またまた『表現の自由を脅すもの』より

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 なんだかそれっぽい話題が聞こえてきたので、久々にジョナサン・ローチ『表現の自由を脅すもの』から2ヶ所引用。

我々は、批判や吟味、正しい憎悪や脅しを押し止めようと欲するものではない。」ところで何時も困ることといえば、ある人の憎悪に満ちた発言は、別の人の真摯な批判であるということである(「ホロコーストはイスラエルの捏造である」)。そうなると、誰が線を引くべきか。

人を傷つける邪悪な意見が駆逐されれば、社会はもっとよくなるだろう。」多くの人たちは言う。「悪いことを言いかつ信じる人たちを罰し、そして追い払う必要があるということは、恥ずべきことだが、しかしそれは、文明化された人々を文明化されていない人々から、圧迫されている人々を圧迫者気取りの人たちから守るために、我々が支払わなければならない対価である。」別の言葉で言えば、オムレツを作るためには、幾つか卵を割らなければならないというのである。ジョージ・オーウェルが言ったように、答えはイエスであるが、しかし、オムレツは何処にあるのか。
 宗教裁判といえども、コペルニクスの考えを押さえることはできなかった。せいぜいそれがやったことといえば、知識の進歩を遅れさせ、人々を殺したことであった。新たな異端審問も、同じ事しかできない。信念を抑圧しようという試みは、かえってそれらの信念に注意を向けさせ、有名な裁判事件に仕立て上げてしまう。人種差別的、ホモ恐怖的、あるいはその他諸々の意見は許されるべきではないと強調すると、如何なる大学二年生でも、あからさまな人種差別主義者やホモ恐怖論者であるというだけで、確実に新聞のトップ見出しを飾ることになり、それは、多くの二年生にとってはこらえられない誘惑になるであろう。不快な言論は、人々が怒って喧嘩を売ろうとすれば、もっと不快なものになる。憤慨は四方八方でエスカレートする。しかし誰の考えも変わりはしない。

 また引用だけで終わるのもアレなので、自分の昔のツイートをちょっと引き伸ばして追記。

  • はじめから表現の自由を規制より好む人

 はいない。それは

  • 生まれながらに自由貿易を重商主義より正しいと感じる人

 とか、

  • 生まれながらに賢人独裁より普通選挙を正しいと感じる人

 とか、

  • 生まれながらに進化論を信じて創造論を理解できない人

 などと同様に、全くありえない存在だ。これらの制度・理論は、あまりにも本能・直感に反するもので、特殊な教育によらなければ信じさせることはできない。

 これらのうち普通選挙は一番救いがある。たとえ仕組みそのものが正しいとは信じられなくても、集団の中で自分が平等に扱われることを求める人間の本能には、完璧に訴えることができるからだ。

 自由貿易や進化論にもまだ救いがある。本能には逆らっても、実利や証拠の助けが得られるからだ。たとえ大衆の理解や支持が得られなくても――実際に今日でもしばしば得られない――関わる人は真剣に支持するインセンティブを持てる。

 表現の自由は本能の助けも実利の助けも証拠の助けもまったく得ることができない。

 社会的に受け入れられていく過程が、おおむねこの順序になっているのは、たぶん偶然ではないのだろう。

おまけ

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