【第22回】 【目次】 【第24回】
スティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』の読み合わせも今回で最後である。
女性の脳
「劣等」グループは生物学的決定論という一般理論では相互に代替性がある。劣等グループは連続的に並置されており、一つのグループは他のすべての代表として利用される――このための一般的前提としては、社会は自然の摂理に従い、社会階級は生得的価値を反映しているという考えがあげられる。かくしてドイツの人類学者E・フーシュケは一八五四年につぎのように述べた。「黒人の脳は、子どもや女性に見られるタイプの脊髄を所有し、またそれ以上に、高等なサルに見られる脳に近い。」(モール、一九〇九年、一〜二ページ)有名なドイツの解剖学者であるカール・フォークトは一八六四年つぎのように記した。
「黒人の脳は、頭頂が丸いことと後頭葉が発達していない点で、我々の子どもに似ており、頭頂葉が隆起している点で我々の女性に似ている。成長した黒人の知的能力は白人の子どもや女性や老人の特質と共通点がある……。いくつかの種族は国をつくり、固有の組織を有する。しかし残りについては、過去においても現在においても、人間性の発達に役立ったり、保存するにふさわしいことは何一つしなかったとはっきりと主張できる。」(一八六四年、一八三〜一九二ページ)
ブロカの同僚であるG・エルヴェは一八八一年に「黒人の男性が白人の女性より重い脳を持っていることはほとんどない」と記した。(一八八一年、六九二ページ)。私は、一つのグループの闘争は我々全体のためになるという主張を空しいレトリックだとは考えない。
私も、一つのグループの闘争は我々全体のためになるという主張を空しいレトリックだとは考えない。あなたはどうかな。
マリア・モンテッソリは、自分の活動を子どもたちの教育改革だけに限定しなかった。彼女はローマ大学で数年間人類学の講義をし、『教育学的人類学』(イギリス版、一九一三年)と題した影響力ある本を著わした。彼女はどんなに控え目に言っても平等主義者ではなかった。彼女はブロカの大部分の著作を支持し、彼女の同国人であるチェザーレ・ロンブローゾ(第四章)によって提出された生得的犯罪説を支持した。彼女は自分の学校の子どもの頭の外周囲を測定し、最も期待できる子どもは大きい脳の持主であると推論した。
ところが彼女はブロカが出した女性に関する結論は利用しなかった。彼女はマヌーヴリエの研究を詳細に論じ、妥当な補正が行なわれるなら女性はわずかに大きい脳を持つ、という彼の不確かな仮説を重視した。女性は男性より知的に優れているが、今までは肉体的力によって男性の方が圧倒していた。技術が権力の道具としての体力を無効にしてしまったからには、女性の時代がまもなく到来するであろうと結論した。「そのような時代には本当に優れた人類が出現するであろうし、道徳的にも感情的にも強い男性が存在するようになるであろう。多分このようにして女性支配の日が近づきつつあり、その時には女性の人類学的優秀さという未知の事実も解読されるであろう。女性は常に人間の心情、道徳、名誉の管理者であったのだから。」(一九一三年、二五九ページ)
モンテッソリの議論は、あるグループが体格的に劣っているという「科学的」主張に対する一つの可能な解毒剤である。生物学上の差異が妥当だと認めることもできるが、その結果に利害関係をもつ先入観で毒された男性によってそのデータが誤って解釈されてきたのであって、不利なグループが本当は優れているのだと主張することもできる。近年エレーヌ・モーガンは自著『女性の由来』の中でこの戦略をとった。すなわち、女性の観点から人類の有史以前を推測し再構成した。これは男性のための男性による例の誇張された話と同様に茶番めいている。
エレーヌ・モーガンって名前にどこかで聞き憶えがないか? そう、第10回に出てきた、水生類人猿説を有名にしたエレイン・モーガンのことだよ。何というか類は友を呼ぶというか世間は狭いというか。
この「世間は狭い感」はこれから先何度か繰り返し味わうことになるだろう。ちなみに、ここで『女性の由来』と書かれている本は『女の由来―もう1つの人類進化論』のこと。
私は本書を別の立場から執筆した。モンテッソリとモーガンはブロカの方法を踏襲し同質の結論に達した。私はむしろどのような目的であろうと、さまざまなグループに生物学的価値を固定しようとするすべての企てに対して、それが見当ちがいであり、知的に論拠薄弱であり、全く有害であることを示したかったのである。
私はこの意見に強く同意する。俺も俺もと同意する人が大勢いそうだが、ちょっと立ち止まって考えてからにした方がいいと思うぞ。「どのような目的であろうと」だぞ? たとえ人類の傲慢をたしなめ地球を破滅から救いたい一心であろうとだぞ?
