ガイア教の天使クジラ22 スティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』 3/4

人間の測りまちがい 下―差別の科学史 (3) (河出文庫 ク 8-2)

第21回】 【目次】 【第23回

 スティーブン・ジェイ・グールド『人間の測りまちがい』を先に進める。

ルイ・アガシ――アメリカの多起源論の理論家

 私は二人の著名な多起源論者にしぼって話を進めようと思う。一人理論家のアガシであり、もう一人はデータ分析家のモートンである。まず手始めに、私は、かくされた動機および、その支えとなった中心的データのごまかしの双方を掘り起こしてみたい。いぜんとして奴隷を使い、原住民を故郷の土地から追い出している国が、黒人とインディアンは白人とは別の種であり、劣等だという理論の基礎づくりをしたのは決して偶然ではない。

(中略)

 アガシは一八五〇年の『クリスチャン・エグザミナー』で人種に関する大論文を公にしている。彼はこの論文を始めるにあたって、多数のアダムという説を唱えることで不信心者だと彼を非難するであろう神学者、また、奴隷制の擁護者というレッテルを彼に貼るかも知れない奴隷制廃止論者、このいずれをも煽動家であるとしてしりぞけている。

 ここに提唱した見解に対して、それは奴隷制を支持することになるとして非難されるが……それは哲学的研究に対する公正な反論であろうか。ここでは人間の起源の問題についてのみ論じられるべきである。その結果に対して、政治家や、社会の管理を求められていると自認している人々に自分達が何をなしうるかを見せてやろう。……とはいえ我々は政治的内容を含むいかなる問題ともかかわりあうことは拒否する。(中略)」(一八五〇年、一一三ページ)

(中略)

 アガシは自分の研究が自然誌の客観的探究であり、正当なものであるとはっきり述べていたにもかかわらず、この論文の終わりに近づくと、突然立場を変え、道徳的要請を持ち出す。

「地球上では、いろいろな場所に、さまざまな人種が生活している。彼らは肉体的にも特徴が違っている。この事実は……科学的観点から、これらの人種を相対的にランクづけ、それぞれ固有の特徴を相対的に評価する義務を我々に課する。……哲学者としてまともにそれをさぐるのが我々の義務である。」(一四二ページ)

 人種の価値に差があり、それが生得的なものだという直接的証拠としてアガシが試みに持ち出したのは、コーカサス人種の文化のステレオタイプ以上のものではなかった。

支配されうることのない、勇気ある、自尊心の高いインディアン――服従的で、こびへつらい、ものまね好きな黒人、あるいは油断のならない、ずるく、ひきょうなモンゴル人種、それらに比べてインディアンはいかに違った光の下に立っていることか。この事実は自然では異なった人種を同一のレベルにランクづけられないことを示していないのだろうか。」(一四四ページ)

 以前誰かが、捕鯨反対派の鯨の見方を「海の白人」と言っているのを見たことがあるが、これは私にはかなり違和感がある表現だ。鯨を擬人化したがるのがガイア教の性質であることは確かだが、それは一般的な傾向であって鯨に限った話ではない。なんと言っても地球を擬人化しているのだし。

 何よりガイア教徒は一般に自分たち自身が嫌いである。ラッセンの絵画に人間が決して登場しないのは、醜い人間の姿などわざわざ金を払ってまで見たくないからだ。自分たちのイメージを鯨に近づけることは好き*1でも、鯨のイメージを自分たちに近づけたがることはあまりありそうにない。

 あえてガイア教における鯨を天使でなく人間で表すならば、「白人」よりも「インディアン」の方がはるかに妥当に思える。

 本筋を外れるのであまり追及しないが、ニューエイジ系*2のトンデモさんが好意を寄せる時のネイティブアメリカンの記述は、ガイア教において描かれる鯨の姿と瓜二つであることが、ままある。*3

 もちろんネイティブアメリカンの人々に、特別*4動物に似ているところなど何もない。同じ人たちが自分の勝手な理想像を投影しているからそうなるのである。

 その流れで南半球に目を向けるなら、オーストラリアやニュージーランドのガイア教徒がアルビノのザトウクジラにアボリジニの言葉で名前を付けるのは、私にとっては極めて自然な現象である。多くの反反捕鯨派が言うような倒錯には見えない。*5

