『ひぐらしのなく頃に』に見る「推理もの」とサウンドノベルの新しい形

 サウンドノベル『ひぐらしのなく頃に』(以下ひぐらし)にはまっている。ひぐらしの特徴として、まず選択肢が全くないことが挙げられる。これは弟切草以来のサウンドノベルの常識に真っ向から反するものだ。

 自分でサイコロを振ってダメージを判定しなくていいからこそRPGであるように、サウンドノベルはゲームブックの行き先ページを探す手間がいらないからこそ意味があるのではないか? と思うのが当然だ。

 だがよく考えれば、サウンドもグラフィックもつけられるのだから選択肢がなくても普通の小説とは十分な違いは出せるのだ。むしろ選択肢には弊害もあった。『正しい』つまりちゃんと未読のシナリオを読める選択肢を選べているか気になって集中できないという害だ。

 私は最近のサウンドノベルはやっていないからわからないが選択肢のフローチャート機能なるものががついているものもあるという。これは『ないと面倒くさくてプレイできないからオートマッピング機能がついているRPG』というのと同じで本末転倒だと思う。

 ひぐらしには、かまいたちのように推理しながら選択肢を選んで真犯人を当てさせるパートはないのだから、むしろ選択肢はない方が集中できて良いわけだ。

 ところで「推理もの」と言った場合まず連想するのはアガサ・クリスティーやエラリー・クイーンに代表される古典推理ものだろう。不可能殺人が発生する。探偵役が現れ容疑者を調べ、わずかなヒントから見事トリックを暴き真犯人を挙げる。読者は探偵役の与えるヒントから自分も真犯人とトリックを推理することを楽しむ。

 この「推理もの」は現在あまり流行っているとは言えない。一世を風靡した『金田一少年の事件簿』は少なくともコンセプトとしては「古典推理もの」に忠実な漫画だったと言えるが、ほとんど同じ内容の次回作はそれほど流行っていない。これは偶然ではないだろう。

 理由はちょっと考えただけでもたくさん思いつく。まず思いつくのは携帯電話の発達やDNA鑑定に代表される科学捜査技術の進歩で、殺人を犯して罪を逃れ得る現実的なトリックを考え出すことがほとんど不可能であること。

 しかし、これは本質的ではない。舞台を過去、あるいは電波が届かず警察も来られない状況に設定すれば容易に回避できるからである。あの『かまいたちの夜』からしてすでにそうであるし、ひぐらしも舞台が過去なのは携帯電話があると困るからだそうである。

 もう一つがネタバレの問題である。古典推理ものの魅力は犯人やトリックを知ってしまってはほとんど無くなるのでこれは深刻だ。合理的な謎である以上、いかに難しくても発表後直ちに誰かしらは正解にたどり着いてしまう。

 話題になればなるほどネタバレの危険も高まるから、ネットや口コミを通じて『推理もの』の面白さが自己増殖することなど本質的にあり得ないように思われる。ところが、ひぐらしでは、そのあり得ないことが起きている。

 ひぐらしは読者に『推理』を呼びかけてはいるものの、古典推理ものの意味では全く推理できない。単純に情報が決定的に足りないのと、そもそも何が信頼できる情報であるか決められていないからである。

 たとえ、これから発表される解明編がどんな素晴らしい出来であったとしても、それを含めて一冊の『推理小説』として出版されたなら間違いなく「(推理小説として)反則だらけ穴だらけ」という評価になってしまうはずである。

 しかし、現実にはその情報不足、不完全さそのものが面白さになっている。誰も正解にはたどり着きようがない、だからネタバレなどしたくてもしようがない。そもそもまだ正解が決まってもいないかもしれない。面白いトリックを思いついたら嘘から出た真になったりするかもしれない。

 人それぞれの多用な推理というか妄想が生まれ話のタネになる(知らない人は『デスノート』に近いものがあると思ってもらえばいい)。『ネットで盛り上がる推理もの』という不可能が可能になった理由はそこにある。

 ひぐらしは同じ『推理』をうたってはいても、古典推理ものとは似て非なる『メタ推理もの』とでも言うべきひとつの新しい形式の作品だ。

 古典的推理ものがクロスワードパズルとすれば、メタ推理ものはテトリス。コンピュータの進歩でテトリスという正解のないパズルができたように、ひぐらしは、ネット環境なしには成り立たないこうした楽しみ方をコンセプトとして作られた新しい形の『推理もの』なのだ。

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