「準児童ポルノ」違法化キャンペーン

表現の自由を脅すもの (角川選書)

 とかなんという話で盛り上がっているそうで。

 あまり時間を割けないので例によって『表現の自由を脅すもの』からの引用でお茶を濁す。本当に人間の本性というのはいつでもどこでも変わらないもんだなあ。

 アメリカには、どこの国とも同じように、極端にお堅い人達が常に存在した。そうした人達のことをH・L・メンケンはピューリタン――「誰かが、何処かで幸せにしているかも知れないという絶えざる恐れ」に駆られている人達――だとあざ笑った。彼らの好きな攻撃目標は、ポルノであって、神様や、後には、上品さや家庭的価値などを持ちだしてこれをやっつけた。創造論者達の場合同様、彼らは体制側知識層の嘆きや揶揄の対象になった。ところで彼らは、創造論者達がやったように、力のこもった論陣を張ったが、まともに相手にされず、永いこと無視されてきた。

 この堅物達の主張によれば、ポルノは道徳を崩壊させ、社会に脅威を与えるから有害だというのである。猥褻禁止の反対論者がしばしば指摘するのは、猥褻と芸術、いやらしいものと美しいものの境界線は、原則的にも、ハッキリさせることは不可能だということである。ハッキリできないからこそ、下品なものの禁止が、真面目な芸術にまで及ぶということになりかねない。イギリスとアメリカで、ジョイスの『ユーリシーズ』が発禁にあい、官憲によって船積み直前の本が差し押さえられ、焼かれたということが、この点に関する不朽の証拠だと、彼らは指摘したのである。

 ところで、『ユーリシーズ』を堅物達から護るという戦いは、リベラルな裁判所の助力によって間もなく勝利した。今日でも、相変わらずこうした堅物達は再浮上してきている。1989年、シンシナティの現代美術センターの館長が、ロバート・マップルソープの作品である同性愛的写真を展示したというので、裁判沙汰になって注目を集めたし、1990年には、ラップ・ミュージックのグループ「2・ライブ・クルー」が、露骨でひどい歌詞のせいで裁判に掛けられた。しかし1980年代頃には、ポルノ反対の活動家達は、もはや議論を支えきれなくなっていた。公金がからんでいる場合は別として、彼らに反対する立場の方がのしてきた。

 だが、これまた、話はこれで終わりというわけではない。ピューリタン流の道徳的恐怖に付随するか、あるいはその底にあるのは、人々や社会は、汚い言葉やひどい映像で害されつつあるという反対意見である。しかもこうした議論は、社会がポルノに対してますます容認的となってきても、なくなりはしない。その代わり、この議論は、さなぎのように繭の中で眠り、やがて前よりも強力な姿で再登場するのであった。

 きっかけはやはりポルノであった。しかしこの度は、攻撃はより精緻となり、しかもそれは、ピューリタン的道徳家からではなく、女権論者の方からやってきた。女権論者の議論は、しばし持ちこたえたが、すぐにより広範な立場に合流していった。議論の核心は、ポルノは女性を侮辱し、抑圧を助け、女性自身の権利を否定することによって女性を傷つけるというものであった。1983年、批評家にして学者でもある有力な女性論者のキャサリン・A・マッキノンが語ったところによると、ポルノは「人口の半分に対する待遇と地位を決める暴力的差別的態度や行動を生じさせるもの」である。現に生身の人達が傷つけられている。メアリ・Sとか、ベス・Wといった女性が、そうしたものに触発された犯罪人によってレイプされたり殺されたりした。そして、こうした実際の恐怖の現実があるにもかかわらず、伝統主義的男性権力構造は、性的暴力や支配の場面を売り物にするポルノ制作者の権利を保持してきた。女権論者たちには信じられないことであった。ここにも、女性の人権を蔑視する家父長制のもう一つの印があると、彼女たちは言った。

 彼女たちはいささかの成果を得た。マッキノンや他の人達に動かされて、インディアナポリス市はポルノを性差別として起訴しうる反ポルノ法を制定した。(この法律は、後に、違憲と判定された。)1989年には、同趣旨の法律案が議会に提出された。あなたが性犯罪の犠牲者であり、その犯罪と、何らかの「特定ポルノ資料」の間に関連性があることをあなたが示し得るならば、受けた損害に対してその資料の制作者又は頒布者を告訴しうる権利があなたにあるとするものである。こうした法律に関する憲法問題は今はさておき、害されたら告訴できるというこの論旨は、説得力があるように見える。