 どのように客観的にランクづけされようが、黒人はその梯子の一番低いところを占めるに違いないとアガシは断言する。

「すべての人種が同じ能力をもち、同じ権力を享受し、同じ自然の配置を示すと仮定し、また、このように平等であることから、すべての人種が社会において同じ立場で権利を与えられると仮定するのは、偽りの博愛主義であり、偽りの思想であると思われる。そのことは歴史が物語っている。……このアフリカというコンパクトな大陸には、白色人種と絶えず交流し、エジプト文明、フェニキア文明、ローマ文明、アラブ文明の恩恵を享受してきた集団がみられる。……それにもかかわらず、この大陸には、黒人によって統制された社会は育たなかった。このことは文明社会がもたらす利点に対して、この人種はもともと無関心で、無頓着であることを示しているのではないだろうか。」(一四三〜一四四ページ)

 アガシは自分の政治的態度を明確にしなかったが、特別な社会政策を提唱してこの論文をしめくくっている。彼によれば、教育は生得的能力にあうようになされるべきだという。黒人には手作業、白人には知的作業というように。

 根本的に差異のあるさまざまな人種に対して与えられるべき最良の教育とはどのようなものだろうか。……平等という名目の下で有色人種を扱うよりも、むしろ我々と彼らの間に存在する真の差異を十分に認識し、彼らの中に顕著に印された気質を育てたいと願いながら彼らと交流するならば、彼らに関する人間味ある行動を思慮深く行うことができるであろうということに我々は少しも疑問をもっていない。」(一四五ページ)

「顕著に印された」気質とは、柔順に人に従い、すぐまねをするというものであるが、この表現からアガシが心に抱いたことがどのようなものか、容易に想像することができる。私がこの論文をくわしく取りあげたのは、これが、社会政策の提唱が科学的事実の冷静な探究として述べられている典型的例であると考えたからである。この戦略は今日でも決して死んではいない。

 南北戦争のただ中で書き続けたその後の手紙で、アガシはもっと強烈に、もっと長々と自分の政治的見解を示している(中略)。アガシは自分の立場を長い熱烈な四通の手紙で論じた。アメリカで黒人の人口が増加し、永久にそれが続くことをきびしい現実として認めなければならない。立派な誇りに支えられたインディアンは戦いで死ぬであろうが、「黒人は生まれつき、言いなりになる性格ですし、環境に同化しやすく、一緒に生活する人のまねをします。」(一八六三年八月九日)

 ほらまたインディアン。今後見てもらう機会があるかわからないが、捕鯨によって「誇り高く死ぬ」鯨はガイア教の大のお気に入りのモチーフだ。

 そもそもインディアンのイメージが黒人のイメージとかなり違っていた、ということを知っている人は日本じゃあまりいないのではないだろうか。どちらも差別されていた*6としか思っていないのではないかと思う。私も初めて読んだときはかなり意外だった。

 法律上の平等はすべての人に許されるべきだが、社会上の平等を黒人に与えるべきではない。でないと、白色人種は黒人と混りあい薄められてしまう。「社会上の平等などいつの時代にも実行不可能だと思います。それは黒色人種の性格からみて当然のことです。」(一八六三年八月一〇日)というのは、「他の人種と違って黒人は怠けもので、遊びずきで、感覚的で、すぐ人のまねをし、卑屈で、お人好しで、きまぐれ、目的が変わりやすく、何にでも夢中になり、ほれこみます。彼らは子どもの心のまま大人の背丈になった子どもと比べうるでしょう。……ですから、社会的混乱をまねくことなしに同じ一つの社会で白人と平等に生活するのはむずかしいと思います。」(一八六三年八月一〇日)黒人は統制を受け、制限されるべきである。社会的特権が無分別に与えられると、あとで不和の種をまくことにならないように。

