【第37回】 【目次】 【第39回】
さあ、
- ユリカさんとビクター・ケラハーを分けているのは何という文化のどんな違いか?
- 宗教文化が*2唯一神教的か否かの違いだ。
第2回の段階では「ひどいこじつけだな」ぐらいにしか思わず、第12回でも信念がぐらついて不安を感じた程度の人でも、ここまで来たら、もうこの回答を拒否することは難しかろう。
野崎友璃香とビクター・ケラハーそれぞれの脳の奥底に陣取っているのは、それぞれ何千年も独自の進化を遂げてきた、まったく別のミーム複合体だ。表面的には似通って見えても、それは最近の接触によって生じた薄皮一枚の類似に過ぎず、中身はまったく違う「生き物」なのだ。
- どう考えてもかなりアブないトンデモ本が「微笑ましすぎて腹筋痛い」ぐらいで済むのに、普通の童話に「血も凍る」のはなぜか?
単に捕鯨反対に対する熱心さ・強硬さが怖いのではない。それならユリカさんの方が怖いはずだ。熱心をどう定義・評価するかは難しいところだが、少なくともユリカさん本人は、自分が実在もしない誰かよりも捕鯨反対に熱心でないと言われたら心外だろう。
単にトンデモだから・現実と乖離しているから怖いのでもない。だったらやはりユリカさんの方が怖いはずだ。クレアさんの体験はぎりぎり夢や記憶のあやで説明可能な範囲に収まっているが、ユリカさんの方はそうはいかないだろう。
単なる人種差別・排外主義・性差別的感情のせいでもない。私が偽って『イルカのアヌーからの伝言』をオーストラリア人男性の、『クジラの歌が聞こえる』を日本人女性の著作として紹介していたら、後者が笑い飛ばされ、前者が「血も凍る」と評されただろうか? ありそうもないことだ。
ここでの本当の問題は捕鯨でもクジラでもない。科学でもトンデモでもない。資源でも利権でもない。人種でも国家でもない。宗教だ。
この枠組みで見ることさえできれば、話はそんなに難しくない。なぜもくそもない。強固な一神教的信仰がその「異教徒」から見て「血も凍る」ようなものである――少なくともありうる――のは、まったく当たり前のことではないか。
比喩的に言えば、読者を本当に恐れさせたのはクレアさんではなく、彼女の頭の中にいるプラトンでありアウグスティヌスなのだ。
クジララブラブな一方で、アザラシをただ食べられるのを待っている肉塊のように見なしてはばからず、シャチの鼻先に乗ってルンルンする一方で捕鯨従事者を
クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。*3
と表現してはばからないクレアさんがいる。
彼女は、標準的な現代日本人の目には、自分が好きなものには甘いくせに、自分が好きでないものには情け容赦がないだけの、単なる気まぐれで冷酷な利己主義者のように映る。
いや、映るというより、ある価値体系に当てはめれば確かにそうなのだ。現代の価値観に当てはめれば、動物裁判が単なる集団狂気で動物虐待であることが、否定できないしする必要もないのと同じように、それは否定できないしする必要もない。
しかしまた中世のキリスト教的世界観では動物裁判にもちゃんとした論理があるのと同じように、クレアさんの態度も、別の価値体系に当てはめて見れば、立派に筋が通る。
アザラシより知能が高い、すなわち偉い人間やシャチが、アザラシをただの動く肉塊のように見なし、殺し・食らうことは、牛が草を食うのと同じく全く当然の・正当な行いである。
逆に、サメや捕鯨従事者が自分より知能の高い、すなわち偉い存在を殺し・食らおうとするのは、神によって定められた正しい宇宙の秩序を破壊しようとする言語道断な犯罪である。
だから彼女は利己主義者ではない。彼女はただ神の命令・自然の秩序に従っているだけであって、利己も何も、そもそも己の意見など持っていないからだ。利己主義者と呼ぶべきなのは、むしろ自然の法律を無視して己の欲望を満たそうとするサメや捕鯨者の方だ。*4
もちろん私は、現代でもブタの裁判をやるべきだと言っているのではないのと同じく、このような論理を認めろと言っているわけではない。例によって*5狂っているのは、特定の誰かというよりは我々全員の歴史感覚の方だと言っている。
このような、今日もし真正面から主張されればとても弁護できないような自己正当化の論理は、何百年何千年とずっと当然のように通用してきたのであり、それがおかしいと感じる最近の社会の方が、むしろ歴史的に見れば「異常」なのだと言っている。
