【第16回】 【目次】 【第18回】
第一章 序論 奇妙な世界
中世からルネサンス期までのキリスト教は驚くほど広範囲に行き渡っており、長い伝統を持つものだった。R・W・サザーンの言葉を借りれば、中世の教会は「世界が知り得る限り最も複雑で、完璧なまでに統合された宗教的思想と儀式の組織体系」を支配していた。この組織体系は十一世紀以降に異端が人気を集めたことや、一五〇〇年代にカトリックとプロテスタントが激しく対立したりしたことで途絶えた、だが、あまねく知られているように、その中核の考え方は、十八世紀初頭に科学的合理主義が登場するまで、そのまま残ったのである。西欧のキリスト教の概念において、中世には独特で大きな特徴がふたつある。ひとつは日々の事柄の裏付けを得るために、権威ある「尊ぶべき書物」を進んで信じたことである。実験によって仮説を試すという科学的手段は、一六〇〇年代になって初めて一般的になった。それまでは数多くの問題が――たいていは古の世界から学んだ――権威ある情報源の言葉だけで信じられていた。
もうひとつの前近代のキリスト教徒の特徴は、神、悪魔、天使、悪霊といった捉えどころのない存在の「見えない世界」を揺らぐことなく信じていたことで、これも一部は同じく権威ある情報源の言葉を受け入れたものである。理性的で首尾一貫した考え方は、こうした条件の範囲内で築かれていた。こうした考え方が人間の存在に関するすべての現象について納得のいく説明をし、あらゆる現実問題に対処する分別のある選択肢を教えていたのである。
(中略)
前近代のキリスト教徒にとって、最も重要で信頼をおいていた書物が聖書だった。聖書は現世と来世に関する情報の宝庫だった。聖書の解釈について、学者たちの意見が分かれることは少なくなかったが、正確に理解すれば、聖書が天地万物について確かな説明をしてくれることを疑う者はいなかった。
現代ですら、数は減ったとはいえ、そう信じている人はいるんだから、意外とは言えないでしょう?
そして、聖書の言葉を補足しているのが、初期の教会の偉大なる思想家たちの書物であり、とりわけ聖アウグスティヌスは傑出していた。こうしたキリスト教の偉人たちに加え、プラトンやアリストテレスといった古代ギリシアの著述家たちが記した自然科学の解説書も信頼された。
知識が時代を下るにしたがってどんどん向上するなどというのは、現代人には自明に思えても、せいぜいルネサンス以降の新しい概念だ。
この先キリスト教だけじゃなくプラトンやアリストテレスまでもがガイア教と直接的に関わってくる場面がある、と言ったら信じるか? 私も他ならぬ自分の言うことじゃなかったら信じられそうにない。でも本当なんだ。
第二章 針の上で天使は何人踊れるか
天国にはトイレがあるのだろうか? 天使たちは物を食べるのだろうか? 魂はどのくらいの大きさなのだろうか? この手の質問は、子供時代の天真爛漫さを思い出させる。どの質問も純真で無邪気で、ほとんどの大人は真剣に耳を傾けない。天国の住人や来世の物理的な性質について考えることも同様である。天使には肉体があるのだろうか? 天使はどのくらいの速さで動くのだろうか? 天国では全員が同じ年なのだろうか? こうした質問は無意味に思えるが、だからといって、なぜこんなにも軽視されるのかと疑問を抱くことをやめてはいけない。歴史的観点に立てば、こうした疑問に対する現代人の態度は明らかに特異である。中世初期から啓蒙運動の直前まで、西欧の知識人たちは前述した問題すべてを真剣に考えてきた。ヨーロッパの思想家たちが、そんなことを考えるのは無駄だと言って問題を片付け始めたのは、やっと十八世紀になってからのことである。
(中略)
無神論者なら、神や天使、天国や地獄の姿について考えることさえ、すべておかしいと言うかもしれない。実在しないものの姿について、あれこれ思いを巡らせても虚しいだけだと。この点から考えると、私たちが天使の活動や天国の住み心地について学びたがらないのは、信仰が全般的に衰退したことの一面に過ぎないように思える。だが、それは答えのひとつでしかない。無神論者の主張には説得力があるかもしれないが、その影響は限られている。
世論調査によれば、ヨーロッパ人の大多数は現在でも変わることなく神と来世を信じている。また、アメリカでは教会通いも信仰も、どちらもいまだにしっかり社会に根付いている。つまり、宗教はいまでも多くの現代社会にとって重大な要素のひとつであるが、現代文化には、かつては普通に行われていた形而上学的な思索を妨げる傾向があるという側面もあるのだ。そう考えれば、筋が通る。