「資格がないのにそれを使う権利をもつものなどいません。……黒色人種に対して、はじめに余りにも多くのものを与えすぎないよう気をつけるべきでしょう。そうでないと、我々の不利にもなり、彼ら自身の損害にもなるような使われ方をする特権のいくつかをきびしく撤回することが必要となります。」(一八六三年八月一〇日)

 アガシにとって、混血によって人種が混りあってしまうことほど恐ろしいことは考えられなかった。白人は黒人と別々になっているから強いのである。「混血は、文明社会での近親相姦が人格の純潔さに対する罪であるのと同じように、自然に対する罪です。……人種混交の考えは、私たちがかかえる困難の自然な解決になるどころか、私にとってはただただ、おぞましく感じられることですし、あらゆる自然な感情の悪用です。……いずれが私たちのよりよい本性、また、より高い文明やより純粋な道徳の進歩と相容れないかを調べる努力を惜しむべきでぱないと思います。」(一八六三年八月九日)

(中略)

 最後にアガシは、混血し、弱められた人々の究極の危機を警告するために、強烈なイメージとメタファーを結びつけている。

「もし、この合衆国に、祖先を同じくする国々から渡ってきた雄々しい人々に代わって、白人の血が混った混血人種、ハーフのインディアン、ハーフの黒人など女々しい子孫が住むようになったら、共和国の制度や、ひろく私たちの文明の将来がどうなるか、その重大な変化を少し考えてみまししょう。……私はその結果に身震いを感じます。すでに私たちは、進歩の過程で個人的名声、上流社会で育てられてきた上品さや文化という宝を保持することがむずかしくなるとして、普遍的平等の影響に反対して戦いをいどんできました。もし、これらの困難に、よりはるかに頑固な肉体的無能力の影響がつけ加わったら、私たちの状況はどうなるでしょうか。……いったん、下等な人種の血が、私たちの子どもたちの血の中を自由に流れるようになったら、どのようにして、その下等な人種の汚れを根絶したらよいのでしょうか。」(一八六三年八月一〇日)

 アガシは解放された奴隷に法律上の自由が与えられると、人種間にきびしい社会的分離を早急に実施しなければならなくなると結論する。幸い、自然は倫理的美徳をたずさえている。選択の自由を持つ人々は自分たちの生まれ故郷に似た風土の方へと自然に引きつけられる。(中略)純粋な黒人は衰え絶えるような住みにくい北部を離れ、南部へ移住するであろう。「不自然な足がかりしかない北部では、彼らがだんだんと死に絶えることを願います。」(一八六三年八月一一日)

 うーむ、150年前だから当たり前とはいえ、ひどいですな。でもただ単にひどいひどいと言ってるだけじゃだめだ。

 この部分はむしろ、自分がアメリカに住む白人になったつもりで、たとえばルイ・アガシが自分の曾々爺さんででもあるつもりで読んでほしいのだ。

 このひどさに責任を感じ、居心地の悪さを解消するために、どうにかして汚名返上したいと思った時、一体どうなると思う? 今から頭の体操をしておこう。きっと後で役に立つ。

第三章 頭の測定

ポール・ブロカと頭蓋学の全盛時代

 事実を認識している理性的な人は、普通の黒人が普通の白人と同等であるとか、いわんや優れているとは信じていない。そして、もしこれが真実であるとしても、黒人のさまざまな制約が取り除かれ、保護者も制圧者もいないフェアな戦いが行なわれた場合、顎の突き出たこの我々の近縁者が、大きな脳と小さな顎をもったライバルに対して勝利をおさめるとは信じがたい。この戦いは思考が武器であって噛みつき合いではないのだ。――T・H・ハクスリー

(中略)

 進化理論は人種単起源論と多起源論の熾烈な論争を支えていた創造論の足場をとっぱらったが、両派の共有した人種差別主義により有効な理論的根拠を提供することになり、両派を満足させた。(中略)人類学史家としてジョージ・ストッキングはつぎのように述べている(一九七三年、lxxページ)。「一八五九年以後この知的緊張関係は、単起源論かつ人種差別主義である包括的進化主義によって解消された。この進化主義は黒い皮膚の未開人をサルの近くに位置づけることによって、人類の単一性を主張した」と。

(中略)

