【第19回】 【目次】 【第21回】
キリスト教を中核とする中世の安定した世界観は、科学の勃興によって大きく揺さぶられることになった。
とりわけ、人間が神によって特別に創造されたものではなく、猿から*1進化したことを意味する進化論は、倫理と社会を決定的に破壊するものとして激しい反発を受けた。
ローマ法王ですら進化論をただの仮説を超えていると認めざるをえない現代でも、まだアメリカのプロテスタントの一部に無視できない程度の進化論否定が存在し、進化論を公教育から追い出そうとしていたり、聖書の記述を「科学的」に裏付けようとしたりしていることはすでによく知られている通りである。
このことももちろん重要なことであるが、他でも情報が得られると考えられるため、今回は特に取り上げない。
何より、このアメリカの宗教右派によるキリスト教原理主義運動は、基本的にダーウィンの時代にもすでにあった反発がそっくりそのまま残っているだけであって、この流れはもっと後に生まれたガイア教には繋がっておらず、両者にはまったく何の関係もない。
これは、意外と思う人もいるかも知れないが、すでに第2回からずっと言っていることである。もちろんガイア教の多くの部分が、キリスト教とそれに付随する文化に由来している関係上それなりの類似点はあるが、捕鯨・反捕鯨問題の理解に当たっては、そこに着目しても誤解しか生まない。
ガイア教につながった流れは、進化論に対する反応のうち、聖書直解のような宗教原理主義のそれとは、まったく違う方向を向いたものである。それを明らかにするために、いよいよスティーブン・ジェイ・グールドの『人間の測りまちがい』を読んでいくことにしよう。
改訂増補版の序
十九世紀は、頭蓋骨の内側や外側の物理的測定に焦点を当てた。頭部の外側は定規やコンパスをもちいて、また頭の形や大きさから導き出したさまざまな指数や比率によって、あるいは内側の大きさはカラシの種子や鉛玉を頭蓋の内側に満たしてその容量を測定したのである。次いで二十世紀になると、知能テストにより推測し、脳の中身をより直接的に測定する方法へと移っていった。つまり、頭蓋骨という物理的な特質から脳内の素材を測ることへと変化していったのである。
(中略)
IQの遺伝決定論による解釈は、主として三人の心理学者の転向によってアメリカで始まった。H・H・ゴダード、L・M・ターマン、R・M・ヤーキーズの三人であり、彼らはこのテストを翻訳し、アメリカに広めた。万人にとって自由と公正のあるこの地でこのような悪用がなぜ起こったのかを問うならば、第一次世界大戦に続く数年間こそが、これら三人の科学者の活動がピークに達した時期であったことを忘れてはならない。この時代は、偏狭で好戦的愛国主義や孤立主義、「移民排斥主義」(中略)、国旗のもとに馳せ参じる精神、安っぽい愛国心が今世紀のどの時期にも匹敵できないほど強烈であった。一九五〇年代初めのマッカーシズムの吹き荒れた頃ですらこれほどではなかった。それは移民制限、ユダヤ人割り当て移民の広まり、サッコとヴァンゼティの処刑、南部の州の暴力的制裁の高まりなどに特徴づけられた時代である。
そう、今回から数回に渡ってずっとこんな話ばっかりである。前回ちゃんと断ったにもかかわらず、「一体捕鯨問題となんの関係があるんだよ?」と思うだろう。
「てめー、なんだかんだ言って結局無意味に反欧米感情を煽りたいだけなんじゃねーのか?」と疑わざるをえないだろう。そんな風に私を非難してやりたい一心でもいいから我慢して読み進めてくれ。予想は裏切り期待は裏切らないつもりである。
ちなみに、次の講師として登場するガイア教史上最重要人物が生まれた時代が、まさに「この時代」であることを念頭に置いておくといいだろう。びっくりしすぎて心臓止めたり、笑いすぎて腹筋壊したりする危険を最小限に抑えられる。
第一章 序文
生まれによってグループをランクづけるための論拠は西洋の歴史の流れに従って変化してきた。プラトンは弁証のたくみさに、教会はドグマに頼った。最近の二世紀においては、プラトンの説話を立証するために科学上の主張が主要な役割を果たしてきた。
いきなりプラトンきました。このプラトンの説話は省略するが、『国家』に載っている。この問題に関係なく西洋哲学最重要の古典だから読んでおくこと。
その主張一般を生物学的決定論と呼んでよいだろう。主として人種、階級、性別など人間のグループ間に見られるそれぞれの行動規範や社会的、経済的差異などは遺伝的、生得的な区別から生じるのであり、その意味で社会は生物学を正確に反映しているものだと考える。本書は生物学的決定論の主要なテーマ、すなわち知能を一つの量として測ることによって個人やグループの価値を表すことができるという主張を、歴史的展望の下に論じるものである。このテーマを支えたデータは頭蓋計測およびある種の心理学的テストの二つからもたらされた。
