ガイア教の天使クジラ28 ジョン・C・リリー『イルカと話す日』 3/8

(今日の一コマ)

第27回】 【目次】 【第29回

 『イルカと話す日』を読み進める前に、ちょっと補足しておかなければならないことがある。

 私はリリー博士のことを「ガイア教史上最重要人物」と呼んでいる。私はそれが適切な表現であると思っているし、今後も変わらない。

 ただし、それが「彼がいなければガイア教は生まれなかっただろう。」とか「彼がいなければ反捕鯨運動などなかっただろう。」というような意味に受け取られているなら、私の意図に反する。

 ここまででもすでにある程度は理解してもらっているはずだと思うが、私がシリーズ全体を通して伝えたいのはまったく逆のことである。

 ガイア教は一般的な日本人にはいくら奇妙奇天烈に見えても、本当は少しも突飛なことでも不思議なことでもない。それどころか極めて自然で当たり前で必然的な現象であって、特定の誰かが「原因」だとか「元凶」だとかいうような考え方はまったく必要ないどころか、むしろ有害であるということを言っているのである。

 違う分野でたとえるなら、もし手塚治虫が“漫画の神様”と呼ばれることに何の異論もない人でも「手塚治虫ただ一人がこの世に産まれなかったら現代日本のサブカルチャーの特殊な発展はなかっただろう」という意見には必ずしも同意できないだろう。

 それは知識の不足からくる過剰な単純化・無分別な神格化であり、正しい理解のためにはむしろ有害だと言わなければならないだろう。

 一般に歴史において特定個人が果たす役割の大きさはかなり過大評価されている。その方が理解しやすい、というよりも、そうでもしなければ理解できないという理由でだ。

 人間の頭は複雑な歴史をありのままに理解することなどまったくできない。まったく理解できないよりは、たとえ不適切な単純化を施してでも、ポイントを抑えて大雑把には理解できる方がはるかにましである。

 一人の人間の発想は必ず過去の膨大な蓄積に基づいており、完全な独創でまったく新しいものを生み出せる人間など実際にはいない。*1もしいるように見えたら、それは観察者の知識の不足を意味するに過ぎない。

 ただし、漫画史における手塚治虫がそうであるように、それ以前の全てがそこに流れ込み、それ以後の全てがそこから流れ出るような、焦点と呼べるような人物はいる。全てを詳しく知り尽くすには時間も能力も足りていない我々が歴史を勉強するのに一番ましな方法は、そのような人物を追うことである。

 私がリリー博士をガイア教史上最重要人物と呼ぶのはそのような意味においてのみである。このことはまだ納得してもらえないとしても、この先リリー博士やその精神的後継者の思想を見ていく上で徐々に理解してもらえるようになると思っている。

序章

 本書の読者に、私はイルカに関する新しい学説をいくつか紹介したい。若い世代の多くの人びとが私と同じ学説を主張しているのである。本書ではこうした学説の基礎となったもの――体験と実験、そしてそこから導きだされた推論――を紹介する。

 この本の次回以降の部分では「体験と実験」の部分と「そこから導き出された推論」の部分の境界に注目してもらいたい。そこが現代――約半世紀前ではあるが――の“理性と神秘の境界線の位置”だからだ。

 脳の構造とクジラ類の行動に関して、さまざまな事実が発見され、整理されて、多くの生物学者や水族館でイルカやクジラを飼育している人びとが従来主張してきたものとは真っ向から対立する学説が生み出され、理解されるようになった。手短に言えば、この新しい思想はこう主張している。大型の脳を持つクジラ類はどの人間よりもすぐれた知性を持っている、と。従来の学説は、イルカとクジラにたいする無知にもとづいており、彼らとの直接的なふれあいを欠いていた。

 脳の構造・大型の脳・脳・脳・脳。

 これまで人類の学説はさまざまな衝突を生み出してきた。政治、領土、宗教、法律、男と女の関係といった領域で衝突が生まれた。これにたいし、クジラ類に関する新しい学説は、個々の人間に関して、そして政治、社会、さらには科学に関して、疑問を投げかける。人間は地球を変えつつある。

 えーと、あなたの学説は回り回ってとんでもない*2国際問題を生み出してしまってますが……。これまた狙ってやっても決してできないであろうものすごい皮肉だね。私はこういう物事が好きでたまらない。わざと不適切な言い方をするとこういうことにこそ神を感じる。

 人間は地上の大型の哺乳類をことごとく殺戮してきた。北アメリカに生息していた大型の哺乳類は、人間の手で絶滅に追いやられた。アフリカの哺乳類は、その生息領域に人間が侵入したために激減した。海に棲む哺乳類は、人間が侵入してきて自分勝手に捕獲したために、絶滅の危機に瀕している。

