2008 7/21

DEATH NOTE デスノート(1)

 永世名人 羽生新名人。勝利
目前、極限までの緊張と集中力
からか、駒を持つ手が震え出す
凄み。またの名、将棋の神様。
  × ×
 永世死刑執行人 鳩山法相。
「自信と責任」に胸を張り、2
カ月間隔でゴーサイン出して新
記録達成。またの名、死に神。
  × ×
 永世官製談合人 品川局長。
官僚の、税金による、天下りの
ためのを繰り返して出世栄達。
またの名、国民軽侮の疫病神。

(6/18 朝日新聞 素粒子)

「全知全能の死神」

(Wikipediaより)

 この朝日新聞の死神コラムは四方八方で議論を巻き起こしはしたが、大概はめいめいが自分の解釈を一方的に開陳するだけで、ほとんど実がない。そうなる最大の原因は「死神」とは何であるかについての見解が、話者ごとにてんでバラバラで、全く一致を見ないことである。

 一致を見ないのも当然だ。そもそも死神は日本には存在しない概念である。厳密に言えば日本の死神はイザナミだが、よもや死神コラムの「死に神」がイザナミのことだという前提でしゃべっている者は1人もおるまいし、古典落語の死神もまた、明治期以後に輸入されたネタに過ぎず、宗教的存在とは言いがたい。

 つまり死神概念は西欧のものだ……と思ったらはい残念、それも違う。意外と思うかもしれないが、西欧には死神は「いない」

こうした一般的に想像される禍々しい死神の姿は 一種のアレゴリーであり、死を擬人化したものである。神話や宗教・作品によってその姿は大きく変わる。時には白骨とは違った趣向の不気味なデザインとなる事もある。

(中略)

キリスト教などの一神教においては神は唯一神以外になく、実際に死をつかさどるのは天使である。このためキリスト教では「死神」は存在せず、代わりに「悪魔」が存在する。また、直接死神とは書かれていないが、黙示録において「第4の封印」を開けた時、「剣と飢餓を持って蒼ざめた馬に乗った”死”という者」がやって来ると記載されている。この者が神によって遣わされているという点は特筆すべきである。

(死神 – Wikipedia)

 わかるか? 欧米一神教的文化においては、実際に「いる」のは、全宇宙の創造主であり、最後の審判の主宰者であり、イエスや聖霊と三位一体であり、アルファでありオメガである、全知全能の父なる神、唯一神YHWH、いわゆるGODのみだ。

 あらゆる超自然・あらゆる超理性・あらゆる神秘の存在は、GODに連なるものあり、仮にそうでない超自然の存在があったとしたら、たとえどんなに神秘的であっても(むしろあればあるほど)それは幻であり、人々を正しい信仰から遠ざける邪教である。

 つまり大鎌を持ったローブに白骨の死神は単なる絵的な「たとえ」だ。そんなものはいない。後頭部がハゲてるチャンスの女神がヤハウェの隣に侍っていたりしないのと同じだ。万が一、本気で「いる」と思っているやつがいたら異端者であり、火焙りだ。

 さて『素粒子』の「死に神」がGODのことだ、もしくはその遣いである天使のことだ、という前提で議論している人はいるか? イザナミだという前提で議論している人がいないのと同様、誰もいないはずだ。今回「死神」についての議論を戦わせた日本人たちは、世界中どこにもいない「死神」がどんな存在であるかについて議論していたわけだ。

「死の穢れの神」

 元々どこにもいない「死神」についてのイメージが、てんでバラバラになるのは当然である。しかし、全員が濃淡はあれど日本文化を共有している以上、バラバラである中にも最大公約数があり、それは日本文化に沿った独自の死神概念とならざるをえない。どこからともなく現れて、人間をどこへともなく連れ去り獲って喰らう、死の穢れの神としての「死に神」*1である。

 鳩山法相・死に神コラムを書いた朝日の記者・コラムに抗議したあすの会・死刑反対派・死刑賛成派、それぞれ立場も思惑も違えど、ほとんど全ての日本人にとっての「死神」は、死神ではなく(GODでもアズラーイールでもなく、自覚はなくともまだしもイザナミの方に近い)この死に神の方だ。