 問題は、特定個人が、犯罪者によってレイプされ傷つけられたのであって、ポルノ映画によってではなかったということである。「如何なる立派な研究や証拠をもってしても、ポルノと現実の暴力の間に因果関係があることを示し得たものはない。」デンマークのある報告によれば、「ポルノが合法化されている国では、レイプや性犯罪の犯罪率は現実に低下してきた。」何らかの特定犯罪と、何らかの特定ポルノ作品との関連性を示すことは、困難又は不可能であった。ともあれ、従来からの理論によると、あなたは犯罪者を罰するのであって、犯罪者の頭の中にあったかも知れない観念や、観念を植え付けたかも知れない人を罰するのではない。ある馬鹿が、ヒトラーの『我が闘争』を読んでユダヤ人を殺したからといって、この本の販売を法律違反にするべきだろうか。従来からの理論によれば、勿論ノーである。それならまた、誰かが聖書のカインとアベルの物語を読んで自分の兄弟を殺すかも知れない。あるいはまた、誰かが「魔法使の女は、これを生かしておいてはならない」(「出エジプト記」22章18節。原文にはないが訳者注として聖書の引用箇所を指摘しておく)とあるのを読んである女性を殺すかも知れない、さらにまた、エリシャ(「列王紀下」2章24節)の物語を誰かが読んで悪い子供達を殺すかも知れないからといって、聖書の販売を非合法化すべきだろうか。馬鹿どもが読んで興奮するような本や言葉を禁止するということは、我々の中の一番低級な輩に、我々が何を読んでいいか、何を聞いていいかを決めさせることになるのである。

 こうした問題を前にして、女権論者達は自分達の議論を拡大した。そしてここでの議論は、本書の観点からすればとりわけ興味深い。問題は、特定の猥褻本や映画に誘発された特定の犯罪によって、特定の人達が被害を被るかも知れないというに止まらなかった。問題はさらに、ポルノによって女性が一階層として被害を受けるということであった。マッキノンの言うところによると「ポルノは個々人を、つまり一時に一人という意味での個々人として、害するのではなくて、《女性》というグループのメンバーとして害するのである」。

 女権論者の見方からすれば、ポルノは強制された性の一形態、性の政治の一慣行、性的不平等などの一制度である。この観点から言うと、ポルノは本来自然で健康的な性の無害な幻想とか、堕落し混乱し歪曲された表象といったものではない。それに関連して起きるレイプや売春と共に、ポルノは男性優位の性の制度化であって、支配服従関係のエロス化と男女の社会構成を一体化するものである。男女差には性的な側面がある。ポルノはそうした性的側面の意味づけをする。男性は、自分本位の見方から女性を取り扱う。ポルノはそうした見方を作り上げる。

 別の言葉で言えば、ポルノは男性の女性支配を表現するものとして、男性優位の倫理を伝え、それを現実化する。従ってポルノはそれ自体において女性を抑圧するものであって、ポルノに刺激されて犯罪が起きたかどうかとは別問題である。

 それでは実害の証拠を出せとあなたは言うかも知れないが、あなたはそれがあると期待してはならない。何故なら、ポルノの実害の一つは、それが引き起こす損害を隠蔽するところにあるからである。「そもそもポルノが男性優位の行為だとすれば、その害は、男性優位という害であって、それがあまりにも広範でかつ強力であり、世界をポルノチックな場所にすることに成功しているから、ちょっとやそっとでは見破れない……ポルノが社会的現実を構成するのに成功している程度に応じて、害は不可視的となる。」ポルノによって構成された世界では、ラディカルな女権論者でない人達には、ポルノの害は見ることができない。それはちょうど魚にとって水が見えないのと同様である。それでは、女権論者の主張するようなポルノの実害があるとすれば、それを我々はどうやって知るか。現に害はあるに相違ないのである。ポルノはまさにその本質上、つまりそれが表現するイメージや、それが醸し出す心理的雰囲気によって、抑圧的である。

