歴史的経緯を抜きに国旗・国歌強制拒否問題は理解できない

「悪魔祓い」の戦後史―進歩的文化人の言論と責任 (文春文庫)

 一度ウヨクサヨク論についての基本的なところを書いておきたかったのでちょうどよかったと思う。はてブで上がっていたこのエントリ、

 主張はいちいちもっともで、ひとつも間違ってないが、だからといって正しくもない。ジハイドロジェン・モノオキサイドの恐怖が事実だからといって正しいわけではないのと似たようなものだ。

 「市民的自由反対! 政府万歳!」という、現実にはほとんどいない都合のいい仮想敵を設定して論破するのは簡単だが、いくら論破しても残念ながらこの問題の本質はそこにはない。

(ちなみに市民的自由とはなんであるかとか、どうして自由体制はそれ自身を否定するような自由をも許容しなければならないのか、というレベルの話は今回は論外とする。わからないという人には例によって『表現の自由の脅かすもの』を薦める。また、そもそもなんで国旗や国歌に敬意を表すのがマナーとされるのかということについては全然話が変わるので後日に回す)

 見落とされているのは日本の国旗・国歌拒否運動に対して批判が強いのは、それが法的に正しくないからでも、倫理的に正しくないからでもなくて、それが共産主義運動(の隠れ蓑)と見なされているからだということだ。

 共産主義と反国旗になんの関係があるんだ? ソ連は国旗大好きだったじゃねえかと思うだろうが、そこを理解するには歴史を遡らないといけない。

 共産主義は清く正しく美しくまさに完璧な理論だった。ただひとつ“うまくいかない”という点を除けば。

 21世紀の視点であればこそ、共産主義の間違っているところも、うまくいかなかった理由も明々白々なのだが、もちろんそんなのは後知恵に過ぎない。

 20世紀の大部分を通して共産主義は、清く正しく美しくしかも新しい、教育程度の高い人々に好まれる、有力な選択肢のひとつだった。

 日本の共産主義者は戦前から存在したし、弾圧もされていたが、特に戦中は帝国主義反対と言って戦争に反対したので非国民のなんのと酷い弾圧や拷問・処刑を受けもした。

 彼らは当然敗戦も予期し、その後ソビエトの支援で革命を起こして大日本帝国政府を倒し、ニコライ2世同様天皇を処刑し、赤旗を国旗とし、天皇ではなく労働者を讃える歌を国歌とする共産主義日本を樹立することができるものと希望を持った。

 ところが日本が「うまく」体制を保ったまま降伏し、占領も資本主義国アメリカ単独で「うまく」やってしまったため、彼らの運動はせいぜい安保闘争が限度で、ついぞ革命は成らなかった。

 その無念は想像するに余りあるものがある。正直同情を禁じ得ないし、21世紀の後知恵を持ってさえいなければ彼らの理想にも一定の理解を示さない訳にはいかない。

 こうして行き場をなくした強烈なルサンチマンが、「もう戦争はごめんだ」という純朴な平和主義と、日本を再び軍事的脅威にしたくないアメリカの方針と、絶妙に補完し合って、日本特有のいわゆるサヨク(カタカナの)思想となった。

 どうしてソ連や中国や北朝鮮を礼讃するのか? どうして反米か? どうして反日(に見える)か? どうして天皇制・国旗・国歌に特に否定的か? どうして戦争責任問題に関して謝るというより謝らせるという態度なのか? etc. etc.

 こうして歴史的経緯を踏まえてみれば不思議でもなんでもない。ある意味当然とも言える。かつて存在した取って代わるはずのものがなくなってしまったので、なにをしたいのか分かりにくくなってしまっただけなのだ。

 こうした問題は国旗・国歌問題に限らずたくさん存在し、議論を阻害する要因になっている。

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