村井淳志『「いのち」を食べる私たち―ニワトリを殺して食べる授業 「死」からの隔離を解く』

「いのち」を食べる私たち―ニワトリを殺して食べる授業 「死」からの隔離を解く

 上の記事を見てこの本を思い出した。うろおぼえながら私なりに要約すると下のような主張。私は概ね賛同する。

 もっとも、そもそも今の子供の命に対する理解に問題があるというのは本当か、あるいは問題があったとしてそれは社会にとって悪いことなのか、というもっと以前の段階で大いに疑問はあるのだが。

 この「OUR DAILY BREAD」という映画は機会があったら観てみたいと思う。

 子供が何か事件を起こすと大人たちは判で押したように『命の大切さを教えなければ』と言うが実際どうやって教えるのか。『殺人テレビゲームを規制せよ』というような意見も出るがナンセンスだ。架空の死は古今を問わず子供にとって魅力的だった。

 問題は架空の死の氾濫ではなく、子供が本物の死から隔離されていることだ。一昔前までは病気や戦争で死に直面した人や死を覚悟した人が身近にいた。家畜を飼ったり絞めたりということも普通に近所で見られた。

 現代の都会の子供達はこのような自然な「死の教育」を受けることがない。教育がその代わりとしてできることは何か。「ニワトリを殺して食べる授業」だ。そう聞くとギョッとするかもしれない。でもなぜギョッとしなければならないのだろう。鶏は皆食べているのに。これも「死からの隔離」だ。同和問題への理解も兼ねられる。

 現実的に自分で屠殺して料理できる手に入りやすい唯一の家畜である鶏は、自分を含め命が他の生き物を殺すことによって成り立っていること、命と死を同時に理解させる最高の教育素材となりうる。

コメント

  1. より:

    神戸の事件の犯人の日記(?)などを読むと、死をかなり特別視したり、更に人の命を奪う事で自信を特別な存在にしたいような印象を受けました。
    個人的には「死」は常に隣にあるものと考えているので、その辺に強いギャップを感じた記憶があります。
    命が貴重なものとされるのは、実は簡単に死んでしまうからだと思うのですが。
    バットで無防備な人を撲*したり、包丁で人を刺し*すより、ホームランを打ったり魚を上手に捌く方が技術的にも難しいはずです。(笑

  2. 木戸孝紀 より:

    メモ。タイムリーに今年の漢字が『命』だってさ。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%BC%A2%E5%AD%97

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