 興味深い点がここには含まれているので、もう少しこの話を続けよう。言論の自由に関する標準的理論に反対する古い苦情によれば、言論の自由は人々に有害なこと(例えば、「汚い便座からエイズを貰うことがあり得る」といったようなこと)を勝手に言わせることになるというものである。そして古い答えによれば、「有害」は観察者の判断であるに過ぎず、有害な行為というのだったら罰せられるべきであるけれども、言葉や表現されたイメージは、意見や思想の担い手であって、それは別物だというのである。私は口で、「共和党員は一網打尽にして撃ち殺すべきである」と言うことはできても、現実にそうできるわけのものではない。さてそこで、議論の建て方が様変わりしてくる。マッキノンは、前述の引用箇所や別の所でも、哲学者ばりの抽象的理屈を弄して、ポルノが害を惹起するのではなくて、ポルノ自体が害なのであると言う。ポルノは暴力である、とりわけ女性に対する集団的暴力である。そうだからこそ、マッキノンは繰り返し繰り返し、ポルノのことを、一行為として書いてきている。それは、「男性優位の行為」であり、女性差別的社会秩序の「精髄をなす社会的行為」であり、「一つの政治的実践であり」、「強制された性の一形態」であって、「思想というより行為というべきもの」、「性差別の一つの実践」等々であると言っている。

 話すことと行動することは別だとする古いそして確かに時にはややこしい区別は、こうした理論建てによって消し去られつつある。しかも単に理論としてというだけではない。1980年に、アメリカの雇用機会均等委員会は、女権論者の法理論家達に影響されて、職場での言論が、市民権法に照らして処罰しうるセクシャル・ハラスメント(性的嫌がらせ)に当たるかどうか決めるための三条件を採択した。これらの条件のうちには、問題の発言が「威圧的、非友好的、又は不快な職場環境」を生み出すかどうかというのがあった。もしある発言が、誰かにとって不愉快な社会状況を生み出したら、もはやそれは単なる言葉でなく、(あたかもポルノが一つの抑圧行為であるのと同様)嫌がらせの行為であると、この委員会は言っているように思われた。

 だからここには、イメージや表現や言葉などが、実際上、加害や暴力の一形態となり得るという理論があった。この理論に注目して頂きたい。そのうわべの顔を忘れないで欲しい。じきにまた出くわすことになるからである。

 ある人達は、あらゆる反対の証拠があるにもかかわらず、そして世間のあらゆる嘲笑にもかかわらず、ある信念に固執することができる。それが称賛に値することもあれば、そうでないこともある。ナチにはユダヤ人絶滅政策なんて無かったという議論に命を懸けたある人が、かつて記した。「私は朝起きるとタイプライターに向かい、最高に凄い意味合いを含んでいる最も単純な事柄を書き留める。全ての歴史家がどのように間違っているか、学者やインテリや大学が皆いかに間違っているか、そして私が正しいということについて記す。」しばしば確信的な信仰者は超自然主義、つまり証拠がないということこそ、そのことの証明だという確信を持ち出す。奇跡には証拠がないというのは、最もよくある超自然的議論の一つであり、奇跡は奇跡だということを示すものに他ならない。ポルノは必ずや、女性に対する暴力を生み出すということについて証拠がないというのも、さらに巧妙な同工異曲の言い方であって、加害を覆い隠す男性優位社会の力を確証するものに他ならない。覆い隠されているからといって、害は害である。古典的な陰謀説として罷り通っている、ユダヤ人は世界経済を支配しているということに証拠がないというのも、いかに巧妙にユダヤ人組織がその痕跡を覆い隠しているかということを示しているに他ならない。他の一切が潰えたとしても、超自然主義は、打倒困難である。

現実に人達が傷つけられている。だから保護行動は道徳的絶対命令である。」人々の感情が害されたというのは、否定の仕様がない。しかし、人の感情を決して傷つけてはならないという運動の明白な弱点の一つは、ポルノ反対運動が常に覆い隠さなければならない弱点と同じであるが、それは人を傷つける言論や意見というものが、感情を害したという以外に、現実にどんな具体的、客観的な害を与えたかを全く示すことができないということである。さらにまた、言葉で「傷つけられた」と言えるには、どれくらい深刻に感情が害されなければならないのか、また人を傷つける言葉の被害者が現に本人が主張するほど酷く害されているかどうかを、どうやって述べればいいのかを定めることも、彼らにはこれまでなし得なかったのである。そもそも傷つける言葉とイライラさせる言葉をどうやって区別するのか。