戦後日本は、おそらく人類史上未だかつてなかったほどに非宗教的な社会だ。もちろんさまざまな異論を出しうるだろうが、今の文脈では全てミシガンのネズミだと思う。
個人的にはとてもいいことだと思うのだが、現実に宗教戦争(ミニチュアとはいえ)の最中だというのにそれが起きていることにも気づけないほど馴染みがなくなってしまうというのは、さすがにどうかと思うわけだ。
とりわけ突出しているのが三つの傾向である。ひとつ目は、日常の物理的な事実を立証する標準的な方法が、神学から経験科学に取って代わったこと。ふたつ目は、情報源としての聖書の信頼性が全般的に低下したことである。信頼性の低下はキリスト教根本主義の台頭で多少は異論も出たが、アメリカでさえも、聖書を一字一句そのままの意味で解釈したものが、学問において正統的な立場を有しているとは言えない。最後が、宗教の多元性を認めるようになったという傾向で、これはキリスト教がもはや普遍的な知識の源として見なされていないことを意味する。科学者が宇宙の原則を打ち立てる試みに自由に挑めるようになった一方で、神学者たちはいつも「意見の相違」などとばかり言っている。たとえ、キリスト教徒の学者たちが天国に存在する魂を数えられたとしても、ユダヤ教徒やイスラム教徒に支持されることは期待しないだろう。
現代では教皇がモスクを訪ねたりもする。私たちはニュースでそんな映像を見ても誰も不自然だと思わない。しかし、中世の人間が見たらおそらく卒倒するだろう。
西欧文化のこうした特徴は比較的新しい。十七世紀後半に経験科学が、知識人たちの間で広く受け入れられるまで、現世と来世の事実を発見するうえで最も信頼された方法は神学だった。そして十九世紀になっても聖書は権威ある情報源であり続けた。西欧の社会に宗教的多元性が徐々に現れ始めたのは、ここ二百年のことである。現代とは全く異なる前近代社会の状況で、天国の物理的な規模について神学者が考えを巡らせたのは、現代の物理学者が宇宙の形状を考えるのと何ら変わらず、不合理でも何でもなかった。批判的な者であれば、どちらも全く実用的でない非現実的な知識を追い求めていると責めるだろう。
手足を失った者が天国で手足を返してもらえるかどうかなんて、本当に知る必要があるのか? ついでに言えば、宇宙は膨張しているのか、それとも縮小しているのかなんてことも、知る必要があるのだろうか、と。だが、双方の弁護をすれば、現代の科学者も中世の学者も、知識の習得自体に価値があると言うことだろう。光の粒子の存在を信じている現代の科学者にとって、その構造と性質について考えることに価値があるなら、天使を信じている学者が同じような疑問を抱くのは当然である。
だよね。量子力学で一つの電子が二つのスリットを同時に通っていると解釈すべきかどうか? とかシュレーディンガーの猫は死んでいるか生きているか? とか、中世の人間から見たら神学以外の何物でもないんじゃないか?
もちろん私たちは、必ずしもそうとは言えないことを知っているけど、それは私たちが当時には存在しなかった後知恵を大量に所有しているからに過ぎない。
第三章 邪悪な動物は吊るせ
殺人を犯した動物は死刑にすべしという聖書の命令は、人類と自然界の関係に対するキリスト教の幅広い解釈のひとつだった。『創世記』によると、神は獣を男と女の支配下に置いている。「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(『創世記』 一章二十八)と言っているのだ。つまり、動物が人間に危害を加えるということは、この自然界の序列を破ったことになる。
一五三一年、バルトロネ・シャスネは動物の刑事裁判を擁護するために、この前提を利用した。動物が自然界の境界を越えて人間に損害を与えた場合、法律で裁くべきだと述べたのだ。この主張に対しても、動物には善悪の概念がないという異論は唱えられていない。シャスネは動物が理性的でないことは否定していないし、故意に悪事を働ける能力が動物にあるとも言っていない。それよりも、動物が人間に害を与えたということ自体が、自然界の序列を破ったということであり、司法はその事実を認識すべきだと主張しているのである。
最大のポイントにきた。かなり長くなるが、ここを心情的に理解できるかどうかがガイア教徒の心理に近づけるか否かの境目なので、どんなに長くて気が滅入っても、諦めないで頑張って読んでほしい。
