【第45回】 【目次】 【第47回】
仏教と菜食主義
仏教の原則の一つに(中略)森羅万象に慈悲をたれよ、というのがある。これを忠実に守った仏徒はほとんどいない、有名無実の掟だ。彼らは、他人の殺した四つ足の肉を食べれば同じことだと、詭弁を弄して従わないのだ。しかし、近年、この戒律を強化しようとする試みがしばしば行われ、偏狭な菜食主義者と肉食主義者との間で、論争が絶えなかった。これらの議論の余波が、世界連邦食糧機構になんらかの実際的影響を及ぼそうとは、フランクリンは一度も考えたことがなかった。
最後の文以外は、今日の現実の話だと言われても、それほど違和感はないだろう。実際、多くの「欧米」の菜食主義者が、自分の意見は仏教あるいは「東洋」のもの、ないしはそこから学んだものであると主張する。
私はそれが嘘だと言っているのではない。しかし、実際の経緯は、本人達が自覚し自己申告するものよりも複雑で、何らかの役に立つ洞察に繋がるのは、むしろ自己申告に含まれ「ない」部分であると考えている。
とりあえず、主人公フランクリンは――ひいてはおそらくクラークも――単なる仏教的な戒律(に基づく菜食主義)には、特にシンパシーを抱いてはいないことを憶えておこう。
マハ・テーロ
ある仏教指導者を中心とする反対運動が起こる。ちなみに、ここでのフランクリンの会話相手は「世界連邦食糧機構のセイロン島駐在官」(西欧人)である。
「ぼくを引き合わせようという、そのテーロというのは、どんな人物なんだね」
「テーロというのは、彼の肩書きでして、いわば大司教といったものです。本名は、アレグザンダー・ボイスといって、六十年前に、スコットランドで生まれたんです」
「スコットランド?」
「ええ――西洋人で、仏教の聖職階級の最高位に昇った、最初の人間です。いろいろ反対を押し切らねばならなかったようです。わたしの友人の比丘、つまり修験者ですが、こぼしていたことがあります。あの男はスコットランド教会の典型的な長老タイプで、二、三百年遅く生まれすぎた――それで彼は、スコットランド教会の代わりに、仏教を改革したのだ、と言っていました」
「最初、どんなふうにして、セイロンへ来たんだね?」
「本気になさらないでしょうが、彼は映画会社の、下っ端の技師として来たのです。当時二十歳前後でした。ダンブーラの岩窟の寺院にある、仏陀寂滅の像を撮影に行って、改宗したという話です。その後、二十年かかって最高位に昇ったのですが、それ以来、今日までに行なわれた改革の大部分は、彼の力によるのです。(中略)
政治とは無関係であるようなふりをしていますが、これまでに、指一本動かすだけで、二つも政府を倒していて、東洋に非常に多くの信徒を持っています。彼の、“仏陀の声”、という番組は、五、六百万の視聴者があり、少なくとも十億の者が、全面的には彼の意見を支持しないまでも、共感を示しているものと推定されています。
(中略)
彼は意外なほどおだやかな、大変、人当たりのいい小男です(中略)話のわかる、親しみのある人物です。(中略)誰でも菜食主義になれるものではない、ということはちゃんと理解していて、わたしたちが最初もくろんだ、聖地に処理工場を新設する計画は撤回するという条件で、彼と妥協しました」
「それでは、彼が牧鯨局に、急に関心を持ち出したのは、おかしいじゃないか?」
「おそらく、どこかで、抵抗しようと考えたのでしょう。それに――鯨は、ほかの動物とは種類が違うと、お考えになりませんか?」
その評言は、否定か嘲笑を予期しているかのように、半ば弁解的になされた。
さて、ここでも私が何を言いたいか、わからない人はいないだろう。このマハ・テーロもまた、ペロー神父のミーム的子孫*1であるということが。
もうひとつ興味深いポイントは、クラークの描く21世紀以降の未来世界で、ある人物が「クジラは他の動物とは違う」という考えを「否定か嘲笑を予期して」「半ば弁解的に」示すということだ。
現に21世紀の未来世界に生きていて、このシリーズをここまで読み通すほど捕鯨問題に興味がある読者は、実在の人間が、現実にこうした言葉を、実際にこうした態度で発する場面に、おそらく遭遇したことがあるはずだ。
この空想の一場面が、一見そのまま現実になるまでの半世紀の間に、起きたこと・起きなかったことは何だろう? 何が変わり・何が変わらなかったのだろう? この「糸」では答えを出すには至らないだろうが、一度考えておく価値がある。
屠殺・血肉・映像・悪臭
フランクリンはテーロたちの視察を受け入れ、鯨の屠殺(なぜか変換できない)・解体処理場へ案内する。
「B五二一一一が入ってきます」
と、監視室に揃って立ちながら、フランクリンはテーロに言った。
「七十一フィートの牝で、これまでに五頭の子供を生んだことがわかっています――繁殖の最適齢期を過ぎましたので」
