『我が闘争』を初めて読んだのは中学3年か高校生1年ぐらいの時だっただろうか。
読む前は何となく期待していた。なんと言ってもヒトラーといえば公認世界一わるいひと*1じゃあないか。まっとうな中学生男子を慰めてくれるぐらいのとんでもないことが書かれているはずではないか?
しかし、期待は裏切られた。あまりにも面白くないのである。*2面白くなかったのでほぼすべての内容を忘れてしまっているのだが、ただ一箇所だけ強烈に印象に残って一生忘れられない箇所がある。
エーテルの中を突き進む地球
という表現だ。*3ここで言うエーテルは、もちろんファイナルファンタジーのMP回復薬のことではなく、光の媒質として仮定されていたエーテルのことである。
私はこの部分を読んだとき本気で椅子から転げ落ちるかと思った。これは二重、いや三重の衝撃だった。最初の衝撃はもちろんヒトラーがエーテルに言及しているということだ。
つまりマイケルソン・モーリーの実験は19世紀末、アインシュタインの特殊相対性理論は物理学の奇蹟の年1905年、ヒトラーが死んだのは1945年で、我が闘争が書かれたのはその2,30年前だろうから(今調べたら1923年頃)、ヒトラーはエーテルなど不要な仮説であることを知っていると思っていたわけである。
これは冷静に考えるとかなりバカな話だ。現在当たり前の科学理論が、提唱されてすぐに受け入れられたわけではないことは、当然知っているつもりであった。
さらに学説として正しいと認められたからといって、それがすぐに社会一般にまで行き渡るはずがないということも、もちろん承知していたつもりであった。
従って、特殊相対論から20年後ぐらいに書かれた我が闘争にエーテルが普通に出てくるというのは、十分予想しえたはずであった。
そうであるにも関わらずヒトラーがエーテルに言及していることに驚いてしまったということが第二の衝撃であった。要するに何も知っていなかったのだ。教科書に出てくる数字を覚えていることと本当に知っていることは全く違うのだ。
そして第三の衝撃は、ヒトラーが特殊相対論を知らなかったことを私が知らなかったことをそれまで知らずにいたこと(ややこしい!)である。
その日まで私がヒトラーについて何かを考え評価するとき、その判断の全ては彼が特殊相対論を知っていてエーテルなど不要な仮説となったことも知っているという前提の元で行われていたのである。
それのどこが衝撃なんだって? もちろんヒトラーが相対性理論についてどう考えていたかはどうでもいい。だがちょっと考えればすぐわかるように、これは相対性理論だけでなく他のありとあらゆる物事に成り立つ話なのだ。
たとえば今日、遺伝子の物理的実体はDNAであって、二重螺旋構造を取る巨大分子であることは常識であり、ほとんど誰でもが知っている。だがワトソンとクリックの仕事によってその二重螺旋構造が最終的に確定したのは1953年であり、1945年に死んだヒトラーは生涯それを知ることはなかった。
知ってた?