図3・3

 解説用として各グループを代表する個体を選別するとき、全くひどい実例が沢山ある。三十年前、私が子供だった頃、アメリカの自然史博物館の人間展示ホールには、サルから白人へと一直線に並んださまざまな人種の特徴が展示されていた。この時代までは、標準的な解剖学的例示として、チンパンジー、黒人、白人の順にそれらが描かれていた。たとえ、別の個体をもってきて比較すると、違う順序――チンパンジー、白人、黒人――になるくらい白人や黒人の個体変異は大きくてもである。例えば一九〇三年にアメリカの解剖学者E・A・スピッツカは、「著名人」の脳の大きさと形に関する長い論文を発表した。彼は一四二ページにかかげた図(図3・3)を示し、「キュヴィエやサッカレーからズールー族やブッシュマン族への飛躍は、後者からゴリラやオランウータンへの飛躍ほど大きくない」と評した。(一九〇三年、六〇四ページ)。

 わかりますよね? 第一の存在の大いなる連鎖が崩れ去ると同時に第二の存在の連鎖にバトンタッチがなされた瞬間です。

 今回は数字の詳細に分け入っても仕方がないので大幅に省略しますが、要するに一生懸命脳の大きさを測定しては、いろんな偏見に基づく操作を加えて、やっぱり白人の脳は大きかった! 白人は進化した人類だったのです! だから(以下略)! めでたしめでたし、とかいうことをやっていたわけです。

図3・5

 あと、別に言わなくても忘れないだろうけど、この脳の図を上の引用部のものと合わせて憶えておくと、後でいいことがあるでしょう。もうちょっとだけ続きます。

*1:アオソラ・ルカさんと愉快な仲間たちを思い出せ。
*2:ガイア教もその一派に属する。
*3:参考:一万年の旅路―ネイティヴ・アメリカンの口承史:10万年前から語り継がれてきた物語:小鳥ピヨピヨ
*4:単に、人類全体として、数千万年前の同じ哺乳類を共通祖先に持つから似ているという以上に。
*5:参考:痛いニュース(ノ∀`) : 【クジラ】「日本は世界で1頭の白クジラも殺しかねない」 恐れるオーストラリア人たち…豪・英メディア報じる – ライブドアブログ
*6:それはそれで、もちろんその通りなのだが。

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おまけ

 ちなみに私は当時の分類では「油断のならない、ずるく、ひきょうなモンゴル人種」でございます。

コメント

  1. 木戸孝紀 より:

    >匿名希望さん
    インディアンと磔刑の関係というのがよくわからないです。捕鯨と磔刑ならわかりますが(14回参照)。
    >通りす がり
    そうなんですよ。アメリカの映画やテレビドラマなんかの記憶辿ってみても(もちろん黒人差別の気配は減少もしくは消滅に近づいてるけど)大抵違和感なく納得できるでしょう。こんなに古い傾向だったとは知らなかったけど。
    >わんこ
    そりゃ黒人差別の意識を持ってる人は今も一杯いますとも。それを地位のある人物が堂々と根拠があると信じて言えたってことが重要。アガシは白装束被って匿名で発言してたわけじゃあないのですよ。

  2. わんこ より:

    実は私にはアガシの主張がひどいとは全然思えない。
    そんな私は差別主義者w。
    ただエセ科学で根拠付けようとしたから
    みっともないだけで。それを除けば
    至極保守の真っ当な主張だと思う。
    2CHの捕鯨スレにリンクが貼られていたのできたのですが、おもしろく読ませて頂いています。

  3. 通りす がり より:

    >インディアンのイメージが黒人のイメージとかなり違っていた
    トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』にもインディアンの女性と黒人の女性が登場します。
    前者は貴族的に、後者は子供っぽく描かれていました。
    当時は何の違和感もなく読み流していましたが、今思い出すとなるほど、といった感じです。

  4. 匿名希望 より:

    インディアンという理想像に、キリストの磔刑に似た構造が背後に見えたような気がしたんですが考えすぎですかね。
    脳の大きさの順列、チンパン・黒人・白人とくると次にくるのは……
    いつも面白く読ませていただいてます。

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