

 遺伝子の進化は文明の発達に比べてほとんど無視できるぐらい遅い。我々のゲノムは文明生活など「知らない」。生物としての人間は今でもサバンナやジャングルで狩猟採集生活をする「つもりで」生まれてくる。近現代的な哲学を正しいと信じさせ、文明生活を実行させるには誰に対しても教育が必要なのである。その教育のやり方が文化によって異なり、特定の問題に対する態度にも違いが生じうるだけだ。

 ともあれ、我々現代日本人は“穢れ”等の伝統的概念を暗黙的・私的にしっかりと受け継ぎながらも、同時にそれを悪い・遅れた・否定されるべきものであると考えるように、明示的・公的には教育されている。言うまでもなく矛盾したことであり、ジレンマを生む。我々日本人1人1人の頭の中に生じているねじれである。直感的に感じた通りを言い、行えば何も矛盾はないのに、それはもはや許されていないのである。

 この現代日本人の陥っているジレンマは、強固な一神教文化の伝統の上に中途半端に東洋思想を接ぎ木しようとしてねじれた事態に陥っている欧米のニューエイジャーたちのジレンマと完全な鏡写しの関係にある。このシリーズがガイア教シリーズと関わりを持ってくるのはまさにこの点を通じてだ。死刑問題を解くにはこのねじれを知らねばならない。(つづく)

*1:このシリーズでは欧米キリスト教文化の「市民」とは異なる、日本文化下の個人を表す語としてこれを使うことにする。

おまけ

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2007 10/14

白い服の男 (新潮文庫)

「みなさま。夕食もおすみになり、夜のひとときをおくつろぎのことと思います。ではこれより、正義にみちスリルに溢れる社会の連帯と向上のためのみなさまの番組、そして現実のドラマである〈悪への挑戦〉をお送りいたします。これは法律省のご協力と、スポンサーである……」

 あたしはこの番組の熱烈なファン。もっとも、あたしだけじゃない。誰でも、どこでもそうなのだ。開始以来、ゴールデン・アワーのこの番組は驚異的な視聴率をあげ続けている。

 老人のひき逃げ事件のリアルな再現映像。

 スポーツカーはブレーキの音をきしませ、一瞬止まったが、あたりに誰もいないと知ると、すぐにスピードをあげた。その青年の複雑な表情。発覚への不安から、憎々しい平然さへと徐々に移ってゆく演技が巧みで、あたしの心の底に火をつけた。
 怒りがこみ上げ、炎が体中を走り回った。どんなことがあっても許されない行為だわ。早く捕まえてぶち殺すべきよ……。

 捜査のリアルな再現映像。

 悪を憎む大衆の網の目に追われ、犯人はほとんど逃げ切れない。逃げおおせる可能性は三パーセント以下だ。
 やがて、定期便のトラックの運転手の証言から、その時刻にすれ違ったブルーのスポーツカーが問題とされ、容疑はその所有者にしぼられた。
 ごまかし、逃げようとする青年。しかし、大衆と警察の協力の前にはそれもむなしく、川に飛び込んで自殺しようとする。救いあげる警官、人工呼吸、医師の手当て……。