 さて、死に神コラムを受けた鳩山法相はまずどう反応したか。

 「批判、中傷は慣れとる」。だから「死に神」と書かれたときの最初の反応は「ふーん、よく言うわ」だった。だが「待てよ、これはいかんわ、絶対いかん」と思い直したという。

(特集ワイド:死刑執行13人 鳩山法相の死生観 – 毎日jp(毎日新聞))(太線強調は私による。以後も同様。)

 鳩山法相は自他共に認める非常に日本文化的な人間だ。もともと日本にない概念である「死神」という言葉をぶつけられた時、「死」という字面から何となくマイナスイメージで、批判されているんだなというぐらいはわかったものの、最初はよく意味がわからなかった。

 しかし、鳩山法相も現代日本人であるので、やはり“穢れ”概念に慣れ親しむと同時に、それを良くないと考えるような教育を受けている。少し考えた結果、素粒子が言っているのは死神ではなく死に神であるということを、(私の考えでは正しく)洞察した。だからこうなる。

「(死刑囚にも)人権も人格もある。司法の慎重な判断、法律の規定があり、苦しんだ揚げ句に執行した。彼らは死に神に連れて行かれたのか」とマイクが置かれた台をたたいて声を荒らげた。

 さらに「私に対する侮辱は一向に構わないが、執行された人への侮辱でもあると思う。軽率な文章が世の中を悪くしていると思う」と語った。

(「死に神」表現に猛抗議 死刑執行で鳩山法相)

 ここで元のコラムに出てこない「執行された人への侮辱」を持ち出していることを「自分が堂々と批判を受けるフリをしながら、実際にはより弱い立場の人間を盾にして自分への批判をかわそうとしている」とだけ(もちろんその要素はある)解釈するのはよくない。

 日本文化における矛盾、この場合の死の穢れの片づけ方は「他人に押しつけてその人間を差別し、自分は関係ないと見て見ぬふりをする」ことだと最初に言ったが、この場合の他人というのは当然、より目下の弱い立場の人間になる。

 つまり主権者である民草が、公僕である大臣に穢れを押しつけ、大臣が部下である刑務官に穢れを押しつける。殺人者の死刑という、穢れ中の穢れの発生源に直接手を触れざるをえない末端の刑務官が全てをひっかぶり、民草は死刑など存在しないかのごとくそれを見て見ぬふりをすることで、全てが丸く収まる。これが日本文化的現代版死刑の完成系だ。

 だから死に神コラムによって、自分が民草から穢れを押しつけられて差別されているということに気づいた法相は、同時に自分は刑務官にその穢れを押しつけて差別しなければならないと気づいた。法相の心の内なる伝統文化はそうせよと教える。だが、外からの教育の命じるところによればそのような穢れの押し付け合いは、してはならない悪いことだ。

 誰も言ってない「執行された人への侮辱」を自分で持ち出しておいて、自分でそれを非難するというマッチポンプ的な混乱した言動に見えるけれども、法相の発言は現代日本の抱えるジレンマをわりと率直に表明しているのだ。(つづく)

*1:今後欧米文化的”Death”の訳語として「死神」を使い、日本文化的独自解釈の死の穢れの神を「死に神」として使い分けることにする。

おまけ

 三途の川の渡し守である小野塚小町が大鎌持ってるのは東西イメージのちゃんぽんなわけですな。

by 木戸孝紀 tags:


“『鳩山法相の死生観』を真剣に読めば死刑問題がわかる その2”へのコメント 1

  1. 1. 権兵衛

    欧米文化的”Death”とは、いわゆる the Grim Reaper のことでは?

    なお、そのへんは、キリスト教圏で必ずしも統一的ではないようですよ。Grim Reaper ないし Death ないし Tod は、あくまでも「たとえ」ですから当然ですが。

    ちなみに、英語をはじめとするゲルマン語族のgodないしGottは元々多神教の神を指す語ですから、唯一神であるエホバないしヤハウェを指す語の例としては、あまり適していないかも・・・

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