第四章 身体を測る
我々はみんなサルの状態があった――反復現象
反復説は人間のグループを高等とか下等とかランクづけようとした科学者に魅惑的な規準を提供した。劣ったグループの成人は優れたグループの子どもに似ているに違いない。子どもは原始時代の祖先の成人の状態を表わしているからである。もし、成人の黒人や女性が白人の男の子に似ているならば、彼らは白人男性の進化過程における祖先の段階を示す生きた見本である。頭のみでなく、身体全体をもとにした人種ランクづけのための解剖学上の理論が構築された。
反復説は生物学的決定論の総括理論としての役割を果した。すべての「劣等」グループ――人種、性別、階級――は白人の男の子と比較された。E・D・コープは反復のしくみを明らかにしたアメリカの優れた古生物学者であるが、この規準によって、次の四つのグループを下等な人間の形態とした。すなわち、非白色人種、すべての女性、北欧の白人に対立する南欧の白人、および優れた人種の中の下層階級、である(一八八七年、二九一〜二九三ページ。コープは、とくに「アイルランド人の下層階級」を軽蔑した)。コープは北方民族の優越性を説き、ユダヤ人や南欧人のアメリカヘの移民を減らすよう勧告した。
この流れは、このエントリ最後の部分に続く。
反復説は人種のランクづけについての人体測定学的議論、とりわけ頭蓋計測学的議論に対して、根本的視点を与えることとなった。再び、脳が大きな役割を果すことになった。すでに創造論者の立場でルイ・アガシは、黒人の成人の脳と、七ヵ月の白人の赤ん坊の脳とを比較している。我々は前にフォークトのつぎのような驚くべき主張を引用した(一六一ページ)。黒人の成人および白人の女性のそれぞれの脳は、白人の男の子の脳と同じ程度であり、それから考えれば、黒人はどのような価値ある文明をも創りあげることはできないと。
(中略)
ルッドヤード・キップリングは帝国主義的詩人であるが、反復説の考えを白人の優越性を主張した有名な詩の最初の節で示している。
白人の重荷を背負え――
君たちが育んだ最良のものたちを送れ
とらわれ人たちの窮乏を救うために
君たちの息子たちを故国から追いやろう
きびしい仕事に耐えて
あわてふためく未開の民に奉仕しよう
君たちが新たに捕えた無愛想な人々は
半ば野獣で、半ば幼な児
第1回にもちょっと出てきた、大きな反発を呼んだマルコム・ターンブル環境相(当時)の発言を憶えているだろう。おそらくマルコム氏はこのような歴史を知らないのだと思う。
こうした形で言わば「鎧を覗かせる」ことはガイア教徒として最も慎重に避けなければならないミスである。知っていれば避けられたであろう。知っていて言ったならもちろんもっとやばい。どちらにしろかなり情けない話ではある。
もし、今世紀に興味ある新しい考えが付け加わらなかったとしたら、十九世紀の愚かさと偏見に対する一つの証明であるこの物語はそのまま続いたかも知れない。一九二〇年までに反復説は崩壊した(中略)。それから間もなく、オランダの解剖学者ルイス・ボルクがまさに正反対の理論を提出した。(中略)進化でしばしば見られる逆の過程が起こると考えてみよう。祖先の子どもの特徴は成長がひどくおくれて、成人の特徴になったと考えてみよう。この遅滞成長の現象は自然界には普通に見られるもので、ネオテニー(文字どおりに解釈すると若さを保つ)と呼ばれている。
ボルクは、人間は本質的にはネオテニー的なものだと論じている。彼は人間の成人、サルの胎児や、若いサルには共通してみられるが、親のサルには欠けている一連の印象的な特徴をリスト・アップした。すなわち、頭蓋骨の丸いこと、体の大きさのわりに大きな脳をもつこと、顔の小さいこと、頭やわきの下、それに陰部にのみ体毛が限られていること、および回転しない大きな足指(中略)大後頭孔の位置が胎児の状態を保っている
ネオテニーは反復説よりは真実に近いがそのまま信じない方がいい。今回の問題とは関係ないので深入りしないが、遺伝子と胚発生や進化の仕組みとの関係がかなり明らかになっている今では、もはや一般論に取り込まれており特別に有用な概念ではない、とだけ言っておく。*1
七十年間、反復説の支配下で、科学者たちは、成人の黒人・女性・下層階級の白人が上流階級の白人の男の子に似ているという同じメッセージを声を大にして宣言しながら、多くの客観的データを集めてきた。さて、ネオテニーから見ると、これらハードなデータは、たった一つのことを意味しうることになる。他のグループでは子どもの優れた特徴が保たれているのに、上流階級の男性ではそれが失われている。したがって、彼らは劣っているということになる。これは逃れられない結論である。