今回はこの本の主要なテーマの部分まで踏み込めないため、必ずしもこの本の素晴らしさを十分に紹介できないのは残念だ。できれば本を読んでもらうに越したことはないのだが、残念ながら入手困難である。(※後に復刊された。)
科学は社会や政治の悪影響を受けない客観的知識であるという伝統的威信が、決定論者によってしばしば使われた。決定論者は自分たちを、きびしい真実の徴発官であり、自分たちに反対するものは感傷主義者、空想家、物欲しげな思想家であると非難した。ルイ・アガシは自分が黒人を別の種に仕分けしたことを弁護しながら、こう書いている「ナチュラリストたちは人間の肉体についての問題を純粋に科学の問題として考え、それらを政治、宗教いずれとも関連づけずに研究する権利を有している」と。
早くも重要な部分にきた。このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。
科学は人開が行なわなければならない営みであり、それ故、深く社会に根ざした活動である。科学は予感や直観、洞察力によって進歩する。科学が時代とともに変化するのは大部分が絶対的真理へ近づくからではなく、科学に大きな影響を及ぼす文化的脈絡が変化するからである。事実とは純粋で無垢な情報の部分ではない。文化もまた、我々が何を見るか、どのように見るかに影響を与える。さらに、理論というのは事実からの冷厳な帰納ではない。最も創造的な理論は、しばしば事実の上に想像的直観が付け加わったものであり、その想像力の源もまた強く文化的なものである。
特にそれと意識することもなく無邪気に科学を信奉する平均的な現代日本人は「えー、そうなの?」みたいな反応を示すかもしれない。しかし、すでに『針の上で天使は何人踊れるか』で勉強してきた我々の反応はちょっと違うはずだ。
ちなみに今回は省略しているが、グールドは極端な相対主義はきっぱり否定している。
ガリレオは月の運動に関する理論上の争いで拷間台を見せられたわけではない。彼は社会的、教義的安定のため教会が伝統的に持っていた論拠を脅かした。地球は宇宙の中心に位置し、その周りを惑星たちが廻っている。司教はローマ法王に従属し、農奴は主人につかえる。こういう静的世界の秩序という見方。それをガリレオは脅かしたのである。しかし、間もなく教会はガリレオの宇宙論と和解した。彼らはそうせざるをえなかった。地球は現実に太陽の周りを廻っているのである。
日本の捕鯨推進派はよく
- 「科学的事実に基づいて資源管理をしようというだけのことが何で反発されなきゃならないんだ!?」
みたいなことを言って不思議がる。
しかし、それは私の考えでは、17世紀に
- 「科学的事実に基づいて天体の動きを説明しようというだけのことが何で反発されなきゃならないんだ!?」
といって不思議がったり、19世紀に
- 「科学的事実に基づいて人類の進化を理解しようというだけのことが何で反発されなきゃならないんだ!?」
といって不思議がったりするのと、少なくとも同じぐらい間抜けな話である。
科学はいつの時代も人の心を傷つけ社会の安定を脅かしてきたのである。現代とてもちろん例外ではない。科学は地動説や進化論が当時のキリスト教を脅かしたのと同等以上に、ガイア教の教義と信者の社会を脅かすのである。
ガリレオやダーウィンは、もちろんそんな間抜けではなかった。この問題に対して最終的にどんな結論を出すにせよ、少なくとも今ほど間抜けなままでは話にならない。
しかし、多くの科学上の主題についての歴史は、つぎの二つの主な理由から、実際には、事実のこのような制約を受けない。一つは、いくつかの話題は多大の社会的重要性を付与されてはいるが、信頼しうる情報はほとんど与えられていないということ。事実が社会に与える影響の割合が非常に小さいときには、科学がとる態度は歴史的に見るならば社会的変化の単なる間接的な記録にすぎないだろう。
ふむ、21世紀初頭現在のそんな話題と言えば何だろう?
- ある意味我々そのものでありながら基本的な仕組みもまだまだ明らかでない脳。
- 地球の面積の過半を占め多くの(とりわけ未来の)資源を依存しながら、地上より遥かに未知の部分が多い海。
- 生活と食糧生産に死活的な関係がありながら、まだまだ理解仕切れていない気候や生態系の複雑なシステムの性質。
といったところかな。脳・海・生態系。このあたりが現代の「理性と神秘の境界線の位置」というわけだ。予想に難くないことだが、ちょうどそのようなところで何かが起きているようだな?
