この本自体はいまいちだったのでおすすめ書評まとめにも取り上げなかったけど、読んでた時に思い出した話。
哲学的ゾンビというものは、単によく考えていないから可能な気がするだけの幻想だという意見に、私は賛成する。
この概念は、ITの用語でたとえるなら、
- エクセルのソースコードを入力するとエクセルの実行ファイルを出力するが、コンパイルはしていないソフトウェア
というのとよく似ている。
この概念の巧妙なところは、一見可能そうに見えるということだ。
そして、さらに巧妙なところは、実際にも可能だ(!)ということだ。このようなソフトウェアは実際に作れる。どうすればよいかわかるかな?
……そう、何を入力しようが(しまいが)単にエクセルの実行ファイルを吐き出すソフトウェアを作ればよいのだ! これは確かに問題の条件を完全に満たす。だが同時に、完全なインチキだ。
- エクセルのソースコードを入力するとエクセルの実行ファイルを出力するが、コンパイルはしていないソフトウェア
は作れるし、Windowsのソースコードを入力するとWindowsの実行ファイルを出力するが、コンパイルはしていないソフトウェアも作れる。Chrome(以下略)も作れるし、Mac OS(略)も作れるし、etc. etc.
どこまでも続けていくと、どんな入力に対しても期待通りコンパイラのように反応するが、コンパイルはしていない「コンパイルしないコンパイラ」が一見可能であるかのように見えてくる。だがもちろん、完全な錯覚だ。
この思考実験は実際には、「コンパイルしないコンパイラ」などというものは、コンパイルという複雑な過程についてよく考えていないから可能に思えるだけの幻想でしかないことを示している。
コンパイラあるいは一般にコンピュータに関してならば、これが詭弁であることはすぐわかるのに、脳に関して同じことができないとすれば、それは単に脳に関する知識が未だ不完全で、細部までよく考えていないからだ。
ダニエル・デネットが「聴衆の懐疑に応じてトリックを変える奇術師」というたとえを用いて言おうとしているのはこういうことだ。(と私は理解している。)
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