Wikipediaは荒れていることに(も)価値がある

一瞬「あれバーガー」に見えた。(本文とは無関係)

 ちょっと前に、日本語版のWikipediaの記事のクオリティについて議論があったような気がする。

 私はWikipediaの上部組織がどんな人によってどんな風に運営されているのかまったく知らないが、Wikipediaの質に十分満足している。

 2ちゃんねらが荒らしやがるから根本的な改革が必要とかまったく別のプロジェクトが必要というような類の主張をする人は、もしいればの話だがその考え方が古いだけだと思っている。

 確かにWikipediaの記事は百科事典に比べると低いのかもしれない、馬鹿が書いてるのかもしれないし、2ちゃんねらが荒らしてるのかもしれないし、ネット右翼(あるいは左翼)がはびこってるのかもしれない。

 とりわけ日本語版は英語版に比べてひどいのかもしれない。個人的には単なる利用人口の問題だと思うが。

 私もごく一般的な日本語の意味を知るのWikipediaを引くことはしない。もちろんPC上でではあるが、あくまで広辞苑を引く。

 これは特に意識せずにやっていることだが、あえて言葉に直すと「Wikipediaの利点は普通の百科事典・国語事典には載っていないようなマイナーな項目が存在することや速報性にあるのであって、安定性や正確性にあるのではない」と思って住み分けていることになる。

 WikipediaはWikipediaであって百科事典ではない。もちろん「Wikipediaは事典である」と言っても間違いではないが、それは「スペースシャトルは船である」というのと同じ程度に間違っていないにすぎない。

 百科事典や国語事典の内容がWikipediaのように荒れていたら確かに困るだろう。しかしWikipeidaがWikipediaのように荒れていて、個人的に不愉快だという以上に困った事態が何かあっただろうか?

 対して、荒れていることの利点なら誰しも常に享受しているはずだ。

 「荒らし等の理由によって半保護されています」とか「中立的な観点に疑問が云々」とかいう表示を見ることによって、一瞬にしてああこれは“そういう”トピックなんだという知識が得られるではないか。

 普通の百科事典を隅から隅まで読んでも得られない知識である。

 私はWikipediaでその項目に行くなり本文を無視して保護の状態とノートだけ見て帰ることが結構ある。

 荒らしがやってくるような項目がマイナーな話題であることは、ほとんどない。荒らしは多くの人が知っている一般的な項目に集まるのであり、そこがどんなに荒れているとしても普通の百科事典や他のメディアでまともな情報がすぐ見つかるはずだ。

 そして一番必要とされているマイナーな話題は特に荒らしも来ずに有意義であり続けている。

 Wikipediaの不要もしくは冗長な部分の質が低く、有用な部分の質が高いのなら、そしてある部分の質の低ささえもが別の有益な情報をもたらしているとすれば、それは単にWikipediaは有用で質が高いと言うべきだろう。

 もし何らかの高尚な理念の元にWikipediaに取って代わろうとするプロジェクトがあったとして、最大限うまくやったとしてもたぶん成功しないだろう。

 単純に後発だからというだけでなくWikipediaに取って代わるべき理由が何もないからだ。

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