まず、わかると思うがここで「自然界の序列」と呼ばれているのは、今まで「存在の大いなる連鎖」と呼んできたものと同じものである。
この創世記の文句は反反捕鯨者のお気に入りのコピペとなっている。彼らは「同じ哺乳類である牛や羊はこんな身勝手な論理で食べてもいいことにしているくせに、自分たちは食べないクジラだけ保護しろなんてダブルスタンダードだ!」と言いたがる。
確かにいいところに着目してはいるが、解釈は正しくない。ダブルスタンダードという言葉が、私の理解しているように「自分の都合によって時々に基準を変える」という程度の意味なら、反捕鯨の論理は決してダブルスタンダードではない。
第2回を見直そう。確かに昔のそれとは序列が異なるが、やはり首尾一貫した・唯一の・常に変わらない基準によるシングルスタンダード(とでもいうのか?)であることには少しの揺らぎもない。
ガイア教徒はクジラ・イルカを殺すのは「残酷」であると非難する。しかし「残酷」だから非難しているわけではない。「残酷」でないと言っているわけではない。(「残酷」に決まっている。)だが「残酷」だからという理由だけで非難しているわけではない。
彼らはしばしば牛や羊を殺すのだって「残酷」じゃないの? という疑問を投げかけられるが、そもそも牛や羊を殺すのも程度の差はあれ「残酷」には違いない、ということを否定してなどいない。ちゃんとした統計を取ったわけではないが、ガイア教徒には菜食主義者も大変多い。
しかし、だがしかし、クジラやイルカを殺すのはただ「残酷」なだけではない。単なる「残酷」よりも、もっと・ずっと・はるかにひどいことなのだ。
それを正確に言い表す言葉は、もはや日常語の中には存在しない。私が日本語の語彙からあえて一番近いものを探せば、それは「大逆」だ。神の定めた天地万物の秩序に対する反逆なのである。これを許すならもはや神はなく、宇宙の法則も、社会の安定も、自分の地位も、どんな秩序も成り立たないのである。
この黙示録的な恐ろしさは、一神教的信仰を持たないものには極めて分かりづらいだろう*1が、それでも、なんとしても分かってもらわなければならない。これを分かってもらえなければ、結局やつらは牛肉を売りたいんだとか中共の工作員だとかいうアホな陰謀論にしがみつき続けるしかなくなるからだ。筆力の限りを尽くして頑張るから、どうか分かってほしい。
人間が鯨を殺して食ってよいと認めるなら、豚が人間を殺して食ってはいけないとする理由も、もはやない。なぜなら、どちらの禁止も一つの同じ秩序に基づいているのだから。豚が人を殺して食ってはいけない理由がないとなると、殺人や食人が何故悪なのか?
無から宇宙と生命を、塵芥から人間を創造した神の定めた秩序が守られないというのなら、そもそも生が死より「良い」と見なす根拠は何だろう? 人間が塵芥よりも尊重されなければならない理由は? ない。全くない。何もない。
今日捕鯨を看過するなら、10年後には鯨が絶滅し、20年後には文明人が野蛮人の奴隷になり、30年後には獣が人を喰らい、40年後には死が生を凌駕し、50年後には環境汚染と核戦争で滅びた人類の廃墟を、ゴキブリとドブネズミたちが我が物顔で支配する地球しか残らないのである。*2
笑うな! 真剣に想像しろ。ガイア教徒から見た捕鯨がどんなに恐ろしい行為か、うまくいけばその感覚の一端ぐらいは掴めるようになる。
牛や羊や豚――ついでにカンガルーでもダチョウでもディンゴでもなんでも好きに追加すればいい――を殺すことは、仮にどんなに「残酷」だとしても「大逆」ではない。これは決定的な違いだ。
この決定的な違いはガイア教徒には自明で、説明の必要すらないものだが、当然「自然界の序列が」とか「神への大逆」とか言っても他の人間にはもう言葉が通じない。他人に通じる通じない以前に、彼ら自身が、もはやそんな言葉や概念を知らないケースだって多いだろう。
そのため彼らは、自分の頭に存在し、かつ一般にも通じるものの中で辛うじてそれに一番近い概念である「残酷」という言葉で、自分の感じている恐ろしさを表現するしかないのである。決して誰かを騙そうとか、何かを誤魔化そうとか思ってそうするわけではない。そうするより他にないのである。
その宗教的感覚を共有しない者の立場から見て、彼らの言葉が、論理性を欠く曖昧な感情論にしか聞こえないのも無理はない。論理の部分は聞こえるどころか、口から出る以前にカットされている。さもなければ本人の頭の中にさえ、すでに表現する言葉がないのである。