 私の意見では、ラシュディー事件は、一つの転換点を表している。まさにこの地点から二つの方向のいずれかに進むことができる。しかし立ち止まっていることはできない。

 ホメイニの指令は二つの部分を持っている。それは、宣告、すなわち死の宣告であり、その犯罪は、すなわちイスラム教徒を傷つけたというものである。この指令に対してなされうる多くの反応のうち、二つが特に傑出している。一つは、こんな宣告なんか撥ねつけちまえ、というものであり、二つ目は、こんな犯罪なんか撥ねつけちまえ、である。

 もし犯罪の方を撥ねつけるとすれば、ラシュディーは何も悪いことをしなかったと言える。もし彼が別に何も悪いことをしなかったと言うならば、当然の帰結として、人を傷つけたとされる他の人達――例えば他のアメリカ人を傷つけたとされるアメリカの人達――もまた、何も悪いことはしていないと言わねばならぬ。ある人達はこの立場を取った。しかしこの人たちの中には、主だった西欧の宗教指導者達は入らなかった。パイプスは書いている。「如何なる指導的宗教人や宗教組織も、ラシュディーの困っている時に彼を支持しなかった。」アメリカ政府もまたこれには加わらなかった。大統領の声明は次の通りである。「この本が如何に忌まわしいものであるとはいえ、殺人を教唆し、殺人の実行者に褒美を与えるというのは、文化的行動の基準からして、極めて忌まわしいものである。」この発言の趣旨は、あまり頂けない。つまり、同書は〈忌まわしい〉、死刑の脅かしもまた〈忌まわしい〉、だが一つの忌まわしさはもう一つの忌まわしさを正当化するものではないと言っているようである。

 もう一つのやり方は、この宣告を野蛮で行き過ぎとして撥ねつけるが、犯罪そのものは撥ねつけないというやり方である。人の心を傷つけた人達は、多分追い出すか、公衆の面前で辱めるか、仕事を辞めさせるか、強制的に黙らせるかすべきであるが、しかし、死刑にするというのは、万引きで人の親指を切り落とすようなもので、これはあんまりであるというのである。これこそ大多数の西欧のインテリが選んだか、あるいは今選ぼうとしている道である。もしこの道に従うならば、我々はホメイニの判定を承認したことになり、ただ宣告の量刑についてのみ言い争うということになる。もしこの道に従うならば、我々は、原則的に言って、心を傷つけるようなものは抑圧されるべきであるということを受け入れることになり、それでは心を傷つけるものは何か(ポルノか、ロバートマップルソープの同性愛写真か、黒人に対する誹謗か、ダーウィンの進化論か、共産主義か)を巡って争うだけとなる。

おまけ

 大丈夫、これならエロくない!

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    >maangieさん
    そのようです。確認したら原著では、

    the rap group 2 Live Crew

    日本語版では

    ラップ・ミュージックのグループ2「ライブ・クルー」

    となっていました。

    翻訳の時点で勘違いかミスが起こり、
    私は、芸能オンチなのでそれに気がつかず、
    単なる誤植か何かだと思って2を削除していた、
    ということだと思います。

    ご指摘感謝します。

  2. maangie より:

    こんにちは。いまさらですが、質問です。
    引用文中の「ライブ・クルー」は「ツー・ライヴ・クルー」のコトでしょうか?
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC

  3. [思想・哲学・心理学][応答][法]差別する側としての公権力…

    差別は人権侵害の「事実」か? 差別は、人権侵害の「事実」であって、「意識」や「心理」を差別と決め付けることは大きな間違い。 市民を差別者扱いし、差別意識や心理的差別を問題…

  4. 木戸孝紀 より:

    まったくですな。私もそう思います。

  5. Liber より:

    コメント部に比べて引用部が量的にも質的にも長すぎる。引用の要件をみたしてないんじゃ?

  6. Gungnir より:

    気に入らない物の存在を許さない。
    その存在を容認する者も許さない。
    それを正当化するために弱者とされる人たちを持ち出して正当化する。
    恥も外聞もない。
    これもまた、宗教戦争の一環ではないのか。

  7. 木戸孝紀 より:

    >名無しさん
    うーん、ごめん。こちらもコメントの意図がよくわかりません。絶望先生は好きですよ。

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