2008 7/29

ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))

「人類みな兄弟」

 生命の絶対的尊厳性は一神教文化に基づいた概念であり、日本人は誰も本当には信じていない。これと同じ事が万人平等の概念についても言える。

 一神教文化における万人平等は、よく知られているように神の下の平等だ。人間は千差万別かもしれないが、老いも若きも男も女も、無限大のGODの力の前には等しくゼロである。この究極の自己卑下と人命の絶対的尊厳性を両立させうるのも、またGODという究極の矛盾処理装置の御利益である。

 対して非一神教の日本文化で「万人の命の重さは平等である。」と言う場合、それは「人間は千差万別だけど、もめ事を防ぐために、老いも若きも男も女も、私の命の重さも100億LP、あなたの命の重さも100億LPきっかりとして計算する約束にしましょうね。」という程度の意味である。

 あくまで万人平等を(一神教文化の基準で)本当に信じているわけではない。それは争いを防ぐための便法であり、技巧的な決まりごとにすぎない。やや身近な事柄にたとえれば「混雑時には割り込みをせずに、来た順番に行列を作って待ちましょう」というような。

 便法に過ぎないから、それを厳格に適用しようとするのはドライであると感じる。誰に対しても平等に「割り込むな列に並べ」としか言わないのは、法相の表現を借りれば「ドライでカサカサした人たちの考え」である。

 そして、たとえば病人やお年寄りや赤ちゃん連れのお母さんに対しては「皆平等に列に並びなさい」という決まりなど蹴飛ばして、割り込ませてあげるのがウェットで人情味のある、あるべき社会の姿であるというわけだ。

 念の為に断っておくが、もちろん欧米人がお年寄りに席を譲らないと言っているわけではない。私の感触ではむしろ逆だろう。実際に個々人がどう行動するかでなく、どちらが大原則で、どちらがそこからの逸脱であるのかの関係が正反対であると言っているのだ。

 これを念頭においてもう一度法相発言を読み直してみよう。

 だが、大臣が「日本の生命観は自然と共生であり、日本人はウエット」という持論を話し出したあたりから、分からなくなってきた。「死刑廃止論はドライでかさかさした人たちの考え。人の命を奪ったんですよ。何人奪っても死刑がない、そんなドライな世の中に私は生きたくない」

(中略)

 ……分からない。すべての命に死刑囚は含まれないのか。後で元秘書に解釈してもらう。「大臣の立ち位置は死刑囚でなく、遺族。遺族が死刑を望んでいるならその望みを断ち切ることはできない、という意味でウエットなんです」

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 ほらね、全能神の無限の愛を援用しない日本文化の人間にとって、何人殺した殺人犯に対しても「でも生命の尊厳は絶対なんです。それが決まりです。」なんて杓子定規なことしか言わないのはドライ

 そして、たとえば赤ちゃんとお母さんが殺されて、嘆き悲しんでいる遺族がいたら、そんな決まりなんて蹴飛ばして情によって死刑にしたり、逆に犯人がうんと可哀想な境遇の老人だったりしたら情状酌量して減刑したり、と柔軟に対応するのがウェット

 わかるよなあ? いや、もうとぼけるのはやめにしようぜ。私がわざわざ説明しなくても最初からわかっていたはずだよ。だって法相の言う「ウェット」とか「ドライ」が本当に意味不明の寝言なら、それを受けた死刑反対派が決まって自分の方が「ウェット」だと主張し始めるのはおかしいじゃないか。

 言っている方も聞いている方も、それが表しているものを詳細に説明できるほど理解していなくても、やはり心の奥底で意味は通じている。同じ価値観を共有しているのだ。なぜなら同じ文化に属する人間だから。

「何人なら問題なし?」犯罪被害者の会が朝日新聞に再質問(読売新聞 – 07月07日 21:30)

 計13人の死刑執行を命令した鳩山法相を「死に神」と表現した朝日新聞夕刊1面の素粒子欄を巡り、全国犯罪被害者の会(東京)は7日、「何人なら問題ないと考えているのか」などとする再質問を文書で同社に送った。
 「死に神」と表現した理由について、同社は同会の公開質問に対し、文書で、13人の死刑執行を命じたことなどを挙げて回答。同会はこれに不満を示し、再質問した。

(〔死に神〕問題で、「何人なら問題なし?」 – 来栖宥子★午後のアダージォ)