 これは重要なことなので第4回で一度詳しく言っているし、これからも折に触れて繰り返すが、ガイア教徒の「クジラを殺すな!」という叫びに「お前らだっていっぱい殺してたじゃないか!」とか「お前らもカンガルーとかディンゴとかいっぱい殺してるじゃないか!」とか言い返すのは論理的にも戦術的にもまったく間違っている。

 それはまったく効果がないばかりかむしろ逆効果をもたらす。彼らの行動が過激なのは、過去を忘れて反省していないからではなく、反省しすぎて安易な救済に飛びつかざるをえないほどの激しい罪の意識に苛まれているからだ。*3そんな反発は彼らの罪悪感をさらに掻き立て、ガイア教のありがたさを増すばかりだ。

 なんで捕鯨に反対したら救済されるのかって? 私に聞かないでくれ。それがガイア教だからとしか答えようがない。なんでキリストが刑死して復活したら人類が救済されることになるのかをキリスト教徒以外に説明しても理解させようがないのと同じだ。キリスト教徒なら説明してもらう必要はないし、説明されて納得できるならその人はすでにキリスト教徒である。

 以前(一九六五年以前)私は、人生における究極の目的は、完璧な客観性を備えた科学的観点を保つことであり、絶対中立の科学的観察者の立場を維持することだと考えてきた。しかしいまでは、こうした公平無私のエコロジー観は何の役にも立たないと確信している。社会的な責任を取ること、つまり自分の属する種から自然へのフィードバックに力を貸そうとしない科学者は、社会に奉仕するという限られた役割を越えて、人類としての責任をまっとうすることはできない。自分の拠りどころを明確にし、行動を起こすことこそ、自己と自己の属する種を理解し、絶滅から救うための不可欠の条件である。

 第20回を読み直そう。私は「このような科学観は、当然だが後にとりわけ問題視され、反省を求められることになった。その結果どうなったかは後で現代の科学者たち本人に語ってもらうことにする。」と書いた。これがその一部だ。

 客観性を奉ずるあまり無慈悲になってしまった過去の科学を深く深く反省した結果、今度は慈悲を奉ずるあまり客観性を軽視してトンデモになってしまった、というわけだ。わかってみれば簡単なことでしょ? あちらを立てればこちらが立たず、科学とは難しい活動なのです。

 われわれ人類は新しい倫理、新しい法律を必要としているが、それは自分たちと同じか、それ以上に大きな頭脳を持つ他の動物のライフスタイルと生活圏への侵略を禁ずる倫理の上に築かれなければならない。われわれは法律を改正して、クジラ類を個人や企業、政府の所有物であることから解放する必要がある。法律において、個々の人間の尊厳が貴ばれているのと同じように、個々のクジラ、イルカに対しても敬意が払われるべきなのである。

 どっかで聞いたような台詞じゃないか?*4

 火薬の爆発力を利用してクジラの体内に打ち込まれ、その噴気孔から大量の血を噴き出させる爆発型の銛は、悪夢のように多くの人びとの心を苛みつづけている。クジラの断末魔の叫びは世界中の海であがっているのに、その叫びをあげさせている張本人たちの耳には聞こえていない。自分たちは産業用に必要な大量の食肉を確保するためにクジラを殺しているのであって、地上で最も大型の、精妙な脳を殺しているのではないと思っている人びとは、そうした考え方を変える必要がある。クジラ類に人間と同じ法律を適用して保護してやり殺戮をやめさせなければならない。

 「それは大型の脳じゃなかったら殺してもいいという意味なのか?(笑)」という反応が生じるかもしれない。しれないどころではない。今回の騒ぎを通じても実際に多くの日本人が同じような台詞に同じような反応を示しているのを見ている。

 何を笑ってるんだお前は? 答えはもちろんYESだ! 今さっきその論理で何百万人か地獄へ送ってきたところだろうが。そんなに可笑しいかよ? いくら不謹慎な笑い大好き人間の私でも引くぞ。

 まさにここで「奇妙だ」とか「馬鹿げている」とか「それは何か他の意図(利権とか寄付金とか)を隠す建て前だ」とかいう風に片づけてしまわないように、私は『人間の測りまちがい』の紹介に時間をかけたのだ。

 イルカを捕獲し、隔離している人びとは、隔離をよりゆるやかなものにして、隔離されたイルカが海中にいる家族や仲間だちとコミュニケーションがとれるようにしてやるべきである。イルカやクジラを隔離するのならば、あらかじめ取り決めた一定期間だけ隔離して、そのあとは本来の生態環境に戻してやり、人間の活動を仲間たちに伝えるようにしてやるべきである。私は現在の水族館がイルカの「監獄」であることをやめて、イルカと人間の双方を教育する、「異種間スクール」になればよいと考えている。

 「異種間スクール」って……あんたでしたか電波の発振源はッ!! そうなんですよユリカさん、これはかわいそうすぎるのであまり言いたくないんだけど、ぶっちゃけた話あなたはLSDでトリップしたおじいさんの妄想の中で生きているのですよ。

