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ドーキンスの『神は妄想である』の中で『千歳の岩』という名前で批判的に言及されていた本だ。
原題が『ROCKS OF AGES』だから直訳としては千歳の岩で正しいが、さすがにわかりにくすぎるということで邦題がこうなったんだろう。
実をいうと『神は妄想である』はもうだいぶ前に読んだのだが、どう言及すればよいものか迷っている。
ドーキンスの激しい一神教批判は100%正しいと考える一方、では宗教に対してどういう態度を取るべきかという部分にはあまり賛成できないからだ。
もとより微妙な問題なので、誤解を招かずに書くには相当な分量が要りそうだ。
ドーキンスはその部分で、グールドの宗教に対する態度、つまりドーキンスから見れば妥協的であり過ぎることに対して、かなり強烈な批判をしていた。
まあ確かにそうだ。こんなことを言う人間が人格的な神など信じているわけがない。グールドがキリスト教に対して理解を示しているとすれば、間違いなくある意味で妥協であり誤魔化しである。それは確かだ。
にも関わらず、宗教に対する全体的な態度として、私はドーキンスよりはグールドに近い。この本はちょうどその部分をクローズアップしたものなのであろうから、ちょうど読んでみたいと思っていたところだ。
おまけ
コメント
>kensukeさん
最後の段落以外はいまいち意味がつかめないです。グールドの不可知論は極めて普通の不可知論ですし。
>「食って寝るだけ」とか「野球」とか、別にそういう話してなくないですか?
その通りしてませんが何か、としか。
>、「わずかな例外は、進化や古生物学、あるいは野球だ」としたら、それ以外は宗教でいいんだ?
そりゃ確かによくねー! 誰がそんなこと言ってるんでしょ。
>妥協こそ真意
妥協しようというのはグールドの本心で、何か本に書いてない別の意図を隠して、ためにする「妥協」を提案しているわけではない。……という程度の意味です。
>端的に、「科学」と「宗教」は対等な概念だとお考えですか?(お察しの通り、私は「科学」が優ると考えているのですが)
激しく同意。で「対等」とか「優る」って何だっけ? ……という話。
こんばんは。
「不可知論の説明」は、ありがたく遠慮します。一般的な不可知論がすべて信仰だなどと言いたいわけではなく「グールドの言う不可知論」の話ですので。(ありゃ。はっきりそう書いてるじゃないですか私)
グールドがふたつのマジステリウムしか想定していない、という捉えかたへの批判は謙虚に受けとめようと心がけつつ、いま再読しているところです。
ということでいわば途中なんですが…とり急ぎちょっと。
>う?ん、これは違うよ全然違うよ。
以降のコメント、木戸さんの主旨は(勝手ながら)わかったつもりです。実はほぼ同意とさえ感じているのです。でも、私もグールド(少なくともこの本での)も「食って寝るだけ」とか「野球」とか、別にそういう話してなくない?ですか?
揚げ足(木戸さんの足でなくグールドの足)をとるなら、「わずかな例外は、進化や古生物学、あるいは野球だ」としたら、それ以外は宗教でいいんだ?という点でしょうか。私は「よくねーよ」と思うのです。ちなみに「妥協こそ真意」という言いかたは(おそらく私のほうが木戸さんよりかなり年上でしょうが)よくわかりません。
率直に、知りたいことなんですが…。
端的に、「科学」と「宗教」は対等な概念だとお考えですか?
