2017 6/10

 寄生獣のアニメをやってたときに書いたものの清書です。内容的には上とほとんど変わっていません。TwitterやTogetterもいつまで存在するかわからないので、こちらにまとめておきます。


 『寄生獣』のストーリー展開の変化、作者にすら予想していなかった変化は、進化論のダーウィン以来最も重要な進展をそのまま取り込んでいる。

 ハミルトン革命とか血縁淘汰とか、呼び方はどうでもいいが、要は遺伝子視点での進化の見方と、それに伴う生命と利他行動に対する人間のものの見方の変化だ。

 で以前書いたように、寄生獣オープニングのモノローグと、パラサイトの設定は、まさしくガイア理論のとりわけトンデモなバージョンを連想させるもので、実際そこに着想を得たとしか考えられないものだ。

 要するに、地球(全体)の利益を守るための、地球(全体)に意思のようなものが存在するという発想である。

 いま、それなりの教養のある「普通」の人が、ガイア理論のことを聞くと、どうしてこんなあからさまにアホなオカルトっぽいトンデモが、知的なはずの人々にまでもてはやされたのか、不思議に思えるだろう。

 だが、それは後知恵というやつで、血縁淘汰の理解以前の生物学について知る必要がある。

 ダーウィンの進化論の時点では、DNAはもちろん遺伝の実際の仕組みは不明だった。メンデルの法則が再発見されるのさえダーウィンの没後だ。

 ダーウィン時点で進化論で説明できない(と思われていた)最大の問題は、たとえばハチのコロニーにおける働き蜂のような不妊カーストだ。

 自分で子を作らず、コロニーに尽くし、巣が危機にさらされると自殺攻撃を行う。こうした利他行動は、進化が子孫の変異を通じて起きるものだとしたら、進化できないではないか、というわけだ。

 しかし、進化できないのが問題だと考えること自体が、ある意味進化論になれきった人間の後知恵の見方とも言える。従来は特に問題視されていなかった。集団の利益、あるいは種の利益、言ってみれば「みんなの未来」を守るため、と解釈されていた。

 他にも、たとえば、鋭い牙を持つ狼が、腹を見せて降参するのも、殺し合いを避けて「種の利益」を守るためだとか、鳥が虫を食うことによって虫が増えすぎて森が禿げてなくなってしまうことを防ぐのだ、とかいう言い方も普通にされていたりした。

 抽象的な「種の利益」を守るために「他人」――もちろん姉妹同士であることは認識されていたが――のミツバチ同士が協力したり、森の秩序を保つために多種の生物が協力しあったりしているという、(今日の視点では間違った)認識が普通だったのだ。

 そんな時代には、地球のために生物全体のバランスを保つための仕組み、というのも、それほど馬鹿げて見えなかったのは理解できよう。

 パラサイトが繁栄しすぎた種を食い殺す本能を持つが、自分の子孫を作らない、という設定は、いわば不妊カーストがなんらかの抽象的価値を守るためのものだと認識されていた時代のものだと言える。*1

 さて、もし寄生獣1話掲載時点にタイムマシンで戻って、当時の人に「この作品は完結からずっと後になっても大傑作として広く認知されており、改めてほぼ原作準拠のストーリーでアニメ化されたりしてますよ」と伝えたとしよう。

 当然、その人は冒頭モノローグの「みんなの未来を守らねば」と思った誰かについての話があって、何らかの決着がつけられただろう、と解釈するだろう。その結末を教えてくれないか、と言うだろう。

 ところが、ご存じの通り、この「地球上の誰か」、素朴に解釈すればガイアの意思とでも言うべき存在については、1話以降最後までまったく触れられない。地球の絵によって暗示されるのさえ「この種を食い殺せ」のシーンが最後である。

 広川市長の演説としてかなり不自然な形*2で繰り返されるだけで、そんなモノローグは最初から存在しなかったかのごとく、ふっつり消えてしまう。

 にも関わらず、なぜ不朽の傑作たり得るのか? 普通なら「傑作だったけど、風呂敷は畳みきれずに最初の伏線未回収のまま思いっきりすっぽかしたよね」ぐらいのツッコミは避けられないところだろうに、なぜそうならなかったか?