現代に生きる真の宗教者であるところのガイア教徒たちの苦しい立場を、どうか分かってほしい。
こうして幅広く背景を見てみると、動物の処刑は法における序列の維持を自然界に広げたものだった。自然界の序列で動物のすぐ上に位置する貧しい人間を、動物の姿になぞらえた大衆文学が登場した時期と、こうした事件が起きた時期が重なったのは、何か意味があるのかもしれない。一部の地域で行われていた動物を逆さまに吊るす刑罰は、社会の序列を崩す罪を犯した人間の扱いを反映していたように思える。たいへん興味深い様々な刑罰の中には、動物のレベルまで象徴的に辱められるものもあった。ユダヤ人の殺人犯は罪の獣性を示すために、ときには犬の隣で逆さまに吊るされた、こうした様々な儀式において、処刑台という劇場は、創造物の序列を強調するために利用されたのである。
なんだかちょうどここに書かれたような感じの文学をつい最近どこかで読んだように思えてならないのだが気のせいか? 確か「まるで、腹を地にすりつけているオオカミのような」とか。
ここから先、歩く死体・魔女・狼男・悪魔憑きなどの面白い話がたくさんあるのだが、本筋から外れるので泣く泣く全部割愛する。
第八章 地獄の苦しみと天国の喜び
男は自分が神を信じておらず、天国も地獄もあるとは思っていないと聴罪司祭に告げた。ただひとつ後悔しているのは、生きている間にもっと存分に性に耽ればよかったということだと。
(中略)
マルキ・ド・サドは一七八二年に、この快楽主義者のたとえ話を書いた。その論点は単純である。次の世に喜びも苦しみもないなら、この世で楽しむべきだということだ。(中略)今日の世俗的な欧米文化の基準も同じようなものであり、来世は存在しないというサドの発言を聞いても、現代のほとんどの人々は驚かないだろう。同様に、この世の喜びを追求するのは合法であるという考えを否定する人も少ないはずだ。(中略)天国についてキリスト教的な考えを受け入れる人であっても、個人の幸せは来世まで残しておくべきだという主張はしないだろう。この世で幸福を求めるのは自然なのだから。そして、幸せになれなかった人は不運だと思われる。(中略)また、他人のために自分の喜びを犠牲にすると、普通は美徳だと見なされる。その一方で、自分のために不幸を受け入れるのは病気か、全く馬鹿げていると思われるのだ。
だが、サドの作品の陰にある前提は、今でも説得力がある。来世を信じることで、期待や行動が全く変わるのだ。(中略)この世のささやかな快楽が地獄の無限の苦しみに変わる一方で、この世の有限の苦しみが天国の無限の喜びに変わるのだ。(中略)神と人間の関係に対する一般的な前提も大幅に変わってくる。主はこの世でも私たちに幸せになって欲しいと思っているのだろうか? 来世で報われるように、この世では苦しんだほうがいいとお考えに違いない。現代のキリスト教徒の多くは反射的に、そんな考えを否定するだろうが、これはかつて広く受け入れられていた考えであり、現代の人々が拒絶するのは、おそらく西欧の社会が比較的裕福だからだろう。
現代日本では宗教の存在感があまりにも希薄なので、陰謀論者はとにかくお金とか利権とか自分に理解できる利益にまで「犯人」の動機を帰着させないと気が済まない傾向にある。
911陰謀論でも同じなのだが、魂の救いのためとか天国に行くためとかいう理由で、実際に殺人を犯したり自ら死を選ぶ人間がいる、ということを知らないか、知っていても納得できないのである。
イングランドの清教徒によるアメリカへの「大規模な移民」は、旧世界の罪深い状況から脱出して、大西洋の向こうに真のキリスト教社会を作りたいという気持ちに駆り立てられたものだった。移民たちはこの使命に神の計画の実現を見出し、それに伴う危険と挫折に神の手を認めていた。航海そのものが信仰を試すものだった。
(中略)
結局、ニューイングランドの人々の信仰は、現世は来世ほど重要ではないという信条に支えられていた。この信念があったからこそ、信徒はイーフレイム・ヒュイットが言う「絶え間ない戦争であり、内にある不安と外にある問題との日々の闘い」である教義を信奉できたのだ。
この辺のアメリカの宗教事情についてはそれこそ911やイラク戦争でずいぶん注目され、比較的よく知られていると思うので深くは追わない。
ただニューイングランドという地名を頭の片隅に留めておいてほしい。そこまで重要なこととは言えないけれども、おそらく誰も予期できないような意外な形で再会を果たすことになる。
第九章 異端には死を
