2007 8/15

アイザック・アシモフの科学と発見の年表

 星新一の『おみやげ』を枕にして言いたかったのは、歴史の変曲点の話の続きである。

 一つ空想してみよう。この灰になってしまった「おみやげ」について私たちは何が言えるだろうか?

 私は「簡単に宇宙を飛び回れるロケットの設計図」に何が書いてあったかは全く想像もつかない。そんなものが存在しえたかどうかも疑わしいと思われる。*1

 ただし、想像もつかないとは言っても、少なくとも光速を越えることはできなかったであろうとか、はっきり言えることもないわけではない。

 「あらゆる病気を治し、若返ることのできる薬の作り方」に何が書いてあったかも、はっきりとはわからない。

 しかし、概ねどんなことが書いてあるかは容易に想像がつき、幾つかの具体的な部分については当たらずとも遠からずと言える程度には正しいだろうと自信を持つことができる。

 「皆が平和に暮らすにはどうしたらいいかを書いた本」に何が書いてあったかは、かなりの確信を持って断言できる。それは現代地球の書店で手に入る最高のものと、ほとんど何の違いもないであろう。

 わずか数ページのショートショートの、しかも具体的な記述など1つもない宇宙人の文明に対してこれほどまでに多くのことが言えてしまうというのは、改めて考えると奇妙なことに思える。

 これは私達はすでにこの宇宙についてかなりのことを知っているということを意味する。

 決して「全てのことを知っている」でも「大部分のことを知っている」でもないことは強調しておく必要がある。

 たとえば、私達は将棋の全ての局面を知ってはいないし、今後知ることもできない。その数は既知の宇宙の全ての素粒子の数よりも圧倒的に多いからだ。

 当然、大部分知っているとも到底言えない。私達は将棋の全局面のうち、針の先ほど・ケシ粒ほど・どんな喩えを用いても表現しきれないほどに小さな部分しか知らない。

 しかし、だからと言って「私達は将棋について何も知らない」とするべきかというと、全く違う。

 確かに将棋の戦法はまだまだ進歩するだろうし、500年後の最強棋士*2に対して、現代の名人は全く歯が立たないだろう。しかし、それでも指してくる手は名人から見て全く理解不能ということはないし「名人が開始から30手以内に負けることはない」という予想には全財産を賭けてもいい。

 500年後の何で出来ているかもわからない架空の棋士に対して、このようなはっきりしたことが言える理由は、何も不思議ではない。私達はすでに将棋のルールを十分によく知っており、そこから来る限界も知っているからだ。

 宇宙の法則はよく将棋のルールにたとえられるが、この将棋について言えることは、ある程度までは宇宙についても当てはまる。

 もちろん私達の宇宙の法則についての知識は、将棋のルールとは違って完全からは遠い。思わず「ほど遠い」と言いたくなるが、どのくらい「遠い」のかについては議論の余地がある。

 仮に「完全」からは「ほど遠い」とするとしても、文明発生以前の「何も知らない」状態からの距離と比べて、どちらがより「ほど遠い」かという相対的な意味ではどうか?

 「そんなに遠くない」と考えるのはうぬぼれが過ぎようか?

 これらがこれから先の主要な論点になるわけだが、結論から先に言うと「うぬぼれとばかりは言えない」というのが私の判断になる。

 相対論革命があり、量子論革命があり、原子力が解放され、宇宙と地球の年齢がわかり、遺伝のメカニズムが明らかになり、コンピューターが発明されインターネットが張り巡らされる、etc. etc. 20世紀のたったの百年間の出来事だ。

 21世紀の百年間で、これに匹敵する驚きの進歩がもたらされうるか? 率直に言って無理だとしか思えない。これは科学の進歩が止まるからでも、人間が馬鹿や怠惰になるからでもない。単純にもうすでにかなりのところまで来てしまっているからだ。

 だからSFの世界では有名なクラークの法則「充分に発達した科学技術は魔法と見分けが付かない」は、過去から現代に対しては正しかったかもしれないが、現代から未来に対してはもはや正しくない。

