(前回の続き)
『寄生獣』はこのような文章から始まる。
地球上の誰かがふと思った
『人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……』
地球上の誰かがふと思った
『人間の数が100分の1になったらたれ流される毒も100分の1になるだろうか……』
誰かが ふと思った『生物(みんな)の未来を守らねば…………………………』
これはガイア理論のかなりトンデモ寄りな解釈――地球には超科学的な生命調整機能がある――を直接連想させるもので、実際にそこに着想を得ているとしか考えられない。
しかし、単行本の最終巻に収録されている作者の文章(長いので補足としてエントリ末尾に抜粋する)に述べられているように、連載中に作者の思想は大きく変わっていき、後藤にとどめを刺す前のミギーのセリフに結実する。
わたしは恥ずかしげもなく「地球のために」という人間がきらいだ……なぜなら地球ははじめから泣きも笑いもしないからな
何しろ地球で最初の生命体は煮えた硫化水素の中で生まれたんだそうだ
作者の思想的成長が作品のカタルシスに上手く繋がったよいお手本だ。同様の事例でこれに比肩しうるのは『風の谷のナウシカ』ぐらいだろう。
この変化における前後の落差は、まさに天地の開きと呼ぶにふさわしいもので「同じことをいう人間が増えたから」という天の邪鬼精神のみで説明するには無理がある。
天の邪鬼精神はきっかけだったのかもしれないが、実際にその変化をもたらし行き着く先を決めたのはやはり進化論に関する知識であったように思われる。
寄生獣で進化論に直接触れている箇所は、田村玲子が大学で利己的遺伝子に関する講義を聴講している場面しかないが、その影響は他の場面にも及んでいる。
先の「最初の生命は煮えた硫化水素の中で生まれた〜」というセリフも当時最新の話題を踏まえているし、何より最終話に出てくる、とても人気のあるミギーのセリフもそうである。
心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!
これは何となく格好よく聞こえる台詞を作っただけだろうと思えないこともないが、田村玲子の精神が人間の域に達したことの象徴に「笑い」と「自殺」を選んでいること等を考え合わせると、やはり単なる偶然ではありえない。
人間の特有の高度な知能・精神的能力の進化は必ずしも(少なくとも従来考えられていたような意味では)必要なものでも、必然的なものでもなかった
というまっとうな理解を踏まえて考え出されたものである。(つづく)
補足
寄生獣の物語は開始から終了まで、まずもって計画どおり……と言いたいところだがそうでもない。
物語終了の予定が、わずか三回にして終わるところから、単行本にして三冊分、いや五冊、七巻で終わり、いやいや九巻……で結局十巻まで延長を重ねたことがまず一つ。
そしてストーリー内容にも当初の予定から変更したことがいくつかある。その代表的なものが、最強の敵「後藤」の最期の場面だ。
寄生獣の開始・第一話を書いた頃、世間は現在ほどエコロジー流行りではなく、環境問題についてもさほど騒がれてはいなかった。つまり「愚かな人間どもよ」と言う人間がめったやたらにはいなかったのだ。だから第一話の冒頭では人類の文明に対する警鐘という雰囲気で、すんなり始められたのだが、世の大多数の人々が同じようなことを言い始めてくると、今度は妙な気になってくる。人と同じことを作品内で復唱するのが何やら気恥ずかしいのだ。単なるあまのじゃくかもしれないが、ともかく次には「愚かな人間どもよ」と人間が言うなよ、と言いたくなってくる。
そこで「後藤」の最期の話に戻るが、初め「後藤」は死ぬ予定ではなかった。復活し始めた「後藤」を残し、新一はあのままスタスタ帰ってしまうのである。「後藤」のその後については二案あった。一つは完全復活したものの、汚染された日本を嫌い、巨大な翼に変形して美しい自然をめざし飛び去ってゆく、という案。もう一つは完全に復活できず、人間に無害の別の生き物として山の中でひっそり生き続ける、という話だ。どちらも甘ったるい。そしてどこか無責任である。しかし破壊・汚染の元凶たる「愚かな人間ども」に対する「美しき野生」「偉大なる大自然」の代表選手である「後藤」が、ただ滅ぼされてしまって良いのだろうか、という思いがずっとあった。
だが、ひねくれ者の私の周囲で多くの人々が「愚かな人間どもよ」を合唱してくれたおかげで、もう少し先へと考えを進めることができたような気がする。
かくして第一話の冒頭の言葉は、人間のある種の代表である広川市長が引き継いでくれ、主人公はクライマックスで振り返り、戻ってきて自らの手を汚す、ということになった。私のひねくれ根性から始まったことではあるが、結果的には当初より内容が良くなったと自負しております。
おまけ
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