 なぜならば、この作品の連載とほぼ平行して――もちろん時代精神的な大雑把な意味でだが――まさにこのガイア幻想は、ふっつり消えたんだ、そんなものは最初っから存在しなかったのだと。

 そのガイア幻想を消し去った最も重要な要素こそ、作中で田村玲子が聴講している利己的遺伝子の理解と、利他行為(≒共生)およびその逆たる捕食・寄生に対する解釈の変化だ。

 利他行為≒共生(そしていわば共生の拡大解釈の極限がガイア理論)が謎だった時代には、共生は善いことで、寄生は悪いことだと思われていた。

 たとえばアリやハチは集団で協力する働き者の進化した善い生物で、たとえば寄生虫というのは、他者を利用する怠け者の退化した悪い生物であるというわけだ。*3

 言うまでもなく、これらは人間視点での擬人化でしかないわけだが、「擬人化でしかない」と切って捨てられるのは、「では本当は何なのか」ということが、現在ではすでにしっかりと確立しているからだ。

 遺伝子視点での進化の見方は、利他行為の謎を完全に解いた。不妊カーストは不思議でも何でもなくなった。個体に利他行為を取らせる遺伝子は、その遺伝子を共有する血縁を通して子孫に伝わる。個体の利他行為は、同時に遺伝子の利己行為であり、そこに矛盾はない。

 女王蜂と働き蜂との関係は、人間の生殖細胞と手の細胞との関係と変わりない。手の細胞や脳細胞は繁殖しないが、その存在は不思議ではない。手や脳が生殖細胞に子孫を作らせることによって、生殖細胞にある手や脳を作る遺伝子が生き残り、次代の手や脳を作らせるからだ。

 遺伝子視点では、同種の共生が不思議ではないのと同様、他種との共生も特別なものではなくなる。同種の遺伝子プールにないというだけで、ある遺伝子とある遺伝子の利害が一致しているというだけだ。

 アリとクロシジミは何らかの意味で他の(共生しない)生物より偉いわけではない。アリの中のある遺伝子とクロシジミのある遺伝子の利害が一致している――彼らのゲノム内の遺伝子同士の大概と同じように――というだけのことでしかない。

 田村玲子との大学での会話に出てくる「豚と人間は共存していると言えない?」というのはそのあたりの話だ。豚の遺伝子は人間(の遺伝子が作る個体とそれが集まって作る社会)を使って自分を増やす。

 その関係が、手の遺伝子が脳を使い(あるいはその逆)自分を増やそうとする行為より、なにか特別なものと考える必要はない。

 人間のゲノム内にも、出現当初はエイズのような病気であったであろうレトロウイルスの名残と思われるものがたくさんある。

 そうなってくると通常「(寄生生物でない普通の)生物」とされるものは、単に「もはや別々に観察されることがあまりない寄生生物同士の集合」でしかないことになる。

 また寄生生物の研究も進んで、サナダムシやらその他の寄生虫も退化した単純な生き物なんてものではなく、環境と宿主に適用するためとてつもなく複雑な進化を遂げただけなのだと考えられるようになった。*4

 寄生に対する嫌悪感が存在すること自体は、人間(を含む大型動物)にとって不思議でも何でもないことだとしてもだ。

 もう少し身近な話にたとえよう。我々は「腐敗」と「発酵」が、どちらも単なる「微生物の活動」であり、人間にとって都合が良いか悪いか、という恣意的な基準で呼び分けられているだけだ、ということを知っている。

 遺伝子視点の進化の理解によって、「寄生」と「共生」にも同じことが起きた。

 「寄生」と「共生」はどちらも「遺伝子同士の利害に基づく離合集散」であり、人間にとって悪いイメージか善いイメージかというだけで、恣意的に呼び分けられているだけだということだ。

 もちろん微生物の活動を理解したからといって、肉が腐らなくなるわけでも納豆が作れなくなるわけでもないように、遺伝子について理解しても、サナダムシが寄生虫でなくなるわけではないし、蜂が共生しなくなるわけでもない。しかし人間の考えは以前と同じではいられない。

 ちょっと寄生獣から離れすぎたから戻ろう。さっきの「もはや別々に観察されることがあまりない寄生生物同士の集合」という表現、ミギーやその他のパラサイトが徐々に人間社会に溶け込んで目立たなくなっていった、という終盤の表現に通じるところないかな。

 そしてタイトル寄生獣のトリプルミーニング。パラサイト、広川の言うガイア理論的な意味での地球への寄生獣≒人間、ラストの寄り添って生きる獣。最初のひとつのガジェットを通して、二番目の解釈が三番目に移り変わっていく思想史を描くことになった――最初から意図したわけではなしに――と言えるだろう。

 そしてもうひとつ、ラスボス後藤さんについてだ。面白いことに、彼の設定はまさに悪しきガイア幻想のカリカチュア的な存在になっているのだ。複数の生物が、「ひとつの意思」のものに「完璧」にひとつの生物として「統一」され、「完全生物」となる。*5

 取り込まれていたミギーの感想、「意外なことにとても気持ちよかった〜」とかいうのも、より大きなものの一部として何も考えずに過ごすというガイア幻想(というかずさんなホーリズム全般)の持つ魅力を表現しているようでなんか面白い。