(お察しの通り、私は「科学」が優ると考えているのですが)
>kensukeさん
本そのものについてはひとつ書きました。場所がバラバラになったらわけわからないので、コメントへの答えはやっぱりこっちに書きます。今後はこのコメントに書いたようなことを膨らませて各エントリにしていくつもり。
不可知論と信仰が同じに見えるというのはかなり珍しい考え方だと思う。むしろ不可知論は無神論に限りなく近いあるいはその婉曲表現として普通使われる。神は妄想であるでドーキンスだってそう言っているはずだと思うけど。これはまだどう理解できないのかわからないので何とも言えないです。不可知論の説明してくれというならできますが、それは大抵誰に聞いても一緒のはず。
>この本でグールドの言うNOMAには、どう読んでもやはり「科学」と「宗教」のふたつのマジステリウムしか存在してませんよね。
う〜ん、これは違うよ全然違うよ。これほどグールドの考え方と正反対なものはないよ。
https://tkido.com/blog/519.html
で、
>人間の身体を維持するには食べ物と睡眠の両方が必要なように、どのような全体も適切に維持されるためには、それぞれ独立した部分の本質的に異なる働きに頼らなければならない。現代的な多様性を謳歌する隣人達の暮らす数多くのマンションで、それぞれが各自の一生を充実したものにしていかねばならないのである。
って部分あるよね。グールドが人生は食って寝るだけのものだと言ってるように見える? んなわけないよね。同じく前口上の中に、
>私自身は両親たちの見解とは違って(中略)、宗教に対して大きな敬意を抱いている。この問題は、他のほとんどすべての問題以上に、つねに私を魅了してきた(わずかな例外は、進化や古生物学、あるいは野球だ)。
という箇所もある。食って寝るだけなわけないよね。「科学」と「宗教」の二つしかないとしたら、たとえば野球は「科学」と「宗教」のマジステリウムどっちに属すると言ってる? 言ってないよね。
かなり大胆にグールドが普通ならするであろう言い方を代弁させてもらうならば、「科学」も「宗教」、何千億もの銀河のなかのひとつにすぎない銀河系のなかの、過去も現在も未来もずっとバクテリアが支配している地球という星で、たまたま今ちょっと生きているホモ・サピエンスの行う多種多様な活動のひとつに過ぎないのね。
後でしようと思っている話をちょっと先取りすると(今ここで言われているような)「科学」はいろいろある真理探究の方法の中の自由主義的な方法のひとつにすぎないし、(今ここで言われているような)「宗教」もまたいろいろありうる社会・人員・思想の組織方法のうち原理主義的にやれるもののひとつにすぎないのよ。
それで今たまたま科学と宗教の話をしてるんだから「科学者じゃなければ牧師しかいない」と言っているように思えたって別にかまやしない。野球の話をしてる時にはスポーツには野球とそれ以外しかないみたいに見えるでしょうよ。
と、言うとなんかいい加減なことを言っているように聞こえるでしょうけどこれは結構本質的なことで、偶発的で本質的に何の意味もない物事に対するグールドとドーキンスの評価の違いとでもいうようなものに帰着することです。これまで2人がしてきたあらゆる論争の根本にあるものです。
>グールドの真意ではなく「妥協」の結果なのだとしたら?
の部分については、別に戦略やメタメッセージのようなものはこの本にはないです。「真意ではなく妥協」ではなく「妥協こそ真意」。その意味で「ただの妥協」と言ったのは語弊がありますね。
>kensukeさん
ちょっと最近忙しめでしたので間が空きましてすみません。明日にはちょっと返事をしたいと思います。たぶんコメントじゃなくてエントリ起こします。
こちらこそレスありがとうございます。
>少なくともグールドに信仰があったと言いたければそこで使っている「信仰がある」の定義は少なくとも一般に通じるものとかなり違う。それは自覚あるはず。
はい、自覚あります。「無神論者ではない」=「信仰がある」と定義しています。やっぱり乱暴すぎますかね。グールドの主旨が伝わっていないという意味のご指摘にも、反論できません…って言っちゃ台無しなのかも知れませんが、私にはグールドの言う「不可知論」がよくわからず、今のところ「信仰」と同じものに思えてしまうのです。そうじゃないのかも知れないと思いつつ、違いが理解できない。