少なくとも一人の科学者ハーヴェロック・エリスはこの明白な含意にかぶとを脱ぎ、女性が優れていることを認めた。ただし、黒人については同じような告白はせずに、ごまかした。(中略)エリスはは因習を打破したり、論争的であり(彼は性に関する初めての体系的研究書を書いた)、性の違いにネオテニーの考えを応用したが、大きなインパクトを与えることはなかった。その間、ネオテニーの支持者たちは人種の差異に関連して、より一般的な、別の戦術を採用した。彼らは七十年にわたるハードなデータを放棄し、黒人の劣等性を確固とするために新しい、反対の情報を探し求めた。
ネオテニーの擁護者のルイス・ボルクは、最もネオテニー化の大きい人種は優れていると断言した。(中略)ボルクは解剖学の宝探し袋に手をつっこんで、黒人の成人が少年時代の有利なプロポーションから大きくかけ離れていることを示す特徴をいくつか引っぱり出した。これらの新しい事実によって、古い心地よい結論へとたどりついた。ボルクは「白色人種は最も成熟が遅いので最も進歩しているように見える」(一九二九年、二五ページ)と言明した。ボルクは、「リベラル」な人間であると自認していて、黒人が永久に愚かであると貶めることは拒否した。彼は、将来において進化が彼らに慈みを与えるだろうことを希望した。
いずれにせよネオテニーは今回の話題とはあまり関係がないが、科学者はその気になれば宇宙の真理からなんでも望み通りの結論を引き出せるという好例なのでここに紹介しておく。
我々のうちの誰かに存在するサル――犯罪人類学
ロンブローゾの理論は、犯罪は遺伝的である――このような議論は当時一般的であった――という不確かな声明ではなく、人体測定学上のデータにもとづいた特殊な進化理論であった。犯罪者は我々の進化的な先祖返りである。(中略)これらの人々は正常なサルや未開人がするのと同じような行動を生得的に行う。しかし、その行動は、我々文明社会では犯罪として映る。
(中略)
たとえ、ある人がサルに似ていたとしても、サルがおとなしい動物ならば、この議論は失敗に終わる。そこでロンブローゾは自分の大作(『犯罪者』一八七六年初版)の初めの部分を、もっぱら動物の犯罪行為の分析にあてている。これは、これまで出版された擬人主義の中で最もこっけいな脱線話であるに違いない。たとえば、激怒にかられてアリマキを殺し、その体をバラバラにするアリ、愛人と一緒になって夫を殺した不倫のコウノトリ、孤立した仲間を殺すために集団をなすビーバーの犯罪者仲間、メスの許しも得ずに、生殖器官の萎縮した働きアリを犯し、それに大きな苦痛と死を与えるオスアリなどを引用している。また、ある植物が虫を食べる行為を「犯罪に等しい行為」だとまで述べている(ロンブローゾ、一八八七年、一〜一八ページ)。
これは『人間の測りまちがい』から取っている話題の中で一番現代でもそのまま生き残っている部分かも知れない。さすがにアガシやブロカのようなことをそのまま言っている人を現代で見つけることはできないが、このようなあからさまな動物の擬人化の過ちは現代にもそのまま存在する。
ロンブローゾは、犯罪性が劣等な人々の中では普通の行為であることを確認するために、民俗学にまで踏みこんでいった。彼はナイル川上流のディンカ族について小論文を書いている(ロンブローゾ、一八九六年)。彼らは派手ないれずみをし、痛みをあまり感じない。思春期にはハンマーで自分の門歯をたたきこわす。彼らには解剖学上、正常な部分としてサルに似た烙印がある。「彼らの鼻は……ぺちゃんこなだけでなく、三つに裂けていて、サルの鼻に似ている。」ロンブローゾはそう語っている。
(中略)
もし、ほめることと同時にけなす特徴がなければ、彼は「原始人」たちの中に見られる明らかに価値ある行動を無視しただけだった。拷問の下に勇敢にも死んでいく白人の聖者は英雄中の英雄として扱われる。しかし同じような尊厳さで息を引きとる「未開人」については、それはたんに痛みを感じないだけであるという。
「彼ら〔犯罪者たち〕が肉体的に苦痛を感じないことは、白人だったら耐えられないあの未開人の思春期の儀式の拷問に耐える姿を思い起こさせる。旅行者はみんな、黒人とアメリカの未開人が苦痛にたいしては違いがないことを知っている。後者は、拷問のため柱にしばりつけられ、ゆっくりと火あぶりにされても、その間自分たち種族をたたえる歌を陽気にうたい続ける。」(一八八七年、三一七ページ)。
またまたインディアン。これが裏返ったらどうなるかは……そろそろ予想がついてきたのではないだろうか?