 毒物によってその後藤さんの統一が崩れてそれぞれの利害が表に出てきて、最後は爆散するってところも、前に触れた遺伝子視点によるガイア幻想崩壊を連想させるものがないかな。

追記

 元のTogetterに来たものの中で、ひとつだけ重要と思われる指摘について追記する。『寄生獣』以前にもう利己的遺伝子は知られていた、というものだが、もちろんそれは知っている。

 最先端の学説が、学者に広まり、インテリに広まり、一般向けエンタメまで広がって、法律や制度に埋め込まれ、しまいに誰も意識しない常識になるまで、長い時間がかかるものだ。今は「一般向けエンタメまで広がって」あたりの期間に注目しているだけだ。

 エポックメイキングなドーキンスの『利己的な遺伝子』原著は1976年。それでさえ20世紀を通じて発展してきた社会生物学、1970年代に確立した血縁選択説を一般向けにわかりやすく説明しただけ*6で、真にオリジナルなのは「ミーム」を造語したことだけと言われるぐらいである。

 『利己的な遺伝子』の日本語版は『生物=生存機械論―利己主義と利他主義の生物学』の名前で1980年。1989年に『利己的な遺伝子』の邦題に戻して第二版。

 『利己的な遺伝子』の内容を粗雑かつ扇情的に扱った竹内久美子『そんなバカな!-遺伝子と神について』がベストセラーになったのが1991年。『寄生獣』の発表期間は1988年から1995年である。

*1:ただし新一が即座に「この世のもんじゃねーよ」とか反応してるので、すでに現代に近い価値観が混じってはいる。
*2:仮に第1話に遡って描き直せるのであれば、同じ表現にはしなかったであろう、というぐらいの意味で。
*3:特に後者は「福祉に頼る貧乏人は社会の寄生虫である」というアナロジーとなり、重大な影響を及ぼしたが、今回その話はしない。
*4:この辺は『パラサイト・レックス』に詳しい。超オススメ。
*5:戦闘狂であるというところは合わないが。
*6:だけとは言えないと私は思うが。

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2007 10/1

虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか

 細胞内共生説で有名なリン・マーギュリスが911陰謀論系のトンデモさんになっちゃったという話。

 幻滅したとかガッカリしたとかいう感想が聞かれるが、私は前からそういう素養はあると思っていたので、さもありなんという感想だった。

 というのも私は、この人が左翼系のトンデモとは極めて親和性の高いガイア理論のシンパであると前から知っていたからだ。

 上のようにこのブログでも何度か触れてはいるが、「ガイア理論」は典型的なトンデモ系地雷ワードであると憶えておいた方がいい。少なくともギャグか批判的な文脈かRPGの中以外で出てきた時は。

 でも、ただ幻滅した幻滅したと言っててもしょうがない。もちろん幻滅するのは当然で、幻滅すべきなんだけど、今回強調しておきたいのは、一言で言えば天才とキチ○イは紙一重だってこと。紙一重どころか、同じ紙の裏表だと言った方がいいかもしれない。

 リン・マーギュリスがトンデモさんになってしまったとしても、細胞内共生説は依然として正しい。

 同じ人間が、正しいことと間違ったことを同時にしかも強烈に信じることはよくある。しかもその両方を言い出した動機が全く同じ信念に基づくなんてことさえある。

 この場合はまさにそういう例。ドーキンスの本『虹の解体』の第9章「利己的な協力者」にやや詳しいからそちらを読んでもらいたいけど、明らかにマーギュリスのガイア理論へのシンパシーと細胞内共生説への思い入れは、全体の調和とか協力とかいったものへの傾倒とでも言うべき同じ信念に基づいている。

 一方はただのトンデモに、一方は全ての真核生物の由来に関係する深遠な真理に繋がったけど、そこに至った信念は一つで互いに分離不可能だ。

 別の事例で言えば、トーマス・ゴールドなんかもそう。石油の無機起源説に至ったきっかけはかなりトンデモ的な動機で、無機起源説自体は大枠としてはトンデモのままで終わる可能性も高そうに思えるけれども、結果として地底生物圏の研究が進み、最初の生命が生まれたのは深い地下の岩の中だったかもしれないというのはかなり有力な説になりつつある。

 結局何が言いたいかというと、マーギュリスは確かにトンデモさんになっちゃったし、ひょっとしたらボケちゃったのかもしれないとしても、依然として愛すべきおばあちゃんなのであり、もうちょっと生暖かい目で見つめてあげましょうやということ。

