問題そのものは上のエントリに詳しいようにあまり本質的なものではなさそうだ。
だがそれだけに、かつて原理主義的な知の頂点に立つ無謬の象徴だったローマ法王が、いまや「他人の宗教を侮辱するな」という原理主義者からの人道主義的非難にいとも簡単に屈してしまっているということが現代の思想状況の象徴にも見える。
原理主義の脅威などという言い方がされることもあるが、それは原理主義者の一部に多いテロリストの脅威である過ぎず、思想上の脅威というに値するのはあくまで人道主義の方なのだろうな。
それにしてもローマ法王がどちらかというと自由主義的原則に照らして擁護される側に回っているというのは一種の皮肉とも言えるのかも。
これだけではどういう文脈で言っているのか伝わらなさそうなので『表現の自由を脅かすもの』序盤からの引用を下に載せておく。
本書は、真理を虚偽からふるい分ける自由社会体制、つまり、我々の最も偉大にして最も成功した政治体制に関するものであり、またその体制の政敵、といっても旧い敵である旧式の権威主義者達のみならず、比較的新しい敵、つまり平等主義者や人道主義者達をも取り扱っている。
(中略)
本書の中心テーマをなす問題とは何か。それは、意見の相違を表出しかつ解決するための社会の原則とは如何なるものであるべきかということである。別の言い方をすれば、誰が正しいか(つまり真の知識を持っているか)、誰が間違っているか(つまり単なる意見を持つに過ぎないか)を決める正しいやり方とは如何なるものであるか、ということである。
(中略)
真の信念を「常軌を逸した」信念からどうやってより分けるかという中心問題に対して、五つの回答、五つの意志決定原則がある。原則というに止まらず、現在最も重要な代表選手とでも言った方が良かろう。
- ファンダメンタリスト(原理主義)的原則―真理を知る人々が、誰が正しいかを決めるべきである。
- 単純平等主義的原則―あらゆる真摯な人々の信念は平等に尊重されるべきである。
- 急進平等主義的原則―単純平等主義的原則に似ているが、歴史の中で抑圧されてきた階級や集団に属する人々の信念に特別の考慮が払われる。
- 人道主義的原則―前述のどれでも良いが、ただし人を傷つけないことを第一にするという条件が付く。
- 自由主義的原則―公然たる批判を通してお互いにチェックし合うことが、誰が正しいかを決める唯一の正当な方法である。
本書の言わんとするところは、この最後の原則が、唯一受容されうるものであるにも関わらず、今や他の諸原則に敗退しそうになっており、そうした展開は、危険極まりないものだということである。科学は抑圧であり、批判は暴力であるといった考え方が力を得、討論や調査を中央から取り締まることが、まともなやり方だという考えに戻りつつある――ただし今回は、人道主義的仮面を付けて。アメリカ、フランス、オーストリア、オーストラリア、その他のところで、人に害を与えるような誤った意見を持つ人々は社会の利益のために罰せられるべきであるいう「異端裁判」の古い原則が返り咲きつつある。そしてそうした人々を監獄にぶち込むことができないならば、職を失わせる、組織的な非難中傷運動の矢面に立たせる、謝らせる、意見を撤回させるようにすべきである。政府で罰せられないならば、私的機関や圧力団体、つまり思想監視の自警団がそれをやるべきであるという。
ローマ・カトリックの異端裁判が、ガリレオを捕まえて裁判に掛けてからもう三世紀半にもなるのに、新たな批判封じ込めイデオロギーや、それを実施しようという公私にわたる運動について執筆しているというのは、おかしなことである。何が起こっているのか。そして何故今起こっているのか。
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