『鳩山法相の死生観』を真剣に読めば死刑問題がわかる その1

死神くん (1) (集英社文庫―コミック版)

予習用資料と前置き

 宮崎勤の死刑執行や朝日新聞の死に神コラムをきっかけに再燃している死刑問題。ガイア教シリーズの途中なので、これに中途半端に触れると「なんでも宗教で片づけようとすんなよ」とか誤読されるのが嫌で黙っていようと思ったのだが、そうもいかない気がしてきた。むしろこっちでしっかり説明しておいて、向こうから参考リンクとするのが全体としてよい形になりそうだ。

 ガイア教の天使クジラと表裏一体をなすシリーズと思って読んでもらいたい。ただしこちらはそこまで長くはならない。(4,5エントリ分を予定している。)ちなみに、こちらではネタバレしても別につまらなくなることはないので最初に言っておくが、私は死刑は即時全廃すべきと考える完全な死刑反対派である。

「二つの文化」

 この世に犯罪などというものがなかりせば、死刑どころか刑罰などというものについて議論する必要もあるまいに、残念ながら犯罪は常に存在する。いまだかつて犯罪なしですませえた社会もなければ刑罰なしですませえた社会も存在しない。今後も予想しうる未来にわたって決して存在しないだろう。

 殺人や処刑には強烈な生理的嫌悪感が存在する。平時はもちろん、生きるか死ぬかの戦時下においてでさえそうなのだ。(参考)なぜそうなのかは今回の主題から外れすぎるので問わないが、これはホモ・サピエンスである限り誰も逃れえない。全人類共通である。殺人犯の死刑は社会の矛盾の最たるものだ。

 矛盾のない社会は存在せず、矛盾を矛盾のままに持ち続けることも実際上不可能であるから、社会はこの常に生じてくる矛盾を常にどうにかして片づけ続ける必要がある。これもまた人類共通である。

 ただし、その矛盾を片づける方法は人類共通ではない。大きく分けて二つの方法がある。

  • より高次の善、すなわち神もしくはその意志を執行する法の名の下に正当化する
  • 他人に押しつけてその人間を差別し、自分は関係ないと見て見ぬふりをする

 のいずれかである。欧米キリスト教文化は前者の代表選手であり、日本文化は後者の代表選手である。世界には欧米と日本しか存在しないわけではないが、日本人は大概そうとしか思っていないし、今のところ他のどこかでまったく違う第三の道が知られているわけでもないので今回はとりあえずこれで十分としておく。文句があれば聞く。

「死の穢れ」

 日本文化では死は“穢れ”である。死に関わるもの全てが穢れる。無辜の民を殺害した犯罪者なら言うに及ばず、死刑を執行する刑務官もそう、執行の命令書にサインする大臣もそう、もちろん被害者もその遺族もそうだ。死の穢れが感染しないように遠巻きにして、「これは道真公の祟りでっしゃろか?」「いやいや前世でなんぞあくどいことでもされはったんでしょう」とか横目で見ながらヒソヒソ噂話でもするのが、凶悪犯罪の被害者・遺族に対する「正しい」扱いかたである。

 このような文化は現在でも、マスメディアやネットを使って行われるようになっただけで、まったく変わっていない。社会の精神構造は技術の進歩に比べて非常にゆっくりとしか変化しないのだ。ようやく最近になって、さすがにそれでは被害者に対して酷すぎるのではないかということに気づいて、被害者保護の動きが盛り上がってきてはいる(いいことだ)が。

 ではこの文化において民草*1は死刑に対してはどのような態度を取るべきか。死刑執行などというものは見て見ぬ振りをして、あたかも存在しないかのごとく振る舞うのが「正しい」あり方である。なぜならそれは穢れだから。犬猫を殺すことですら、その穢れをおおっぴらにするのは村八分に値する言語道断な行為なのである。(参考)たとえどんな凶悪犯であったとしても人間ならば尚更だ。

 だから今回よく聞かれる死刑廃止派の「お前ら死刑存置派も本当は死刑が正義だなんて思っていないから、内心後ろ暗いところがあるから隠したがるんだろう」というタイプの批判は間違いだ。自分が批判している相手のことが分かっていない。

 たとえ死刑に賛成であっても、100%死刑が正義と考えていても、依然としてそれは穢れなので、やはり隠すのが正しいのである。新聞で揶揄するなどというのはもちろんのこと、官報に単なる執行の事実が掲載され、ニュースで報道されることですら「本当は」ルール違反なのだ。

 「ちょっと待てそれは民主主義社会のルールと相容れないじゃないか!」と思うだろう。(いや、思わないようでは困る。思ってくれ!)もちろんその通り。相容れないのである。近代的な民主主義や人権の概念はキリスト教文化に多くを負っているのだから、日本文化から来るルールが民主主義社会のルールと相容れないのは当然である。

 ただし、ここを誤解してはいけないのだが、欧米キリスト教文化から来るルールなら民主主義社会のルールと矛盾しないのかというとそういうわけでもない。そもそも近現代の文明生活はどのホモ・サピエンスにとっても自然には達成できない「異常な」活動なのだ。

 遺伝子の進化は文明の発達に比べてほとんど無視できるぐらい遅い。我々のゲノムは文明生活など「知らない」。生物としての人間は今でもサバンナやジャングルで狩猟採集生活をする「つもりで」生まれてくる。近現代的な哲学を正しいと信じさせ、文明生活を実行させるには誰に対しても教育が必要なのである。その教育のやり方が文化によって異なり、特定の問題に対する態度にも違いが生じうるだけだ。

 ともあれ、我々現代日本人は“穢れ”等の伝統的概念を暗黙的・私的にしっかりと受け継ぎながらも、同時にそれを悪い・遅れた・否定されるべきものであると考えるように、明示的・公的には教育されている。言うまでもなく矛盾したことであり、ジレンマを生む。我々日本人1人1人の頭の中に生じているねじれである。直感的に感じた通りを言い、行えば何も矛盾はないのに、それはもはや許されていないのである。

 この現代日本人の陥っているジレンマは、強固な一神教文化の伝統の上に中途半端に東洋思想を接ぎ木しようとしてねじれた事態に陥っている欧米のニューエイジャーたちのジレンマと完全な鏡写しの関係にある。このシリーズがガイア教シリーズと関わりを持ってくるのはまさにこの点を通じてだ。死刑問題を解くにはこのねじれを知らねばならない。(つづく)

*1:このシリーズでは欧米キリスト教文化の「市民」とは異なる、日本文化下の個人を表す語としてこれを使うことにする。

おまけ

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