 アトピーに負けずに強く生きて下さい。もっとも、あなたのような段階までいってしまった人は、もういっそ目覚めない方が幸せだと思いますが。*5私たちはそういうわけにもいかないので先に進ませてもらいます。

*1:ちょっとでもそれに近いことができる人間は天才と呼ばれる。
*2:少なくとも日豪間では最大の。
*3:この罪とそのあがないの強調は、ユダヤ・キリスト教の伝統にうまく合致している。
*4:参考:痛いニュース(ノ∀`) : 【英国】「クジラはとても素晴らしい生き物で、権利や愛が与えられてしかるべき」ロンドンの日本大使館で14歳少女が反捕鯨活動 – ライブドアブログ
*5:目ざめたところで社会全体も似たか寄ったかですし。

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おまけ

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    >RUNさん
    うお、『人間の測りまちがい』の文庫版なんて出てたんだ。初めて知りました。ありがとう。私も実は日本語版手元に持ってなかったのでこの機会に買います。
    >日本人が無宗教を自称するのと同じかそれ以上に、反捕鯨団体の面々はガイア教信徒の自覚などもちろん無いですよね。
    うんうん。またもいいとこ掴んでます。だから私は前に日本のことを「無宗教」じゃなくて「非宗教的な社会」と書いたわけです。ただ日本人の無自覚はただの間抜けというか何も考えてないだけなのに対して、ガイア教徒の無自覚はそうとばかりも言えなくてですね、それがまたとても面白いところです。もうしばらくしたら出てきます。

  2. RUM より:

    こんにちは。
    >それ実はまったく本題から外れてません。
    捕鯨問題というのは宗教問題どころか宗教戦争である、という事でしょうか?
    日本人が無宗教を自称するのと同じかそれ以上に、反捕鯨団体の面々はガイア教信徒の自覚などもちろん無いですよね。「あなた方は鯨・イルカをご本尊とするカルト信者ですよ」なんて言ってあげたところで通じない。当事者双方に自覚の無い宗教戦争。面白いですね。なんにせよ、再開うれしいです。今後の展開に期待しております。
    追記「人間の測りまちがい」は最近河出文庫で出たので読みました。
    IQも人種差別の科学的根拠だったとは目から鱗です。私は文系バカなので、あの有名な猿から人へグラデーションする絵http://linnhill.hp.infoseek.co.jp/mirror/evolution.jpgも嘘とは知らなかたんであります。

  3. 木戸孝紀 より:

    >RUMさん
     ついでに言いますと冒頭しか読まずに一端コメントして下さったのも、むしろちゃんと伝わっていることがわかってありがたかったです。そういう風に徐々に認識を変えていってもらいたいというのがまさに私の意図ですから。

  4. 木戸孝紀 より:

    >RUMさん
    >ほぼ100%の日本人が神道という宗教にどっぷり浸かっているように思いますが、どうでしょう。
    すばらしい。いいところに目を付けました。誰も言ってくれないので段々心配になってたところです。それ実はまったく本題から外れてません。シリーズではもうちょっと後にならないと出てきませんが、非常に非常に重要なポイントです。久しぶりに手応えのある読者を得て嬉しいです。そろそろ再開しなきゃと思っていたところですが、またやる気が出てきました。

  5. RUM より:

    先ほど1だけ読んでコメントしてしまいましたが、仕事そっちのけで28まで読み終えた今、肝心なところを「測り間違って」いたことに気づかされました。人種差別に重きを置きすぎてました。想像をはるかに上回るマジ宗教なんですね。
    あとこれは本題からはずれた質問ですが、日本人=無宗教という記述がありましたよね。これはよく言われることですし私自身も自称してきましたが、ほぼ100%の日本人が神道という宗教にどっぷり浸かっているように思いますが、どうでしょう。
    日本人以外の信徒は0ですし、あまりに特殊なので神道を宗教の定義から外すとするならば、確かに日本人は無宗教だと思います。

  6. 木戸孝紀 より:

    >まぼ様さま
    そうだね。キリスト教徒(少なくともその多く)が迷うことなくそう信じることが可能だった時代には鯨類崇拝なんか割り込むニッチは存在しなかったわけよ。

  7. まぼ様 より:

    いつも楽しくシリーズを拝見させてもらってます。
    ちょっと脊髄っぽいけど、おもしろい話題だったのでレス。
    >なんでキリストが刑死して復活したら人類が救済されることになるのかをキリスト教徒以外に説明しても理解させようがないのと同じだ。
    理解という言葉の定義にもよるけど、これはけっこうわかりやすく説明できそう。
    単純に言えば、「人は死んでも生き返る」ということを証明したからイエスは救済者だったというわけです。
    福千年において、すべての死者は復活する。これ以上の救いはなかなか思いつかないくらいですな。
    まあ、いまとなっては当のキリスト教徒ですらなかなかここまでは信じきれてないんでしょうけどね。

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