 死刑執行の件数を巡り朝日新聞夕刊1面コラム「素粒子」(6月18日)が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で、全国犯罪被害者の会(あすの会)は7日、朝日新聞社に「質問に正面から答えていない」として、6月25日に続き再度の回答を求める文書を送った。前回は「被害者遺族が死刑を望むことすら悪いというメッセージを国民に与えかねない」と抗議。これに対し同社は「犯罪被害者遺族の気持ちに思いが至らなかった」と回答していた。

(<犯罪被害者の会>朝日新聞に再質問 「死に神」問題で 7月7日19時5分配信 毎日新聞)

 ほら、こういうやりとり見てどう思うよ? 死刑に批判的な朝日の方が人命を数で秤量し、人情に配慮している。そして死刑に賛成のあすの会がむしろ人命と法の絶対性を訴え、数の問題ではないと言っている。

 概ね同等の政治経済レベルにありながら、EUの死刑廃止と日本の死刑存置を分けているのは、まさにその逆の哲学だというのに。なんというねじれた状況。頭が痛くなってくる。朝日が本気で死刑に反対なら「遺族の気持ちなんか関係ありません。当然1人でも駄目です。」と即答できなきゃいけないところだ。

 どうしても聞きたかったことがある。裁判員になって死刑判決にかかわるのは嫌だという理由で、裁判員になることを拒否できるのか。

 答えは意外にもイエスだった。「それはなんとか認める方向に持っていこうとしている。どうしても苦痛が大きいのであれば配慮されるようになると思う」

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))

 これもまた同じ。自他共に認める非常に日本文化的な為政者である鳩山法相が、民草の「死の穢れになるべく触れたくない、人に押しつけて自分は見て見ぬふりがしたい。」という気持ちを理解し、配慮しないはずがないのだ。

 これを意外と感じた毎日の記者もまた、よくわかっていない。本当なら「せめて公開性を担保するために裁判員には積極的に関わらせるようにして下さいよ。」とでも言わなきゃならないところなのだ。(つづく)

おまけ

..  億円|
      |
 20,000├               グラフで比較するとそれほど差はない
      |                
      |
 10,000├
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      └──━───━──
         wii     PS3

by 木戸孝紀 tags:


“『鳩山法相の死生観』を真剣に読めば死刑問題がわかる その6”へのコメント 5

  1. 1. ランバダ

    死刑廃止はキリスト教圏に於いても新しい事だと思いますが。
    死刑の廃止がキリスト教の伝統的価値により合ってるとするなら、
    なぜ以前は死刑が一般的だったのか分からないと納得できません。

  2. 2. 木戸孝紀

    >ランバダさん
    >死刑廃止はキリスト教圏に於いても新しい事だと思いますが。
    そうです。
    >死刑の廃止がキリスト教の伝統的価値により合ってるとするなら、
    そんなこと言ってません。
    >なぜ以前は死刑が一般的だったのか分からないと納得できません。
    そんな話はしてません。

  3. 3. ランバダ

    >生命の絶対的尊厳性は一神教文化に基づいた概念であり、
     日本人は誰も本当には信じていない。
     これと同じ事が万人平等の概念についても言える。
    これはキリスト教圏でも新しい概念であり、彼らも本当には信じていないのでは?
    だからガイア教のような連中が出るのでは?と言いたいんですよ。

  4. 4. 木戸孝紀

    >ランバダ
    >だからガイア教のような連中が出るのでは?
    おおお一転して無茶苦茶鋭いではないですか。
    シリーズを先読みする素晴らしい洞察ですよ。
    そうです。文明生活は人類にとって自然ではない。
    ちょっとでも油断するとすぐ太古の要素が舞い戻るんですよ。
    一神教が必ずしも死刑廃止を志向するわけではないです。
    ずっとそうだったように、神の名の下に死刑を許す論理も
    構築可能ですとも。どこかで言ってるはず。

  5. 5. みるくココア

    日本の死刑廃止論者は、
    『命の重さ』云々を議論している時点で、
    日本的な価値観において『命の価値』に限界があることを暗に認めていることになるというわけでしょうか。
    一神教的な価値観のように『命の価値』が∞であると認識していれば、『命の重さ』などという概念は飛び出してこないわけでしょうから。
    (∞の重さって何……?)

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