【第33回】 【目次】 【第35回】
前回から3年弱も間が開いてしまったが、何事もなかったように再開しよう。あと2回ほど『イルカと話す日』を続けたあと、リリー博士のまとめに入る。
第三章 クジラ類との異種間コミュニケーションに必要な諸科学
一九五五年から現在までのあいだに、異種間コミュニケーションを実現するためには、事実や理論を理解するためにさまざまな科学が必要だということが明らかになった。こうした理解を助長する科学は、少なくとも一〇種類(おそらくはそれ以上)ある。
トマス・クーンが述べているとおり、科学が飛躍的発展を遂げるためには、従来の思考の枠組み(パラダイム)とはまったく異なる新しい思考のパラダイムが形成され、若い世代に教えられることが必要である。そうしてはじめて古いパラダイムはその支持者とともに消滅していくのである。
「パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってるじゃん。なんで大勢がこんなのにコロっと騙されたの?」
みたいな感想を持つ人も読者の中にはいるだろう。(いてほしい。)そして、そこまで分かる人には、それは因果が逆転した後知恵の発想だということにも気がついてほしい。
リリー博士のような学者が――イルカ・クジラの話に限らず――過去に大勢いて、そしてさらに大勢の人々がそれに騙されたおかげで、現在の我々が
- パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってる
というような知識を持ちえているのだ、と考えるべきだ。
パラダイムの概念は元々問題が多く、ここではさらに通俗的な述べられ方をしているので、あまりまともに受け取らないようにしてもらいたいが、通俗的だからといって必ずしも間違いとは限らない。
結局のところ、時代精神というものは、古い考え方を身につけた古い世代が死んでいなくなり、新しい世代に取って代わられることによってしか、本当には変わらないのだ。
このことは、良くも悪くも、好むと好まざるとにかかわらず、しばしば事実であり、今後このシリーズにとって重要なテーマのひとつとなる。
第四章 クジラ類(イルカ、クジラ)とは何か?
ある人間が自明と信じて疑わない真の偏見は、しばしば、意識的に強力な主張を行っている時よりも、むしろ一見客観的に事実を羅列しているだけの時にこそ、よく現れる。その好例としてひとつ表を見てもらおう。
いちいち突っこんでいたらきりがないので、間違っている点や意味不明な点を逐一指摘することはしない。それは読者自身の宿題とする。その能力すら自分にないと思う人は読まないようにしてほしい。
……どうだろう? 個人的に、この表は好きだ。博士が人間やイルカをどのように見ていたのかがよくわかるし、そこかしこから静かな狂気とでも言うべきものの片鱗が伝わってきてゾクゾクする。
特に「8.戦争も徴兵もない」のくだりなどは、なかなかケッサクではないか*1と思うが、今回一箇所だけ取り上げたいのは、そこではなく、シャチの部分だ。
シャチの胃からイルカやスナメリが出てきたらなんだというのだろう。「胃の内容を調べたところ、ヌーを食べていたライオンがいた」と記すようなものではないか。頭がおかしいのか? と思うのが「普通」だろう。
ここで博士の頭がおかしくないと言ったら、たぶん嘘になる。彼はどうも鯨類全体を同種のようなものだと考えているようで、それはいくら当時の基準で最大限の情状酌量を試みたとしても相当におかしい。
だがしかし、それでもなお、ここには「普通」の現代日本人が一読して感じるであろう印象よりも、かなり深い話が隠れている。
すなわち動物が他の動物を――人間のことはひとまず考えないとしても――食べるとき、何が何を食べるのが「正常」で「自然な」ことであり、何が何を食べるのがそうでないのか? ということだ。
この本のまとめのところで近いうちに詳述するが、重要なことなので、一度それまでに自分なりに考えておいてもらいたい。第23回のロンブローゾの発言がヒントになるかもしれない。
次の第八章は、リリー博士をはじめとする当時のリベラルな科学者および科学的教養を持つ人たちの科学観がよく出ていて有益だと思われるので、やや詳細に紹介しよう。
第八章 科学的観察者の進歩と社会の進歩
宗教的な世界観は、人間の本能に「人間の中の獣」というレッテルを貼り、これを退けた。人間の性行為、攻撃的な行動といったものはすべて「人間の中の獣」に属するものとされた。他の哺乳類が擬人化され、人問の性格を言い表わすのに用いられた。だらしのない、不潔な人間はブタのようだと形容され、あたかもブタの性格を持っているかのようにいわれた。また「羊のような(気が弱い)」といわれる人間もいた。言葉を換えれば、「(羊のように)気が弱い性格」という場合、それは大半の人間ではなく、羊というものの特性と考えられているのである。すべての動物が人間よりも劣るものとして考えられていた。人間に向かっていわれる、「サン・オブ・ア・ビッチ(犬の子供=畜生)」のような罵声は、動物にたいする蔑視から生まれたものであり、その淵源は人間の中に獣を認める宗教的な物の見方にある。
事程左様に、リリー博士および彼と同じ時代に生きた多くの人々は、キリスト教を、とりわけその動物蔑視を、厳しく批判した。人間だけが魂を持ち、自明に優れており、だから偉いのだという聖書的・西洋的な思想を、差別的な・劣ったものとして激しく断罪した。
だからなんだとは言わないが、誰かさんたちとそっくりな意見だな?