ほとんどの人は「そりゃもちろん知ってたよ」と言うだろう。実際に知っていた人が大勢いるであろうことも当然否定しない。だが前半の話をもう一度読み直して本当に、本当の意味で知っていたかどうか考えてほしい。
今までヒトラーも当然DNAの構造ぐらい知っているものと考えてはいなかっただろうか? 「嘘だ! 俺はそんなトンデモなことを考えた事なんてない! あるもんか!」と思うかもしれない。確かにそうかもしれない。だが本当にそうならば、では一体どう考えていたというのか教えてほしい。
人間がコンピュータと違っていちいち事細かに詳細なデータを与えられずとも思考できるのは、非常に多くの物事を常識として扱えるからである。「パンはパンでも食べられないパンは?」というなぞなぞがなぞなぞとして成立するのは、パンというものは特に留保条件をつけなければ食べられるのがデフォルトである、という常識が働いているからだ。
現代では人はDNAに関する知識を持っていることが常識と思っており、しかもこれまでヒトラーの時代の生物学について特に考えたことがないのであれば、やはりヒトラーもDNAに関する知識を持っていると考えていたとする方が妥当だと思う。
このことは相対性理論のことと違ってどうでもよいとは言えない。当時の遺伝学・生物学がどのようなものであったと考えているかは、ナチズムの評価そのものに直結するからである。
私は、反ユダヤ主義の伝統と無関係のはずの日本でもホロコースト否定論が一定の割合で存在しうる理由が大きく分けて三つあり、そのうちひとつは“これ”だと思っている。
ちなみに他のふたつのうちひとつは第二次大戦で同じ枢軸国側だった関係でナチスドイツの戦争責任を軽減することが日本のそれも軽減することになると考える傾向、もうひとつは欧米で新ナチ的、ホロコースト否定的言論が禁止されていることへの反発*4である。
たとえば「戦争中だというのに莫大な費用と手間を費やして人間を殺すためだけの施設を建設するなんて理屈に合わない。だから絶滅収容所などというのは捏造に違いない」というような意見が生まれるのは、明らかに当時の思想状況の無理解によるものだろう。
メンデルの遺伝法則は知られていて分子遺伝学は知られていなかった時代、「劣等者」の排除によって人類全体が向上できるということがどれほど自明に思えたかが、わからなくなってしまっているのだ。たった今こんな命題を思いついた。
- 人種や遺伝について利用できる真実の知識の格差は、アリストテレスとヒトラーの間よりも、ヒトラーと私達の間の方が大きい。
どう? 何か文句ある?*5 単なる適当な思いつきなので、正しいかどうかわからないし、第一知識の差をどう定義すればいいのかわからないから正解などあるはずもないが、私には一概に間違いとも言い切れないと感じる。
要はヒトラーの時代以降、人種や民族や遺伝について私達が得た知識はそれほどまでに圧倒的だと言っているのだ。そしてその多くが分子遺伝学の発展に寄っている。たとえばWikipediaの人種の項を見てみよ。『銃・病原菌・鉄』を読んでみよ。
どちらも分子遺伝学なしにはあり得なかった知識である。今ワトソンが人種差別発言で非難されているのはまさしく歴史の皮肉としか言いようがない。
以前にもコンラート・ローレンツに絡んで過去の常識を認識することの重要さを強調したことがあるが、現代の常識を当てはめたままナチズムを評価すると、当然それはあまりにも荒唐無稽に見える。
そして、先のようなホロコースト否定まで行かないまでも「ああ、ヒトラーは頭がおかしかったんだろう」といった風に矮小化してしまうことになりがちであり、これは危険である。
現代では当たり前だと思われていることの中にも、未来の価値観から見ればナチズムに匹敵するほど荒唐無稽で野蛮の極みと思われることがいくつか、そんなには多くないとしても、確実にあるはずなのである。私には言語多様性に対する無理解などがその有力候補であると思われる。
多くの言語が最低限の記録すら残さずに消滅していく一方で、より多くの人が世界公用語として英語を使うようになることが当然で、良いことでさえあるかのように思われている*6現代の状況は、ある程度以上未来の我々の子孫にとって恐怖と侮蔑の対象であろう。
そして「当時はそれが当たり前だったんだ!」 と私が墓の中からどんなに抗議しても、彼らは絶対に許してくれないだろう。私達が魔女狩りに参加していた農民達にもそれぞれ言い分があったであろうことなど一顧だにしないのと同じように。
*1:オサマ・ビンラディンはまだ世に知られていなかった。
*2:「ナチスの高官も『我が闘争』は面白くないのであまり読んでいなかった」という話は、ただ強い印象を与えるというだけの理由で生き残っている根拠不明の逸話ではなく、何らかの真実を含んでいるものと私は思う。
*3:資料が手元にないが間違ってはいないと思う。いずれにせよ本全体の主題とはあまり関係ない。地球の上で我がドイツ民族は云々とかいう単なる「地球」の飾り言葉だったような気がする。
*4:単純に禁止されているものは魅力的に映りがちである傾向+そんなに必死で否定するのは本当だからに違いないという陰謀論的思考
*5:「アリストテレスをヒトラーなんかと並べんなよ」以外で。
*6:私もある程度まで思っている。
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おまけ
ドイツ(……なのか?)繋がり。全てが狂気。
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