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表現の自由を脅すもの (角川選書)

 えっ、何それ三国志オンライン? としか思えない私がいる。てか普通に「炎上」でいいじゃん。

 このエントリ見てたらなんか思い出したので例によって『表現の自由を脅すもの』からの引用を二箇所ほど。

 それでは、人を傷つける意見の規制はどのように正当化されるだろうか。(中略)その論理を辿れば、これらの議論は皆、同じ結論に回帰する。つまりそれは、勝手な批判(従って自由科学)が危険ないし有害であるから、正しい考えの人達によって規制されなければならないというものである。
何故頑迷な意見を許しておくのか。」(中略)一体誰が、どの言論は〈頑迷〉であり、どの議論は単に〈批判的〉であるのかを決めてよいのかという重要な問題に行き着かざるを得ない。(中略)何故それが、人気のない意見であるというより、〈頑迷な〉提言ということになるのか。その違いは何か。そして誰が発言するのか。
 頑迷な意見に対する反対派の人々は、問題に対して真っ正面からぶつかることを決してしない。何故ならそうすると自分達の正体がばれるからである。我々、つまり正しい考え方をするものが、誰が頑迷であるか、ないかについて発言するものであるというのがその答えである。
 誰かが、頑迷な、あるいは気に障る、あるいは被害を与える、あるいは抑圧的な、あるいは邪悪な意見は、禁止されるべきであると言うとき、実際に彼が言っていることは、「私の憎悪する意見は禁止されるべきである」というに尽きる。別の言葉で言えば、彼は、プラトンが哲学者(すなわち彼)が社会の幸福のために支配するべきであると主張したときにやったことと同じ事をやっているに過ぎないのである。彼は力ずくでひったくろうとしている。彼は、法王、アヤトラ、哲人王になりたがっているのである。
「何故憎悪に満ちた、あるいは誤った意見を許容するのか」という質問に対する答えは、プラトンが彼の空恐ろしいユートピアを開陳して以来ずっと同じである。別のやり方はもっと悪いから、というわけである。
我々は、批判や吟味、正しい憎悪や脅しを押し止めようと欲するものではない。」ところで何時も困ることといえば、ある人の憎悪に満ちた発言は、別の人の真摯な批判であるということである(「ホロコーストはイスラエルの捏造である」)。そうなると、誰が線を引くべきか。

規制しなければ、悪しき批判は良い批判を駆逐するであろう。」つまり、頑迷かつ邪悪な攻撃は、筋の通った議論を不可能にする。だから、批判的討論をめちゃめちゃにしないように、規制が必要だというのである。
 極めて短期的な見方で、しかもごく限られた小グループの場合を別とすれば、実のところ真理はまさにこの反対である。良い批判が悪しき批判を駆逐する。自由科学のゲームで効果を上げたいと思うならば、自分は正しいと他の人達に説得しなければならない。しかも、一般的に言って、口汚くがなることは、改宗者を得るには拙い方法である。その理由から言っても、ある卑しい言葉を叫ぶなどというやり方は、短い目で見た場合は別だが、自分の方から結果を悪くするという報いを受ける。では何故科学はそうした礼儀正しい振る舞いを発展されることになったのか。別に科学者達が他の人達に較べて育ちが良いというわけではない。そうではなくて、思慮深く整然たる議論の方が、「ニガー」(黒人の蔑称)や「ファゴット」(同性愛者の蔑称)と叫ぶよりは、効果があるということである。
 言うまでもなく、理に適った討論を簡単にぶち壊すことができるのは、それを外部から規制しようとする企てである。批判的議論が現実に瓦解したケース――ソ連、ナチス、アメリカのマッカーシズム、人種問題に関する今日の幾つかのアメリカの大学など――を思い浮かべれば分かるだろうが、その理由は、ある何らかの権力者が実力を持って社会を〈破壊的〉、〈転覆的〉、または〈抑圧的〉な言葉から守ろうと行動したことにあった。

おまけ

 それではどうぞネットイナゴをご堪能下さい。

コメント

  1. [倫理]ミルの反論

    「規制しなければ、悪しき批判は良い批判を駆逐するであろう。」つまり、頑迷かつ邪悪な攻撃は、筋の通った議論を不可能にする。だから、批判的討論をめちゃめちゃにしないように、規制が必要だというのである。 神は細部に宿り給う ネットイナゴネットイナゴ ジョン・スチ

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