現代の医学は、心は脳の中にだけにあるという点で意見が一致している。現代の見解にしたがえば、観察者や科学者は次のような限界を設けられている。
- どの観察者も脳の中に一つの心しか持っていない。
- どの観察者も知識に限度がある――経験から得られた知識、実験から得られた知識、理論から得られた知識のどれにも限界がある。観察者が作る現実のシミュレーションは、その人間の現実にたいする観察に限界を設ける。
- どの観察者も自分の内面を外界に投影して生きており、自分のシミュレーション・スペース、自分の信念の体系の中で生きている。とりわけ観察者の信念は、彼が観察する事象に制限を設け、彼が真実と考えるもの、努力を注ぐに値するものを限定する。
ここだけ見ると、単語の選び方などに若干SFくさく感じる部分はあるものの、結構まともなことを言ってるように見える。現代でも賞賛されるべき、知的に謙虚で誠実な態度であるように見える。見えるだけでなく、実際に大部分は*2そうだと思われる。
この科学的観察者がさらに成長するためには次のような明瞭な必要条件がある。
- a 各観察者は自己の信念を厳密に点検し、見直しをほどこして、その信念が経験と実験から得られた現実と一致するものかどうかを見定めなければならない。自分を取り巻く社会にたいする信念も再検討して、これまでの社会経験との整合を図らなければならない。
- b 科学的観察者は人類の脳の発達と他の生物の脳の発達を研究しないかぎり、公平な立場に立つことができない。自分自身の中枢神経系の構造について学習し、その機能と起源を理解し、他の生物の場合と比較してみることなしには、観察者は地球上での自分の位置を的確に把握することはできない。
- c 現代の科学的観察者は、自分がいまだに発達過程にある哺乳類であるという認識を持つ必要がある。科学的研究は西欧の啓蒙主義の産物であって全能ではない。
- d 現代の科学的観察者が理解しなければならないのは、自分が、人類と他の生物とが構成する巨大なフィードバックシステムをになう一員だということである。観察者が理解すべきなのは、人類が確立した、切り離された「現実」とは、この社会で承認されている通説によって定義されたものだということである。
- e さらに現代の科学的観察者が理解すべき点は、人間社会の外部を取り巻く現実が、いずれはその要求を明瞭に提示して、地上に生息するさまざまな生物の将来の発展と衰退のパラメーターを決定するという点である。
このあたりまで来ると、依然としておおむね現代にも通じる謙虚な態度であると認められつつも、いくつか見過ごせない部分が現れてくる。
特に強調した部分に見られる「科学は西洋の産物にすぎない」とか「社会と切り離された現実なるものは存在しない」とかいう類の、当時流行した極端な相対主義の言説は、現代では行き過ぎであったと見なされることが多い。
これはまだ歴史の一ページと言えるほど古い話でもないし、まだまだ単独でも分厚い本が何冊も出ているようなテーマなので、このシリーズでこれ以上つっこんで論じることはおそらくできない。文句があれば聞くが、いったんそういうものだと思ってもらいたい。
ここでは次のことを再確認してもらえれば十分だ。客観性の軽視をはじめとするリリー博士の様々なおかしさを、ただ彼一人の狂気として片付けてしまうことはできない。当時の思想・哲学全体の傾向の一部分だということを考慮に入れなければ正しい理解はできないのだ。
こうしてわれわれは、現代の科学的観察者が人類の生物学的構造と進化の過程とを意識しているということを理解する。また観察者は人類の将来の進化について、さまざまな可能性のあることに気がついているが、そのうちのどれが実現するかは、現代の社会の通念がどのような発展を遂げ、どのような構造を持つかにかかっている。観察者はもはや世界中に遍在するわけでもなく、全能でも、全知の存在でもない。彼は全知全能の存在になりたいという望みをあきらめ、世界がこれからも現在の構造を維持したまま構築されうるのではないかという願望も捨てている。
人間は、自分自身の願望を法律や社会通念の中に投影することをやめなければならない。
それを自分自身に適用することができていれば……と思わざるをえない。しかし同時に、もしそうしていたら、彼は歴史にあまり独創的な貢献は成しえなかったに違いないとも思う。難しいところだ。
*1:真理だ!(笑)
*2:実を言うとこの中にはひとつ、今まさに激しい挑戦を受けている主張があり、そのことはこのシリーズ全体にも少なからぬ影響を及ぼすのだが、それはかなり後の話。今はまだ気にしないでいい。
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おまけ
学校も試験もない。
コメント
>地下猫さん
『野生の思考』は直接は出て来ませんが
参考にはなってますね。
一度は「第二章 トーテム的分類の論理論理」の
イルカが出てくるところを使おうかと思って
クリップはしたんですが、現時点では割愛の予定です。
『生物から見た世界』は読んだことないです。
待機リストに優先度高で入れときます。
おお、再開してたんか!