今日時点で日本や西欧*6の先進国に生きている人間は、宗教、とりわけキリスト教に宗教的多元性を認める傾向がかなり発達した後の時代に生まれた*7ので、宗教「本来」の姿をすでに忘れてしまっているか、そもそも最初から知らない。
昔を基準にするとずっと「ぬるく」なった後の宗教しか知らないにもかかわらず、それが当たり前で、宗教本来の姿だと錯覚している。
これは、もし最初から明確に(伝統)宗教の話だったらどうなるかを考えてみれば、すぐにわかることだ。たとえばクレアさんがアフガニスタンにNGOとしてボランティアに行く童話が書かれたとしよう。その中で、アフガニスタン人が
クレアは、こんなに感情のない、あたたかみのない目を見たことはなかった。
などと表現される事が――たとえそれが罪もない旅行者の喉を掻っ切る寸前のタリバン兵だったとしても――果たしてありうるだろうか。
まず間違いなくビクター・ケラハー本人がそうは書かないだろうし、仮に書いたとしても、編集者か誰かが「いやいや先生、いくらなんでもこれはまずいっすよ。違う宗教の人を悪魔化しちゃってますよ。子供に読ませられませんって。」*8とかなんとか言って止めるだろう。
彼らがそうする――少なくともそうするだろうと予想できる――のは、もちろん彼らがタリバンに好意的だからではない。*9現代社会が近代以降徐々に発達させてきた、宗教的多元性を認め(させ)る傾向が、すでに彼らに内面化され、それを強制しているからだ。
ガイア教は、意図的および偶然に積み重ねられた疑似科学的トリックによって、近代以降に宗教に設けられた様々な制限を回避し、宗教の持つ強力な力を利用しながら、その宗教が課せられている強い制約を受けないという、良いとこ取りの奇跡を実現している。*10
だから、タリバンに対してすら働く(であろう)その抑制が、太地の漁師や南氷洋の捕鯨者に対しては働かない。少なくともある側面では、ガイア教徒は(現代の)キリスト教徒よりずっと(中世の)キリスト教徒らしく、ガイア教は(現代の)キリスト教以上に(中世の)宗教的なのだ。
そして、現代人が、いわば先祖返りした「生」の宗教であるガイア教に触れると、それが何かを理解できず、油断して取り込まれたり、逆に過剰に恐れたり・軽視し過ぎたりと、とにかくおかしな反応になってしまうのだ。
これが、捕鯨・反捕鯨問題を単なる環境保護問題・海洋資源問題・動物愛護問題以上のものにしてしまっている全ての誤解に通底している、最も基本的な構図だ。
……さて、大きな鍵*11とその大体の使い方を学んで、後は読者自身が、多少の努力と時間を費やすことさえ厭わなければ、どんな場面に出会っても自分の力で解決できるところまで来たと思う。
実は、第1回を書き始めた時点の構想では、ここで終わりにしようかとも思っていた。だがせっかく人気のあるコンテンツなので、他人にやらせるよりは自分でやった方が親切だろう。
次回は、初めて中間テストの結果を使ったり、本当に現在――数年前レベル――の事例を扱ったりしつつ、逆に自分たちを振り返ってみよう。
*1:ななななんと5年弱越しの問いだ! 単に私がサボってただけだけどな!
*2:とりわけ人間や社会と自然や動物との関係の捉え方が。
*3:第12回
*4:言うまでもないと思うが、この論理は、実在する反捕鯨運動家の態度を理解する上でもヒントになるだろう。
*5:第31回
*6:これまでもそうだったし、今後もそうだが、このシリーズでは主に生物学的・人種的な話ではなく文化的・社会的な話をしている。だから「西欧」といった場合、いわゆるヨーロッパ以外に、北米やオーストラリア・ニュージーランド等が含まれる。逆に、たとえ見た目には典型的なヨーロッパ人だったとしても、生まれた時から他の文化圏で暮らしているような人間は含まない。
*7:第17回
*8:オーストラリアの編集者がそんなしゃべり方なのかは知らんが。
*9:確認していないが、するまでもなくタリバンには最も批判的な層に属する人たちのはずだ。「反米」という文脈で同情的に見えるケースはおそらくありえても、決して支持しているわけではないだろう。
*10:その詳細については一部はすでに説明したし、これからも説明する。
*11:第36回
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おまけ
ううむ、5年の歳月の重み……。
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