最後に知能テスト関連のことも一つだけ取り上げよう。陸軍テストというのは第20回の最初の引用にあるような学者たちが作った生まれつきの知能を測るとされたかなりバカバカしいテストのこと。
第五章 IQの遺伝決定論
陸軍テストはさまざまな社会的需要を生み出した。そのうちで、最も持続的な効果があったのは知能テストの分野であった。それは初めての筆記式IQテストであり、注目を集めた。ビネーの願いとは逆に、全ての子どもをテストし、ランクづけすることを主張した遺伝決定論者のイデオロギーを満足させるために、必要不可欠な技法を提供したのである。
別の宣伝家たちは、人種差別を擁護し、黒人が高等教育を受けるのを制限するために、陸軍テストの結果を利用した。
(中略)
一九二四年の移民制限法を通過させることになったアメリカ議会の審議では、絶えず陸軍テストのデータが引き合いに出された。優生主義者は移民を制限するためだけでなく、劣った民族の国家に厳しい移民の割り当てを課することによって、移民者の質をも変えるために圧力をかけた。――一九二四年の制限法は、陸軍テストのデータと優生主義者のプロパガンダがなかったならば決して実施されなかったし、考えられもしなかったであろう。結局、南ヨーロッパ人や東ヨーロッパ人、すなわち陸軍テストで最低点だったアルプス系の国々や地中海系の国々は当然締め出されることになる。優生学者はアメリカ史において科学的人種差別主義という最大の勝利の一つを得た。
もしかして「ふ〜ん、俺には関係ねえや」とか思ってないだろうね。ここで言う「一九二四年の移民制限法」は日本では排日移民法として知られているものだぞ。
南ヨーロッパや東ヨーロッパからの移民は減速することになった。一九三〇年代を通じてユダヤ難民はホロコーストを予測し、アメリカに移住しようとしたが認められなかった。法にもとづく割当人数や、優生学にもとづくプロパガンダによって、北部、西部ヨーロッパ諸国に対して拡大された割当人数が満たない年ですら、ユダヤ人は締め出された。チェイス(一九七七年)は、一九二四年から第二次世界大戦勃発までの間、六〇〇万人の南部、中部および東部ヨーロッパ人が割当人数によって締め出されたと計算している(移民が一九二四年以前の比率で続いたと仮定して)。我々は外国へ移りたいと望みながら行き場のなかった多くの人々に何が起こったかを知っている。破壊への道はしばしば間接的であるが、思想は銃や爆弾と同じように確実な手段となり得るのだ。
第二次世界大戦とナチズムおよびホロコーストに関しては比較的よく知られていると思うので詳しくは扱わない。まだまだ紹介したい話は沢山あるが、さすがに『人間の測りまちがい』だけで4回に及んでいるので残念だがここで終わりにする。
さて、ものすごい駆け足で約500年前から約50年前までを一気に通り過ぎてきたわけだが、どうだっただろうか。実は5万年前や500万年前にさかのぼっても面白い話はあるのだが、今後の話の流れ次第でちょっとだけ触れるに留める。
そんな時代よりもっとすごい、もっと魅力的な、もっとびっくりするような驚異の時代がもう目の前に迫っている。現代という時代が。覚悟はよろしいか。
【第22回】 【目次】 【第24回】
おまけ
男女つながり……つながりというかそのまんまだな。
コメント
木戸様、ありがとうございます。
後でよく考えたら、「黒人は走るのが速い」という言説は、誉めているのではなく、実は昔の「黒人は肉体労働専門(で劣っている)、白人は頭脳労働専門(で優れている)」という言説の延長でしかないと気づきました。
>天さん
現状図書館以外での入手はまず難しいでしょうな。最近なら結構他の図書館からも取り寄せてもらえると思うので頑張ってください。
>わんこさん
平等に価値がないってハートマン軍曹か(笑)。
その辺の話に興味があるならとりあず『黒人アスリートはなぜ強いのか?―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る』という本でも読めばいいと思いまっせ。
追加:もっとも私は人間は等しく価値が無いという意味でw、平等だと思っているので、仮に人の間に生得的に違いがあってもどうせ大したもんではない。努力で覆せないほどではないという信念の持ち主です。
本当に人種や民族の違いによる能力の違いは無いのかな。
私は現在支配的な人権、平等イデオロギーで封殺しているだけではないかと疑っているのだが。
黒人が走るのが速いとか言われていた事があるが、ああいう元被差別者が誉められる逆差別はいいのだろうか?遺伝子にほとんど違いなんか無いはずだろうに。
文系的な視点から見ても人種によって知能に大きな優劣があるという話は非常に眉唾物ですね。
アフリカの黒人は草原で狩りをしている人ばかりではなく、マリやスーダン等の黒人系の文明が存在した事がわかっています。
それらの文明は結局はヨーロッパやイスラムに侵略されてしまうのですが、その辺の理由を考えていたら以前の記事にあった「銃・病原菌・鉄」を思い出しました。
記事の中に出てくる本、特に『人間の測りまちがい』に興味があったのですが、近所の図書館には無いのが悩みです。(笑)