感想というか連想。
まず、ストロース「野生の思考」の第七章「種としての個体」の後半の議論を連想。リリーはイルカ・クジラをストロースのいうところの「隠喩人類」とみなしていたのではないかと思われた。
あと、連想したのがユクスキュル「生物から見た世界」。
リリーもE.O.ウィルソンも解毒の一助になるこの本が1933年に著されたというのはすごいっす。
読んでなければオススメする。ガイア教を考慮する際にも示唆的であろうと思われる。
興味を持っていただけたなら、ちょっと補足を。
評論社の猪熊葉子訳「妖精物語について」は、エッセイ「妖精物語とは何か」と
短編「ニグルの木の葉」、最後に散文調の「神話の創造」で構成されています。
先に語った直裁な表現が強く、短い分ニュアンスが非常に濃いのが「神話の創造」です。
ちょうど、名言ということで取り上げているサイトの引用で、該当の箇所がちょっと出ている部分がありました。
http://wisewords.holly.holy.jp/?eid=70071
自身の全く個人的な見解として、
この散文はトールキン教授の内面世界への陶酔と現代文明に対する
異常な被害妄想にしか思えないのですが、なるほど、
トールキンが自身の創作神話を通じて、「大いなる存在の連鎖」を
守ろうとしていたと考えると途端に理解だけは出来るのかな、と。
ハンターハンターより長い目で見ていたガイア教の続きが読めるとは!w
>パラダイムシフトをやたらと強調する学者はトンデモって相場が決まってる
今は「パラダイムシフト」という単語がSFや漫画などで見ることができるぐらい人口に膾炙してるので違和感を抱けますが、出始めの時は飛びついてしまいそうな気がしなくもないです。
厨二心を刺激されると言うか・・・。w
どもです。
『妖精物語について』って読んだことないですな。
待機リストに入れときます。
思いがけない再開にwktkしております。
いつぞやトールキンの指輪物語の世界観が、
本題のガイア教と類似性深いのではないかと言及いたしましたが、
あの後、トールキンの『妖精物語について』の反近代論下で、
近代化の恩恵に浴してる者達を「猿」呼ばわりするかのような論調が、
まさにここで冗談半分に語られてる調子と一致していまして、
二度の大戦と冷戦下で育まれたカウンターカルチャーの潮流は
やはり、あらゆる形で芽吹いているという補足になりそうな内容でした。
多数の参考文献や課題共々、視野が広がっている気がします。
個人的な参考のためにも、是非残りの話をば。
>1
せっかく再開したのに打ち切りにすんなしwww
動画はあとで見てみる。
おれたちのガイア教はこれからだ!ヽ(*゚д゚)ノカイバー!
・・・・
4章リストに関しては、気持ちだけは判らなくはないですけどね。1970年終盤で、やっと冷戦が完全に鎮火してきたとという情勢で、「科学は人の心の成長を超えて早く発達しすぎたのよ」みたいな発言が宗教的な攻撃力を持っていたのは、すごい同情できます。
あと関係あるのか無いのか・・・
「科学の発達は、ファンタジーが持つ想像力の邪魔をする、と云われていますがそんなことはありません。むしろ科学が想像力をかきたてるのです!」
という論述の類が小学校の国語の教科書あたりに掲載されていた記憶があります。当時から意味判りませんでしたが、同じ宗教の臭いがしました。
宗教的攻撃力ぅ?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10104056