 コマーシャルが終わると、法廷の場面となった。これは現実に撮影したフィルムを要領よく編集したもの。被告席には犯人の青年が座っている。さっきまでの俳優のメーキャップがうまく、犯人そっくりだったので、何の抵抗もなく見続けることができた。
 厳しい検事の論告。必死に防戦する弁護士。不安におののく被告。うなずきながら並ぶ陪審員たち。それに、興味深く見つめる傍聴人が大勢。それらが緊張した空気を織りなしていた。
 被告は無罪を立証することができなかった。最後に裁判長が判決を下した。
「死刑を宣告する。その執行期日は追って通知する。なお、処刑の方法は、被告の希望によって、定められたものの中から選ぶことができる……」
 テレビの画面は、その瞬間の青年の表情の変化を、大写しにしていた。絶望と驚きと恐怖。事態を理解するにつれ、顔の色は灰色に変わってゆく。焦点の定まらない、見開かれた目の白さが印象的だった。逃げ場を求めても、それはもはやどこにも存在しない。進む道はただ1つ、その果てに待つものは死。
 顔の筋肉が激しく引きつってから、力が抜け、しおれてゆく草のように弱々しいものに変わった。マイクロフォンの感度がよく、歯の鳴る音、心臓の鼓動までがはっきり聞き取れた。崩れるように椅子にかける音、喉の奥の声にならない声……。
 あたしは興奮した。全国のあらゆる人が一斉に興奮するひとときだ。もし、上空から見下している人があれば、その熱気が陽炎のように立ちのぼるのを、目にすることができるのじゃないからしら。
 これこそ真実なのだ。事実なのだ。ここにこそ人間がある。社会がある。我々の秩序がある。法がある。悪の末路のみじめさ。正義を支持する人々の勝利の賛歌……。

 あらゆる広告料金の中で最も高価なコマーシャルの時間の後で、処刑の実況中継となる。

 すべての用意が完了し、所長はテレビカメラにむかい、手をあげて合図した。
 それを受け、放送局のアナウンサーが、視聴者に呼びかけた。
「みなさん。いよいよ始まりです。電話をお願いします。いつもご説明していることですが、かかってきた電話の数が百に達すると、自動的にスイッチが入ります。本日の電話の代表番号は……」

 番号が告げられてからスイッチが入るまで、十秒とかからない。椅子のそばに赤いランプがともり、縛られた青年を高圧の電流が襲った。悪を憎む、善良な大衆の怒りの津波。
 それを受け、囚人の体は激しく震え、硬直した。縛りつけられていなかったら、天井まで飛び上がったかもしれない。そうすればいいのに。ひき逃げされた老人は、十メートルも飛ばされたのよ。
 電流は更に一回、五秒後に自動的に囚人に流れた。また少しふるえた。さっきのだけでは、死ななかったのかしら。なんだかうめき声がしたようだった。
 あたしの体は、興奮のため、血が泡だって流れを早めたようだった。ぞくぞくする刺激。閃光と闇の交錯する、自分が生きているとの強烈な実感。とめどなく涙の出る正義の勝利。理想の社会へと踏みしめる確実な一歩。ああ……。

 主人公は興奮のあまり窓際の花瓶を落とし、以前トラブルのあった人間を偶然死亡させてしまう。逃亡を試みるもすぐに捕まって死刑を宣告される。しかし、死刑になるかわりに死刑囚の人形作りの仕事をさせられることになる。

「何ですって。すると、テレビで放送されていた処刑は、みな人形だったのね」
「そうですよ。そうでなかったら、ああ見事にはできません。作り物だからこそ、ああ迫力があるのです」
「処刑前のすすり泣きはどうするの」
「昨夜、あなたのを録音しておきました。あなたの人形の処刑は、何とかギロチンでやってみたい。刃がうねりを立てて落下し、首が飛び、血が吹き上がる。スポンサーに増額の要求ができるんですがね」
 あたしは腹が立ってきた。
「ごまかしだったのね。社会みんなを騙していたというわけね」
「それがどうしていけないんです」
 所長は言った。どうしていけない。でも、何か不都合があるはずだわ。あたしは自分の知識を色々と組み合わせてみたが、それに反論する理屈は見つけられなかった。

 囚人生活といっても、テレビを見ることも許されていた。だけど、あたしは自分が処刑される番組だけは見る気になれなかった。

 また旬を逃した感があるが、光市事件問題の話を見かける度に思い出すのはこの話。長くなったので続きはまた今度。

10/16追記

 やっぱやめた。これ以上なにも付け加えることないわ。はてなブックマークでついてるコメントにもあるけど星新一はやはり天才。

おまけ

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