 500年前の中世からタイムマシンで連れてこられた人間にとって、現代はどこもかしこも魔法だらけにしか見えないだろうが、現代人が冷凍睡眠して500年後に目覚めたとき、魔法としか説明しようがないような科学技術は生まれていないだろうということだ。

*1:「簡単に」という言葉の解釈に依存するが。
*2:確実に人間ではない。

おまけ

 これは吹く。企画力の勝利。

by 木戸孝紀 tags:


“充分に発達した科学技術が魔法と見分けが付かなくなることはもうない”へのコメント 4

  1. 1. 日日紀

    想像力豊かな現在の我々にとっては、500年後の世界が相当なイロモノであっても既に「魔法」とは思わないでしょうね。
    人類がソフトウェア化されてたり、ソラリスあたりに移住してたりしてもそれを理解してしまえば想像の範囲内。
    まあその場合相手が現在の人間と相互理解できない存在に成っている可能性が高いので、それは最早人類のロードマップではないような気もしますが。
    とりあえずソフトウェア化されてしまえば通常の物理法則や受容器である脳に依存する制限が有る程度回避できるので、次の進化曲線が生まれてくれるんじゃないかと淡い期待。
    ここで小ネタを一つ。
    かつて20世紀に嘆いた人がいました。
    「主要な発見と呼べるモノはすでにあらかた出尽くしてしまった!」
    ですが最も繁栄した時期の恐竜類は自分たちの進化をこう予測したでしょう。
    「この世界における進化とは、とにかく食物を食い尽くさない程度に出来る限り大型化すること。それが我々の環境における成長・進化・勝利であり、同時に我々の限界はそこにある。食べ物は無限ではない。成長曲線の限界、それが進化の極限だ。」
    さて、環境という名の世界が変わることにより
    恐竜類は鳥類に姿を変えました。
    しかし白亜紀をいかに面白く生きるか。
    それに関しては彼らはまったく正しかった…。
    ということで20世紀生まれの我々にとって、20世紀という時代が最も面白い、という錯覚があるような気もするという今日この頃なのですよ。では。

  2. 2. 通りすがりのおっぱっぴ?・_・;

    100年後にはナノロボットを体内に侵入させ、脳をコントロールし現実世界では理解できない(重力、時間の概念など)現象を直接、脳の神経に送り込み実質3日間で100年分の体験を錯覚させるピストルが開発されるかもしれません。そのピストルで現代の人に気づかれずに打ってもその人は科学的に理解できるかに疑問があります。
    参考書:the singularity is nere when humans transced biology
    和訳版 ポストヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき
    署 Ray Kurzweil
    この人についてはURLを参考に。そこらの人がいうより説得力がある方やと思います。
    でゅゎ。

  3. 3. 匿名

    これは魔法が存在しない力であることを前提に語られていませんか?
    魔法は存在するかもしれないという前提ではどうでしょう
    または充分に発達した科学とはどの時代のどの地点から言ったものか?
    現代では常識となっている、あるいは専門的には常識となっている科学技術はすでに充分に発達しているとは言えないのではないでしょうか?
    量子学の分野ではすでにテレポートなどが理論上可能であるという論評もありますが、現時点では存在していない、またはそう思われている状態です
    しかし、明日あなたが杖をふるう者に急に別の場所に瞬間移動させられて、これを杖をふるったものに「魔法」と言われたとき
    あなたにはこれが科学か魔法かの区別がつきますか?
    つまりすでにその時代の常識となってしまっている科学技術は『充分に発達した』ものとは言えないかもしれません
    最先端、次世代技術、更に何歩も先の科学技術を目の前に
    「魔法」と呼ぶ現象を起こされた場合
    本当に見分けはつかないのではないでしょうか?

    最後に魔法が現代に存在するかもしれないこと
    未来に科学的に解明され存在証明がされる可能性
    魔法科学としてその力が使える可能性
    等を考慮した場合の考えも知りたいものです。

  4. 4. Himat

    現代人が高度に発達した魔法技術を見ても科学技術と区別出来る程、純粋で想像力豊かな人間は滅多に居ない。擦れっ枯らしの俗物ばかり。ああ嘆かわしい。銭儲けにしか興味の無い連中に技術を預けたらリーマンショックやマウントゴックス破綻みたいなろくでもない結果しか生まない。

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