ただ、この本でグールドの言うNOMAには、どう読んでもやはり「科学」と「宗教」のふたつのマジステリウムしか存在してませんよね。そこから、単純に演繹すると「科学じゃなければすべて宗教に」となります。その点はいかがお考えでしょうか。
私自身は、「倫理」の根拠はとりあえず暫定的に「思想」とでも呼ぶしかないものだと思っているのですが、思想をすべて「宗教」に放り込むのはおかしいと感じます。ナイーヴにこの本の字面を信じるなら、グールドは「庭師でもシェフでも牧師でもいいよ」とは言っていない。木戸さんもお書きのとおり、グールドは「そう言ってるように見えない」。「科学者じゃなければ牧師しかいない」と言っているように思えます。
それがグールドの真意ではなく「妥協」の結果なのだとしたら、この本は何のために書かれたのか。戦略やらメタメッセージのようなものを読み込まないと、意味がないってことでしょうか。
>kensukeさん
おおお何週間ぶりかでまともなトラバが(笑)。ずっとスパムみたいなのばっかだったので嬉しいですよ。ありがとうございます。私はドーキンスも大好きなんですが、この問題では100%グールド派なんですよ。同時にグールドのこの本は一般的な日本人にとって(ことによると欧米人にとっても)『神は妄想である』以上に理解しにくいものであるだろうということもわかっていて、どうしたもんかなあと思っています。
いずれまとまったことを書きたいのですが、クジラの続きも書きたいし、人間の測りまちがい関係も書きたいし、世界樹のリプレイもほったらかしで先に2が出てしまいそうだし、ああ時間が欲しい。この話は重要極まるのでずっとほったらかしということはあり得ませんが、今コメント欄でぱっと言っちゃえるほど簡単ではないんですよね。
とりあえず今言えそうなことだけ言っておきますと、まずグールドに「信仰があった」と言うのは無茶ですよね。少なくともグールドに信仰があったと言いたければそこで使っている「信仰がある」の定義は少なくとも一般に通じるものとかなり違う。それは自覚あるはず。そんな風に無茶に一方にまとめたくなるというのは理解できなくて不気味なものへの反応であって、やはりまだ(賛成か反対か以前に)グールドの言ってることが正確に伝わってないんだと思います。
「しかし、なぜ牧師なのだ? なぜ庭師やシェフではいけないのだ?」という言葉はなんでも宗教で解決しようとするコチコチの宗教者への批判ではあり得ても(だからその文脈で使っているドーキンスは全く正しい)。グールドあるいはNOMAへの批判にはならない。グールドは「なぜ庭師?」に対して完全に賛同するでしょう。(この本でそう言ってるように見えないのはただの妥協、ドーキンスの見方では醜悪なこびへつらい)
牧師でも庭師でもシェフでもどれでもいいときに、じゃあお前はシェフにしろとか、庭師だけは絶対ダメとかいうことは、科学は言わないし言おうとすべきでもないというのがNOMAの考え方なわけです。というか私はわざわざNOMAなんて変な名前つけちゃったの良くないと思うんですよ。言ってることはごく普通の科学哲学の一部なんですから(あまり馴染みのない部分ではあるけれど)。
ああもうすでに長い。これだけでも一エントリ分ぐらいになりそう。すぐに始めちゃった方がいいかな。対話する相手がいるうちにやった方がモチベーション上がりそうだし。
千歳の岩
スティーヴン・ジェイ・グールド『神と科学は共存できるか?』(amazon)は、
こちらのエントリで邦訳が出ることを知って、読んでみました。
私としては、ドーキンスの批判を追認するのではなく、グールドには「信仰があった」のだと確信するに至ってしまいました。まあ本人も「不可知論者である」と言っているので、嘘ついたわけではないと思いますが。
トラックバック失礼します。
これ読む前に神は妄想であるの方についてある程度書いておきたいのだけどもう16日だよね。どうしよ。
宗教がカバーしていて、科学には扱えない分野が存在し、そのため宗教を必要としている人も少なからず居るから、宗教を容認するというのが私のスタンスです。
しかし、このスタンスはドーキンス先生から見たら妥協にしかならないでしょうね。(笑)
ドーキンスは面白そうな人なので、図書館にあったら読んでみようかと思います。