おまけ

 深海萌え。

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2007 9/23

寄生獣―完全版 (1) (アフタヌーンKCDX (1664))

前回の続き)

 『寄生獣』はこのような文章から始まる。

地球上の誰かがふと思った
『人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……』
地球上の誰かがふと思った
『人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるだろうか……』
誰かが ふと思った『生物(みんな)の未来を守らねば…………………………』

 これはガイア理論のかなりトンデモ寄りな解釈――地球には超科学的な生命調整機能がある――を直接連想させるもので、実際にそこに着想を得ているとしか考えられない。

 しかし、単行本の最終巻に収録されている作者の文章(長いので補足としてエントリ末尾に抜粋する)に述べられているように、連載中に作者の思想は大きく変わっていき、後藤にとどめを刺す前のミギーのセリフに結実する。

 わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」という人間がきらいだ……なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな

 何しろ地球で最初の生命体は煮えた硫化水素の中で生まれたんだそうだ

 作者の思想的成長が作品のカタルシスに上手く繋がったよいお手本だ。同様の事例でこれに比肩しうるのは『風の谷のナウシカ』ぐらいだろう。

 この変化における前後の落差は、まさに天地の開きと呼ぶにふさわしいもので「同じことをいう人間が増えたから」という天の邪鬼精神のみで説明するには無理がある。

 天の邪鬼精神はきっかけだったのかもしれないが、実際にその変化をもたらし行き着く先を決めたのはやはり進化論に関する知識であったように思われる。

 寄生獣で進化論に直接触れている箇所は、田村玲子が大学で利己的遺伝子に関する講義を聴講している場面しかないが、その影響は他の場面にも及んでいる。

 先の「最初の生命は煮えた硫化水素の中で生まれた〜」というセリフも当時最新の話題を踏まえているし、何より最終話に出てくる、とても人気のあるミギーのセリフもそうである。

 心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!

 これは何となく格好よく聞こえる台詞を作っただけだろうと思えないこともないが、田村玲子の精神が人間の域に達したことの象徴に「笑い」と「自殺」を選んでいること等を考え合わせると、やはり単なる偶然ではありえない。

 人間の特有の高度な知能・精神的能力の進化は必ずしも(少なくとも従来考えられていたような意味では)必要なものでも、必然的なものでもなかった

 というまっとうな理解を踏まえて考え出されたものである。(つづく

補足

 寄生獣の物語は開始から終了まで、まずもって計画どおり……と言いたいところだがそうでもない。

 物語終了の予定が、わずか三回にして終わるところから、単行本にして三冊分、いや五冊、七巻で終わり、いやいや九巻……で結局十巻まで延長を重ねたことがまず一つ。

 そしてストーリー内容にも当初の予定から変更したことがいくつかある。その代表的なものが、最強の敵「後藤」の最期の場面だ。

 寄生獣の開始・第一話を書いた頃、世間は現在ほどエコロジー流行りではなく、環境問題についてもさほど騒がれてはいなかった。つまり「愚かな人間どもよ」と言う人間がめったやたらにはいなかったのだ。だから第一話の冒頭では人類の文明に対する警鐘という雰囲気で、すんなり始められたのだが、世の大多数の人々が同じようなことを言い始めてくると、今度は妙な気になってくる。人と同じことを作品内で復唱するのが何やら気恥ずかしいのだ。単なるあまのじゃくかもしれないが、ともかく次には「愚かな人間どもよ」と人間が言うなよ、と言いたくなってくる。

 そこで「後藤」の最期の話に戻るが、初め「後藤」は死ぬ予定ではなかった。復活し始めた「後藤」を残し、新一はあのままスタスタ帰ってしまうのである。「後藤」のその後については二案あった。一つは完全復活したものの、汚染された日本を嫌い、巨大な翼に変形して美しい自然をめざし飛び去ってゆく、という案。もう一つは完全に復活できず、人間に無害の別の生き物として山の中でひっそり生き続ける、という話だ。どちらも甘ったるい。そしてどこか無責任である。しかし破壊・汚染の元凶たる「愚かな人間ども」に対する「美しき野生」「偉大なる大自然」の代表選手である「後藤」が、ただ滅ぼされてしまって良いのだろうか、という思いがずっとあった。

 だが、ひねくれ者の私の周囲で多くの人々が「愚かな人間どもよ」を合唱してくれたおかげで、もう少し先へと考えを進めることができたような気がする。

 かくして第一話の冒頭の言葉は、人間のある種の代表である広川市長が引き継いでくれ、主人公はクライマックスで振り返り、戻ってきて自らの手を汚す、ということになった。私のひねくれ根性から始まったことではあるが、結果的には当初より内容が良くなったと自負しております。

おまけ

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