彼の背後には、数台のカメラがあって、音もなくこの光景を撮っていることを、彼は知っている。それを操作する丸坊主の、鬱金の衣を着た技師たちが、職業的な腕を持っているのに彼は驚いたが、やがて彼らがみな、ハリウッド仕込みであることを知った。
(中略)一瞬、それは処理場の柵にそって、静かに泳いでいた。一秒後、それは惰性で前進をつづける、かさばった物塊でしかなかった。電光のようにその心臓を貫く、五万アンペアの電流は、死痙攣の起こる時間さえ許さなかったのだ。(中略)
ボイス尊師は(中略)八十一トンの肉と骨が、遠くへ運ばれていくのを、感慨深げに眺めていた。
「車へもどりましょうか? 向こうの様子を拝見したい」
そしてぼくも、きみときみの随員諸君が、どんな反応を示すか、拝見するのが楽しみだよ、とフランクリンは肚の中ですごんだ。加工場の見学者は、たいてい青くなって、震えてくるし、卒倒する者も少なくない。局内でよく言われる冗談に、この食糧生産の授業を受けると、その後数時間は、みんな食欲がなくなってしまう、というのがある。
彼らがまだ百ヤードも手前にいるうちから、悪臭がおそってきた。横眼で見ていると、録音機を携帯している若い比丘が、早くもたまらなさそうな様子を見せはじめた。しかし、マハ・テー口は少しも動じる様子がない。五分後、大きな死骸が、肉と骨と臓物の山に切り離される、悪臭ふんぷんたる地獄をのぞきこんだときも、彼は依然として冷静で、平然としていた。(中略)
その巨体は、すでに電送写真カメラに走査され、その大きさの寸法が、作業を制御しているコンピュータに記録された。この手順がわかってからでも、伸縮自在な腕につけられたナイフと鋸が、動いてきて、規格どおりの形に切り、またもどっていく正確さを見守るのは、薄気味悪かった。巨大なつかみが、一フィートもある厚い皮をつかみ、人間がバナナの皮をむくように剥がした。あとには生剥げの、血がしたたる死骸が残り、コンベアーに乗って、解体を行なう第一段階へ流れていった。
鯨は、人間がのんびり歩いているほどの早さで移動し、見学者がそれについて歩いていく眼の前で、解体された。象ほどの大きさの肉の塊が、細かく切りきざまれて、かたわらのシュートを滑り落ちていった。円鋸が回って、骨屑のほこりをたてながら、肋骨の骨組みに切りこんでいった。鯨が最後に食ベた、たぶん一トンもの小エビとプランクトンが詰まっている腸をおさめた、一連のプラスチック容器が、悪臭を放ち山と積まれて、運び去られた。
海獣の王を、専門家以外には見わけのつかない、血だらけのばらばら死体に変えるのに二分とかからなかった。骨一本も無駄にはならない。コンベアー・ベルトの尽きるところで、分解された骸骨は、一つの穴に落ちこみ、ここで粉にひかれて、肥料になるのだ。
「いかにもSF」な解体機械がややシュールに見えるという表面的な話を別とすれば、おそらく標準的な日本人読者がこの部分にまず感じるのは、解体描写の容赦のなさだろう。
これを単に、屠鯨(?)反対運動が起こるというストーリー上の都合に基づく偏向と考えるのは、おそらく間違っている。
これが日本人作家の手により日本で出版されるSF小説だったとしたら、たとえ作家がはっきり捕鯨反対の意見を持っていたとしても、「悪臭ふんぷんたる地獄」だの「生剥げの、血がしたたる死骸」だのという表現はありえないだろう。
主人公が「どんな反応を示すか、拝見するのが楽しみだよ」と「肚の中ですごん」で見せることもありえない。どれほど強硬な反捕鯨派の日本人でも、そこは同意せざるをえないだろう。
私の考えでは、この屠畜意識の落差と、それに対する誤解は、国内外の反捕鯨・反イルカ漁問題の議論に深刻な影響を与えており、その重要性は前回取り上げたカニバリズム感についての誤解に勝るとも劣らない。これも次回で集中して取り上げたいと思う。
「これが、二十年間の献身的な公務員勤めにたいする酬いなのか」
と、フランクリンはぼやいた。
「自分の家族にまで、血まみれの殺し屋と見られるとはね」
「でも、今のは本当のことでしょ?」
アンが、TVスクリーンを指さして言った。そこにはつい今しがたまで、血がしたたっていたのだ。
「もちろん、本当のことさ。しかし、非常にうまく構成された宣伝でもあるんだ。お父さんだって、こちら側の言い分を、同じくらいうまく作ろうと思えば作れるよ」
少し飛んで、視察の映像が反対運動に使われる場面。2008年以降の反捕鯨・反イルカ漁騒動を、まさに見てきたかのような描写がなされていて、とても興味深い。
*1:クラークが『失われた地平線』を知らないとは考えづらいので、おそらく直接の「子」だろうが、仮にそうでなくても別に構わない。
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