異端は病気のようなものだという考えを念頭に置くと、宗教裁判における道徳的な問題を理解しやすい。現代の科学で認識されている最も深刻なウイルスと同じように、異端には人間を殺し、直に接触することで広い範囲に感染する能力があった。しかもウイルスと違い、異端は肉体ではなくて永遠の魂を殺すのだから、現代の医学が取り組んでいるどんなウイルスより恐ろしかったのである。(中略)だが、彼らはここでジレンマにぶつかった。病原菌を持っている者の多くが、治療を望まなかったのだ。(中略)むしろ「仲間を悲惨な状況に」陥れるために、「死の杯」を差し出すことを望んだのである。こんな場合にはどうするべきだろうか? 現代で最も近い例を挙げるとすれば、致命的な感染症にかかっているのに治療を拒否して、その病原菌をできるだけ広く徹き散らしたいと言っている患者になるだろうか。そういう者であれば、隔離することに反対する読者は少ないだろう。中世やルネサンス期の正統派の聖職者から見れば、彼らの状況はそれよりも悪かった。治療を拒否するのが当たり前で、病気をまき散らすために治ったふりをする患者までいたのだから。
以前も似たようなことを言ったが、シーシェパードやグリーンピースの抗議者が日本に悪意を持っていると考えるのは基本的に間違いである。彼らは私たちを、罪深い行いがもたらす魂の堕落と永遠の苦しみから救ってくれようとしているのであって、それが悪意などであるはずがない。
よく「捕鯨以外の全ての日本文化が好きです」などというようなことを言って、反反捕鯨者から「何を白々しいことを!」と反発されるが、実はおおむね*3本当である。つくづく「地獄への道は善意で敷き詰められている」とはよく言ったものだと思う。
これで中世へのタイムスリップは終わる。ここでベースとなる古い存在の大いなる連鎖の考え方と、違う時代や文化を眺める方法を身につけたことは、この先必ず役に立つはずだ。次回に少しインターバルを挟んだ後、脳内タイムマシンで時代を下っていく。
*1:私も完全に分かっているとは決して言えない。
*2:最後のイメージを直感的に古くさいと感じた人は鋭い! ちょっと先の話になるが、ガイア教の中核はまさに(2008年視点で見ても)かなり古くさい時代感覚に基づいて形成されているのである。
*3:どのくらいまともな日本理解に基づくものなのかはひとまず置いて。
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おまけ
なんと! これのアニメがあったとは! でもあんまりよい出来とは言えなさそうなのでコミック版を読むことを勧める。
コメント
>みるくココアさん
『海の女王様を守護する聖騎士ごっこ』はかなり的確だと思いますよ。本人たちは必ずしも「ごっこ」と思ってないということ以外は。
>村上さん
その辺はどちらかというとよく知られている話だと思いますけど、現在のような意味で特別な存在になったのはどんなにさかのぼっても1950年代ぐらいからのごく新しい現象ですよ。古くて新しいところが面白いのです。もちろんその時代の話も後で出てきます。
面白いのですが…
こんな価値観を持つ連中が、
以前は油目当てに捕鯨をしていたのは何故なんでしょ。
いつの間に、価値観が変わったんでしょうか?
大変興味深く読ませていただきました
実は私も反捕鯨団体の心理についていろいろと考えてみたことがあって、
『海の女王様を守護する聖騎士ごっこ』という何ともすっきりしない表現がにたどり着くのが限界でした
本日、『大逆』という実にわかりやすい表現をいただけて、非常にすっきりしました
続きを楽しみに待っております
>馬さん
どうもです。
>どうさん
オヤシロ様って呼ばれるの久しぶり(笑)。
もちろん異文化理解は難しいことなのさ。そんな風にさっさと終わりにしたいのはやまやまだけど知ってることを説明したってしょうがないし、せっかくの連載ネタを打ち切るのももったいないのでまだまだ続きます。
暇つぶしにオヤシロさま(笑)の文章を読んでみたり。。。
これって喋らない派のオヤシロさまがこんなに長々と書かないと理解され難いことなのかなぁーと言うことに驚いています。(^^;
それとも単に私が主旨を掴めていないだけなのかなぁ……。orz
そろそろ仏教(儒教)的な「人はご先祖さまのお陰で生まれてこさせて頂いて、生かされて生きてるんだよ」的な日本人の生活に染み付いてる感覚の話でも出て来て終わりかなぁと思っていたりしてますw
いつも興味深く読ませてもらってます。続きが楽しみです。