例えば人種についての科学観の歴史は社会的動向の鏡として役立つ(中略)アメリカでかつての優生学が弔鐘を響かせたのは、遺伝学についての知識が進歩したからではなく、断種や民族純化のためにヒットラーが好都合な理論としてそれを利用したからである。
その通り。前にこんなエントリを書いたが、今の私たちが、人種差別を明らかにバカバカしいとして退けるために意識的・無意識的に利用している知識は、ヒトラーの時代には存在しなかった。
第二の理由として、多くの問題は、いかなる論理的な答えもまさに社会の好みを確認できる限定的やり方で、科学者によって定式化されることがあげられる。例えば、知的価値の人種的差異をめぐっての多くの論争は、知能が頭部に存在する一つの実体だという前提で展開された。この考えが一掃されるまで、どんなに事実を集積しても、前進的な存在の連鎖の中に関連項目を秩序づけようとする、西洋の強い伝統を追い出すことはできなかったのである。
ここだけ読むとすでに現代社会からは完全に「一掃され」「追い出された」ようにも見えるが、必ずしもそうではないということはすでになんとなく勘づいているだろう。
生物学的決定論は一人の人間や一冊の書物にとっては大きすぎる課題である。近代科学の夜明け以来、生物学と社会とのかかわりのすべての面に実質的に関係するからである。そこで私は生物学的決定論という構築物に中心的で、しかも扱いうる一つの議論に絞ることにした。この議論はまったくの謬論に基づく二つの歴史的できごととして行なわれ、一つの共通したスタイルが展開された。
この議論はまず、一つの謬論、すなわち具象化(reification)から始まる。これはラテン語のres(「もの」という意味)から作られた言葉で、抽象的概念を具象物に変えようとすることである。我々の生活では知力の大切さが認識され、それを特徴づけることが望まれている。これは一つには文化的、政治的制度が必要とする国民の分類と区別を可能にするためでもある。それ故、我々はこの驚くほど複雑で多くの側面をもつ人間の能力に対して“知能”という言葉を与える。そして、この簡略的記号は具象化され、知能は単一の実体として、いかがわしい地位を得ることになる。
ひとたび知能が実体となると、科学のおきまりの手順として、知能の存在する場所や、その物理的基質が探し求められる。脳は知力の存在する座であるので、知能もそこに存在するに違いない。
第9回や第10回を思い出さなくても、ガイア教徒の「脳」と「知能」への強い執着はよく知られていることだろう。あれは当然、中世には影も形もなかったものだ。
人間が偉いのは神に似せて創造されたからであって類人猿に比べて容積の大きい脳を持っているからではなかったし、ある種の悪魔・悪霊は明らかに人間より(悪)賢いと思われていたが、そのことが思想体系上の人間の地位を脅かしたりはしなかった。(当たり前だと思う?)*2
では、いつに由来するものなのかというと、この時代に起因するものなのだ。
さて、もう一つの謬論に話を進めよう。それはランクづけの話である。我々には複雑な変異を漸進的に上昇する段階として秩序づける性癖がある。進歩と漸進主義のメタファーは西洋思想に最も浸透したものである。ラブジョイの存在の大いなる連鎖についての古典的評論(一九三六年)や、進歩の観念についてのビュアリの有名な論文(一九二〇年)を参照してほしい。
(中略)
本書は一つの実体としての知能の抽象化、脳の中のその位置づけ、個人に対する一つの数値としてのその定量化を行い、さらに抑圧され、不利な立場にいるグループ――人種、階級、性別における――は生得的に劣っていて、彼らの社会的地位は当然なのだということを見出すべく、人人を一つの価値体系の下にランクづけるのにこの数値が利用された問題を扱う。いわば、「人間の測りまちがい」について論じるのである。
憶えてますか? 『存在の大いなる連鎖』。(参考:松岡正剛の千夜千冊『存在の大いなる連鎖』アーサー・ラヴジョイ)
過去二世紀はランクづけのための論拠が異っている点でそれぞれ特徴がある。頭蓋計測学は十九世紀における生物学的決定論の指導的な数量科学であった。第二章では、ダーウィン以前、脳の大きさによって人種をランクづけるために収集された大規模なデータ、すなわち、フィラデルフィアの医者サミュエル・ジョージ・モートンの頭蓋骨のコレクションについて論じる。第三章では、ヨーロッパで開花したポール・ブロカ学派の厳格な、尊敬に値する科学としての頭蓋計測学を扱う。そして第四章では、十九世紀の生物学的決定論における人体解剖学に対する定量的方法の影響を強調する。その場合、二つの事例研究を紹介する。一つは人間の諸グループを一直線にランクづけるため進化の主な規準として反復発生説を採用した事例。もう一つは殺人者やその他の極悪人の形態がサルに似ているとして、生物学的先祖返りで犯罪行為を説明しようとした企て。
頭蓋計測学が十九世紀を代表したものとすれば、知能の少なくともその重要な部分が、生得的で、遺伝しうる測定可能な実体であると仮定される場合、知能テストは二十世紀を代表するものとなる。第五章と第六章では知能テストヘの論拠薄弱な二つのやり方にかかわる問題、すなわち、アメリカの産物であるIQ遺伝論、および因子分析という数学的手法によって知能を一つの実体として具象化する論をとりあげる。
ああ、本当にこれらどれ一つ取っても最高に面白いのに。ほとんど無視せざるを得ないのは残念すぎる。まだまだ続きます。
*1:正確には猿との共通祖先から。
*2:私にはまったく思えない。ほとんど恐怖の悲鳴を上げたくなるほどに信じがたい世界だ。仮に明日、明らかに人類より高度な知能を持つ邪悪な異星人が実在するという動かぬ証拠が発見されたら、どんなセンセーションが巻き起こるか考えてみるがいい。
【第19回】 【目次】 【第21回】
おまけ
ウッーウッーウマウマ(゜∀゜)
コメント
知能は人種によって遺伝する1/4‐ニコニコ動画(9)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8974682
このエントリを見てこれを思い出しました(´・ω・`)