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さて長かった*1『イルカと話す日』の本文も、ついに今回が最後である。名残を惜しむとともに、抜かりなくここまでのまとめと今後の展望についての準備を始めよう。
第一〇章 生態系の一員としての自覚を持った科学的観察者
これまで科学者といえば、実験を行ない、こうした実験から自分なりの推論を引き出し、学術論文を発表する者のことであった。(中略)科学者は、学術誌や学会で研究成果を発表するものと考えられてきた。
こうした方法による科学上の通説の形成過程は、テレビやラジオが登場して公衆と即座にコミュニケーションが図れるようになったことで、いくぶん変化しつつある。(中略)それとはうらはらに、科学者たちの考え方は、いままで変化がみられなかった。すなわち、科学者の義務は、まず同僚の科学者に研究成果を報告することだった。こうしてその研究は質を判断され、他の科学と統合されて、ようやくマスメディアに発表されるのである。
この手続きを踏まずに、仲間や同僚の科学者の意見を仰ぐことなく研究を発表する科学者は、誰であれ科学者の社会から爪弾きの目にあってきた。(中略)ある科学者の著わした本が、専門の学者の審査を受けずに、定評のある科学専門の出版社からではなく、一般向けの本を手がける出版社から出版されたとする。しかも編集にあたったのは科学専門の編集者ではなかったとする。その場合、こうした研究は黙殺されるのがつねだった。
ところが一般の読者、つまり科学者でない人間向きに書かれたこうした書籍は、科学者ではない読者のあいだで強い影響力をふるってきた。つまり、通常の科学者仲間のあいだでは伝わらない、数多くの学説が通説として評価を受けるようになり、青少年の教育に欠かせないものとなってきたのである。
この経路で発表されてきた学説は、多くの人びとから強力な支持を得るようになった。(中略)ついで、こうした学説は、大衆の側から科学者の集団へと逆に伝えられたが、たいていは結束を固めた科学者から頑強に拒絶された。(中略)
新しい世代の若い科学者の中には、社会的な参加意識を持つ者もあらわれてきた。(中略)われわれの子供たちは、テレビを観たり、ラジオを聞いたり、大集会に参加したりして成長するが、これらはいずれも十九世紀には存在しなかったものである。より多くの情報が、より多くの方面から迅速に伝達され、若い科学者を育成して、彼らを二十世紀の参加意識を持つ観察者へと育て上げていくことだろう。
- 「自分の画期的な発見・理論を、頭の古い学者・学会が結託して黙殺しているのだ!」
というのも、またしてもトンデモ学者の発言テンプレに当てはまりすぎて怖いぐらいだ。
メディアを通して直接大衆に語りかけることに希望を見いだしているところがとても興味深い。大局的に見て、彼の狙いは大成功を収めたと言わざるをえない。このシリーズは今後かなりの部分を、その成功の結果を追いかけることに費やすことになるだろう。
第一一章 クジラ類を保護する新しい法律の提案――さしあたっての戦略
神経解剖学の研究の進展により、クジラ類の脳の大きさがさまざまであり、類人猿程度のものから、人問並みの大きさのもの、さらに人間の脳の六倍もの大きさのものまであることがわかった。生物学的研究が進んだ結果、クジラ類が人間の言語に似た、複雑な音声を水中で発してコミュニケーションを交わすことがわかった。人間並みの脳を持つクジラ類の場合、人間とコミュニケーションを取ろうと努力することが確かめられている。
(中略)
こうした事実と観察から、次のような法律を作ってはどうかと思う。
- およそクジラ類を、人間の所有物と考えたり、産業資源や家畜の一種であると見なしてはならない。
- クジラ類には、個々の人間に与えられているのと同じ法的権利を与えるべきである。
- 個人または団体に権利を付与して、人間から虐待されているクジラ類のために訴訟を起こしたり、クジラ類の代理人として法廷に立てるようにするべきである。
- 科学的研究を振興させ、資金を援助してクジラ類とのコミュニケーション方法を確立すぺきである。
- こうしたコミュニケーションが確立されたあかつきには、クジラ類と人間双方の合意にもとづいて、両者のあいだのコミュニケーション活用を保護する法律案を作成し、アメリカ合衆国の議会に提出すべきである。
- したがってクジラ類と人類のあいだで結ぶ新しい法律や協定、条約を、クジラ類と協力して研究すべきである。
いまこそ認識をあらためて、これまでの人類の地球上での生き方が、自己中心的であり、孤立した生き方であったことを認めなければならない。人間がこうした生き方をしてきたのは、自分と同等の大きさの脳を持つ海中の生物とのコミュニケーションに失敗したからである。クジラ類は人間の現実とは異質の現実の中に生きている。人間は独自の言語と社会的能力を備え、一五〇〇万年間かけて淘汰を免れてきた経験で規定されるクジラ類の現実を尊重し、研究するべきであり、その研究結果をまとめて人間の法律としなければならない。
以上に述べた提案がSF小説じみていて荒唐無稽だと決めつけて、真剣に考えようとしない人がともいるにちがいない。そうした見解を持つ人びとにたいしてはこう答えよう。あなたたちの考え方は、ただ単に脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけなのだと。荒唐無稽だと決めつけてしまえば、この壮大なプログラムから安閑と身を引いていられる。しかし人間は長いあいだ、固い信念を抱いて、頑なな考えにとらわれたために、数々の文明を衰亡させてきたのである。この地上に生きる人間以外の生物の中でも、非常に複雑で古い歴史と倫理を持つ生物とのコミュニケーションの可能性に目を見開くためには、過去から受け継いできた、こうした盲目的な信念を振り捨てることが必要である。
