ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学』

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

 なかなか面白い。私がドーキンス兄貴の『神は妄想である』等の主張に感じている不満をうまく代弁してくれている感じがある。

 shorebird先生の指摘通りグループ淘汰に関して理解が間違っているのが残念だが、メインの主張の価値は損なわれていないように思われる。

 私の理解で一番重要な要点をまとめるとこうだ。

 道徳は単に高いか低いかの二元論というわけではなく、5ないし6の別々のチャンネルを持つものである。そしていわゆるリベラルは、単に道徳基準が高いのではなく、いくつかの道徳基準をむしろ積極的に眠らせている。

 6つの軸を簡単にまとめると以下のようになる。保守派は6つ全てを重視し、リベラルは前半3つだけを重視し、後半3つを軽視する。さらにリバタリアンは最初の2つしか重視しない。

元の適応課題 現代での現れ方
公正/欺瞞 相互協力の維持 機会平等・ただ乗り防止
自由/抑圧 アルファ雄の掣肘 権力抑止
ケア/危害 子供の保護 福祉・結果平等
忠誠/背信 グループ維持 市民道徳
権威/転覆 階層的グループ維持 市民道徳
神聖/堕落 感染の忌避 公衆衛生・市民道徳

 最初の2つは比較的わかりやすい。

 フリーライダーを野放しにしてはどんな社会も成り立たないので、公正/欺瞞を無視する立場はありえない。

 権力抑止がないのは、独裁者とその取り巻きしか嬉しくないので、少なくとも民主主義国では、やはり自由/抑圧を無視する立場はありえない。

 ケア/危害もやはりまったく無視する立場はありえないものの、福祉の増加は、それを実現する権力(政府)の肥大とフリーライダーの増加に繋がるので、軽視する立場がありうる。それがリバタリアン。

 忠誠/背信と権威/転覆はやや似ている。ある程度重視されることは、どんな社会にも社会資本として必要と思われるが、公正/欺瞞や自由/抑圧と抵触し、行き過ぎると身びいき・ナショナリズムとなりうるのでリベラルは軽視しがち。

 神聖/堕落については、ちょっとわかりにくい。現代先進国では、元々の適応課題である感染忌避としての役割はほぼ失っていて、よそ者嫌い(人種差別)や自分のグループや国を神聖とする宗教やナショナリズムの形で現れる。言うまでもなく保守派が重視する。

 後半3つはどれも行き過ぎるとナショナリズム・全体主義・権威主義であり、粗視化すると「保守派は全体主義的だ」というリベラルから見てのステロタイプ的な見解と同じになってしまうわけだが、これは主張の欠点ではなく、利点であろう。

 だんだん大ざっぱにしていったとき、直感的・ステロタイプ的な見方と違うものが出てくるとしたら、それは元の理論が間違っているに違いないからだ。

コメント

  1. 地下に眠るM より:


    保守派は6つ全てを重視し、リベラルは前半3つだけを重視し、後半3つを軽視する。さらにリバタリアンは最初の2つしか重視しない

    この議論は僕もブログでこのあたりの話を紹介したときに書いたけど、
    実はサヨとしては納得いっていないんだよねw

    つうか
    メリケンにしろ日本にしろ、いまの自称保守って「6つ全てを重視」とはとてもいえないだろうな、と。
    4・5・6の重視で1・2・3の軽視無視なんじゃなかろうか?

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