「顔の美醜について」のキモいところは、美醜という価値判断そのものの自明性が疑われない中で、藪の中のようなインタビュー的構成をとることで「多様な意見がある」とみせかけながらその全部が「悪平等を求める(戯画化された)フェミニスト」をバカにすることを媒介にしてつながっていることです。
という感想がたまたま目に入ったけど、『顔の美醜について』って、そんな話だったっけなあ。これが「美醜という価値判断そのものの自明性が疑われない」話だというなら、どんな話なら疑う話なんだ。
いま手元に本がないし、細かく覚えてないが、「悪平等を求める(戯画化された)フェミニスト」は確かに出てきたかもしれない。
しかし、作品全体としては『カリー』を支持する側にはっきり好意的で、作者自身の主張はむしろそちら(悪平等を求めるフェミニスト)にごく近いものだった、というのが私の記憶だが。
そもそも脳の顔の美醜判断モジュールを麻痺させる装置(≒美醜に進化心理学的根拠がある)というアイデア自体が気に食わない、という話なら、まあ一応理解はできるが。どうにもしてあげられない一つの意見として。
おまけ
顔の美醜以前の問題について。
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