かっこよく決めてもらったところで、本文からの引用は最後である。
シリーズの前後に対して有益な部分を、長くなりすぎないように選ぶという制約がある以上仕方がないが、私はこの8回に渡る引用でも、リリー博士の魅力を十分に表現できてはいないと思う。
この現代の魔導書と呼ぶにふさわしい本の魅力を十分に味わうには、ぜひ自分で手にとってもらいたいと思う。*2
私の意見では、彼の悲劇は生まれてくる時代を間違えたことだ。彼は、世が世ならイルカをトーテムとして崇める部族の大酋長として何千年も語り継がれる人物になっていたかもしれない、イエスや釈尊やムハンマドと並んで世界の大宗教の祖となっていたかもしれない、真の天才だった。
実のところ今後このシリーズに、彼以上に独創的な人物も・彼以上のカリスマ性を持つ人物も・彼以上に善意の塊のような人物も出てこない。彼との直接対話がここで終わってしまうのは正直とても残念だ。
だが、あまり寂しがることはない。ある意味では、このシリーズは今後も最後までずっと彼との対話だとも言えるのだから。
ここ数年の反捕鯨問題に多少なりとも興味があって報道を追っている人にはわかる思う。宇宙文明に還ったはずのリリー博士の霊は今もなお、シー・シェパードの船長、ザ・コーヴの監督、彼の元で働いていた飼育係、様々な人々の口を借りて、我々に語りかけているのだから。
最後なのでもう一度強調するが、ここで「頑なな考えにとらわれ」「脳と地球の生態系に関する無知をさらけ出しているだけ」なのは誰かということを問題にするのはやめよう。それは不毛である。
1960年代の学者や研究が、2010年代の基準を満たしていないからと言ってそれを非難するのは、織田信長の比叡山焼き討ちを「大気中への二酸化炭素排出に無頓着だった」と言って非難するのと本質的に大差のない、ただの時代錯誤である。
批判すべき点は、しかもそれが有益であると思われる点は他にある。
さて、約150年前のアメリカに住む(当時の基準で)リベラルな白人科学者たちは、社会や政治の悪影響を受けない客観的知識を追求した結果、
「黒人やインディアンは脳が小さく、類人猿に近い人間とは別種の生き物で、女性や子供に似ていて、白人に比べて痛みを感じない」
という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、
「ネイティブ・アメリカンのジェノサイドや黒人奴隷制度に寄って立つ自分たちを正当化したい」
という自分たちの願望を、「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか? 今日時点では、もはや考えるまでもないことだ。
一方、約50年前のアメリカに住む(現代の基準でも)リベラルな白人科学者たちは、生態系の一員として社会的な責任を果たそうと努力した結果、
「イルカやクジラは脳が大きく、人間以上の知性を持っていて、言語を話し、太古からの知恵を語り継いで、地球と調和して生きている」
という科学的事実を発見した。彼らは本当に事実を見ていたのだろうか? それとも、
「先祖の土地を返せといって立ち上がる足も銃を取る手も持たず、バスの席をよこせといって犬をけしかけたりしなくてもよく、曾々祖父さんたちが滅ぼしてしまったインディアンの歌よりも何千倍も古くから歌い継がれてきた地球の叡智を教えてくれる、新しい都合のいい隣人がほしい」
という自分たちの願望を、「自然」という名の鏡に映して見ていただけだったのか?
厄介なことに今年は西暦2111年ではなく2011年なので「考えるまでもない」とはとてもいかない。考えるまでもないどころか、多くの人には考え始める材料も動機も与えられてはいないだろう。
だが、正しい答え――と言って悪ければ100年後に考えるまでもなく選ばれる答え――は、もう明らかだと思う。
私は博士を「感傷主義者、空想家、物欲しげな思想家であると非難」*3したい気持ちを否定できない。否定すべきでもないと思う。だからと言って、もちろん19世紀のルイ・アガシたちの態度に戻ることもできない。
真に望ましい道は、おそらくその間のどこかにあるのだろう。それを探ることは博士の悲劇に報いることにもなると思う。
次回からしばらくリリー博士から得た教訓をまとめて「存在の大いなる連鎖」の概念を確認するとともに、ここまでずっと引っ張ってきたいくつかの問題に、ついに回答を与えよう。
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おまけ
しんみりしたので適当なおまけが見つかりませんでした。
コメント
次回を書いていたらなんとなく区切りが悪かったので
こちらにやや大きな追記をしました。
>1
なんかワロタw ほんとに東方はなんでもあるな。
>>1
くそうwww面白いじゃないですかwwww
ラストスパート直前の一段落ですね、お疲れ様です。
おまけ動画が404なら、とりあえず先日うpされホヤホヤのこの辺などいかがでしょうか(迫真)
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm15759974