2008 7/23

BLEACH (1)

 前回で日本の死刑の完成型を見たので、今度は死刑廃止の完成型を見てみようか。

 私を含む大概の死刑廃止論者がロールモデルと考えているのは、すでに死刑を全廃しているEUだが、さすがと言おうか、以下の文章は死刑反対の論理をうまく要約していると言ってよい。

欧州連合は世界中で死刑制度が廃止されることを求めています

欧州連合(EU)は、世界のあらゆる国での死刑制度の廃止を目指して活動しています。この姿勢は、いかなる罪を犯したとしても、すべての人間には生来尊厳が備わっており、その人格は不可侵であるという信念に基づいています。これは、あらゆる人に当てはまることであり、あらゆる人を守るものです。有罪が決定したテロリストも、児童や警官を殺した殺人犯も、例外ではありません。暴力の連鎖を暴力で断ち切ることはできません。生命の絶対的尊重というこの基本ルールを監視する立場にある政府も、その適用を免れることはできず、ルールを遵守しなければなりません。さもないと、このルールの信頼性と正当性は損なわれてしまいます。

このように、死刑は最も基本的な人権、すなわち生命に対する権利を侵害する極めて残酷、非人道的で尊厳を冒す刑罰なのです。

人権的観点からの理由に加えて、死刑には無実の人の生命を奪ってしまう危険が内包されています。私たちの住む世界は不完全だからです。人間は間違いを犯すものです。裁判の当事者である検察官や裁判官、陪審員であっても、既決囚を赦免することのできる政治家であっても、絶対に間違いを犯さないという保証はありません。にもかかわらず、死刑はいったん執行されれば取り返しがつきません。屍を無罪とし、生還させることはできないのです。

(欧州連合 – EUと死刑)

 私のような死刑廃止論者は皆このような哲学を正しいと信じている……わけねーだろが! 日本人はたとえ死刑全廃に賛成する論者であっても、このような哲学を誰も本当に(一神教文化の基準で)は信じていない。もちろん私もだ。信じているという人は、十中八九なんとなく信じているような気になっているだけだ。

 ここを誤魔化したままでは日本の死刑廃止議論は絶対に今より先へは進めない。それを自覚した上で「ではどうするのか」を考えるのが、いま必要とされていることだ。このEUの文書は後でまた戻ってきて詳細に取り上げるので、その時までによ〜く読み込んでおいてね。強調したところを参考に、とりわけ行間を。

「気の毒な神?」

 死神と死に神がいかに異なった存在であるか実例で見よう。まず死刑賛成派の産経新聞の記事の一部。

 話は飛躍しますが、人類で最初に生まれ、同時に最初に死んだ人の名を「ヤマ」といいます。インドの神話によれば、ヤマは死者の国(天界)への道を最初に見つけたことによって天界の王となります。が、時代が下るとヤマは、かわいそうなことに「死に神」とみられるようになりますが、一方ではヤマは、死者の生前の行為を審判する思想とも結びついていきます。

(【語誌ップ拾遺帳】死に神 7月12日15時46分配信 産経新聞)

 飛躍しすぎだろというのはひとまず置いて、これに対して、「死神」とみられるようになったヤマはかわいそうなの?閻魔さまは死に神とは違うの? というコメントがなされていて、その人はキリスト教徒だというのは大変示唆的であると思う。

 一神教文化に属する人間から見ると、ここには産経が痛いとか馬鹿とかいう以前の問題がある。死神は「かわいそう」ではありえない。死神はGODの一側面であり、唯一神が「かわいそう」だというのはまったくもって意味不明である。

 だが、日本文化に属する人間にとってこの部分は、別に賛成しなくても興味がなくても、少なくとも意味不明ではない。ちょっと考えればすぐわかる。ヤマは死の穢れを司る役を押しつけられて死に神にされたから「かわいそう」なのだ。「死神」が「かわいそう」でありうるのは日本文化的・多神教的な前提下においてのみである。

 今度は死刑反対派としてよく見るブログのエントリ。

 その一方で、法を守り、国民に期待され、ストレスに耐えて命令に従い、死刑に関わる業務を遂行する人たちがいる。彼らは(こういう言い方はしたくないが)死神の道具だ。

 私は命令に従い死刑に関わる業務を遂行している人たちを批判しない。むしろ気の毒に思っている。私なら(戦争でも起きればともかく平時に)「意図的に確実に人の命を絶つ」仕事はできない。社会のため、正義のためと信じて辛い仕事をしている人は立派である。

(死神の力 – 玄倉川の岸辺)

 一神教的な文化における死刑存廃議論において、賛成・反対に関わらず「執行者が気の毒だ」という意見はありえない。

 神の名の下に死刑の執行を許すなら、命令を下す大臣も手を下す執行者も神の代理人であるから、当然「気の毒」などではない。神の名の下に死刑の執行を禁ずるなら、命令を下す大臣も手を下す執行者も、神を僭称する輩であるから、たとえば「許されざる殺人者」などではではありえても、やはり「気の毒」ではありえない。

 死刑執行者が「気の毒」でありうるのは、人々の穢れを押しつけられ、あたかも存在しないかのごとく振る舞わなければならないことを自明の前提とする、日本文化においてのみである。

 執行者が「気の毒」であることを認める日本の死刑反対派は、賛成派の鳩山法相や産経新聞と、死刑の是非という論点ではもちろん対立するけれども、文化的前提は共有している。蝸牛角上の争いとまでは言わないが、より大きな視点では同じ側にいる人間である。

 そろそろジレンマの深刻さを実感してもらえるだろうか。そう、困ったことにこの「より大きな視点」で正反対側にいるのが、まさしく冒頭でEUが示しているような死刑全廃を支える一神教的倫理なのだ。(つづく)

おまけ

 東方続きだけど閻魔がかわいそうというとこれしか選択肢が……。

by 木戸孝紀 tags:


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